もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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川野芽生『Blue』 割り当てられた性と、社会と、自分自身についての対話たち

歌人でもある新鋭の芥川賞候補作

 

川野芽生『Blue』は雑誌『すばる』2023年8月号「トランスジェンダーの物語」特集における発表当初から話題となり、芥川賞候補ともなった小説だが、作者のキャリアはこの前置きからすれば少し意外なものかもしれない。

作者の最初の本は歌集で、第29回歌壇賞を受賞した短歌を収めた2020年のLilith。そして次に刊行された『無垢なる花たちのためのユ-トピア』は、皆川博子がコメントを寄せる幻想文学の短編集だ。初の長編『奇病庭園』幻想文学寄りのもので、もともとは歌人かつ幻想文学の新鋭として知られていたことになる。

今回紹介する『Blue』は、日本のいわゆる「純文学」、つまり芥川賞三島由紀夫賞にノミネートされるタイプのスタイルとフォーマットで書かれた小説だが、例えば作中作として登場する舞台「姫と人魚姫」の脚本に用いられた文体などは、作者の幻想文学作家としての側面を伝えるものでもあるだろう。

 

(中盤までの内容に触れています)

今回紹介する『Blue』の舞台となるのは、まずは高校の演劇部。主人公の真砂をはじめとする部員たちは、アンデルセンの童話「人魚姫」を独自に翻案した演目を計画している。脚本担当として部外から連れて来られた滝上ひかり(通称「先生」)によるアイディアは、人魚姫が人間の王女に恋をするというものだった。主人公であり、出生時には男性という性別を割り当てられたものの学校では女性として生活している真砂は、この劇で人魚姫役を自ら希望する。

小説の前半は、演劇部員たちによる、この「人魚姫」についての会話がほとんどだ。先の二名の他に部長で演出を担当する宇内、王女役の水無月、魔女役の栗林といった面々が、時には原典の人魚姫について、そして翻案となる自分たちの人魚姫の物語について考え、意見を交わしながら演劇を作り上げていく。

原典における王子のポジションを王女に変更し、その王女に恋する人魚姫の物語を作り上げていく過程で、部員たちの対話はおのずと恋と愛情、そしてジェンダーと権力についてのものとなる。そしてそれに重ねられるように、出生時に割り当てられた性とは別の性を生きようとする真砂のこれまでの人生が描写される。

 

そして小説の後半は、前半で語られた時期から二年後、高校を卒業している部員たちが、「姫と人魚姫」の再演計画をきっかけに再び集合するところから始まる。

部員たち前に久しぶりに現れた真砂は、今では眞青(まさお)と名乗り、女性として生きようとすることを辞めていた。

その理由となった出来事や変化は、ひとつではない。それは例えばコロナ禍における医療機関の停止であり、親の態度の微妙な変化であり、そして大学に入って出会い、主人公にとって非常に重要な存在となった、ある他者の存在である。

そしてまた主人公に決断を強いるものは、日本の具体的な医療保険制度であり、また慣習的な就職のシステムであり、ひいては心理的でも経済的でもある社会規範(とされるもの)の全体だ。

そのような真砂=眞青の痛みに満ちた変化が語られながら、それを受け止める演劇部員たちそれぞれの現在の姿も、また切実なものとして描かれていく。

 

(以下の引用部分は、主人公・真砂に対して同級生の宇内が乳房切除手術に関して訊ねるシーン。またここに登場する「先生」は、教師ではなく同級生の通称)

ひそかに収集してきた知識を一気に並べようとする真砂を手で制して、宇内は俯いたま言った。
「性別違和? があるというわけでは多分ないんだ。いやわからないけど、男になりたいというのとは違うんだと思う。ただ自分の体が嫌いというか、自分のものに思えないだけ」
「……手術できたとしたって、うだはきっと血が怖くて泣いちゃうよ」
真砂が慰めにならないことを言うと、宇内は少し顔を上げて恥ずかしそうに笑った。
「自分のこと女だと思ってるかどうかは確信がないんだけど」
「うん」
「俺が男だったら、ひいちゃん先生の隣にいられなかったと思って」
「うだが男か女かなんて先生は気にしないでしょ」
「俺が気になるの。ひいちゃん先生の隣に男がいたら、解釈違いだなって」
「拗らせたオタク」
真砂が揶揄う。
「隣にいるのが男だったら、先生が勝手に〈女の子〉って枠に閉じ込められちゃう気がして」
「先生は大人しく閉じ込められてないと思うけど」
「うん、でも、自分の存在が相手の邪魔になるかもしれないの、怖いから、近付けなかったかもなって思って。だから自分は女でよかったと思ってて」

 

(以下の引用部分は、主人公の真砂=眞青が、再演する舞台への出演を断るシーン)

「そういうわけだから」と眞青は話を戻す。「わかったでしょ。演劇祭の件は協力できなくてごめん」
そう話を切り上げようとすると、
「それは話が別じゃないの?」
滝上は食い下がってきた。
「女子として生活してなくても、舞台上では関係ないだろ。高一の時から、眞青は女の子の役をやってたんだろ。日常では男を演じてる女が女を演じる。その時と同じだろ」
「先生はその舞台見てないでしょ。あの時とは身体も随分変わっちゃったし──」
「関係ない。男として暮らしてる男が女を演じたり女として暮らしてる女が男を演じたりもし てるんだよ」
「……考えておく」
あの時、人魚姫の役を演りたかったのは、ほんとうは脚本が気に入ったからでも、人魚姫に共感したからでもなかった、と眞青は思う。 自分は、ヒロイン役を勝ち取って、証明したかったのだ。自分が〈女の子〉であることを。文句のつけようのない、完璧な〈女の子〉であることを、認めさせたかったのだと思う。

 

 

この短い小説の中で、とても多くのことが書かれているように思える。

それはもちろん主人公が直面せざるを得ない様々な事柄であり、また状況や事情は違えど同じように思い悩みながら生きている周囲の若者たちの姿であり、また現在の私たちが生きる社会の制度と慣習と権力の有様である。

それらの要素はアンデルセンの「人魚姫」、作中作の「姫と人魚姫」、さらには主人公がSNSに書きつける言葉、そして滝上がネット上に発表している小説などを焦点にして結び付き合っている。

そして何より、この小説の中に描かれた様々な問題は、互いを思いやり、理解しようと努める演劇部員たちによって交わされる会話の中にあらわれる。

 

今のところ私は、この小説の出来栄えや、あるいは意義などについて何かを言う気持ちにはなれない。ただ一人でも多くの読者に、この新しい青春小説を読んでもらいたいと思う。

 

次の一冊

読者によっては、この小説における、トランスジェンダーを取り巻く状況について語られる部分を説明的だと感じる人もいるかもしれない。しかしそれは、そのような知識がいまだ十分に普及していないという現実的な事情が要求したことだと思われる。

ベストセラーとなった本書もまた、同じ事情からくる必要性によって書かれた本だと思う。

 

そのうち読みたい

Lilith

Lilith

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川野芽生のこれまでの歌集・小説・エッセイ集など。

ハン・ガン『すべての、白いものたちの』 個人と都市の記憶が静かに交錯する詩的な小説

韓国の国際ブッカー賞作家による、断章形式の小説

 

1970年生まれの韓国の小説家ハン・ガン(韓江)は、2005年の代表作菜食主義者によって、韓国で最も権威ある文学賞と言われる李箱文学賞、および2016年の国際ブッカー賞を受賞した作家だ。

今回紹介する『すべての、白いものたちの』は2016年の作品で、2018年に斎藤真理子による日本語訳が出ている(2023年に文庫化)。またこの作品もブッカー賞にノミネートされている。

 

大げさな感じの書き出しになったが、しかしこの小説の内容は、一見したところでは非常にシンプルなものだ。読む人によってはエッセイのように思うかもしれない。

この小説は断章形式で書かれており、ごく短い文章の集積で成り立っている。そしてそれぞれの断章には、いずれも「白いもの」の名前が題名として付けられているのだ。

例えば、雪、霧、窓の霜、おくるみ、ろうそく、翼……などなど。

また断章の間には、時おり写真も挟み込まれている。

 

これらの断章において語られることは、大きく分けて二つある。

ひとつは、生後すぐに死んでしまったという、作者と思しき語り手の姉についてだ。語り手は両親から聞いた、早産のために生後二時間ほどで息を引き取ったという姉のことを考え続ける。語り手は、自分自身の生と、会うことのなかった姉の生とを深く結びつけている。

もうひとつは、ポーランドワルシャワであるらしい都市での生活と、そこで見聞きされること。ワルシャワは第二次大戦の際にその旧市街のほとんどが破壊され、後に再建された都市であり、その記憶が都市のあちこちに見出されていく。

 

それぞれの断章は、ある時は1ページに収まるほど短く、ある時は数ページほどの長さになる。

描写は時に詩的で、また時には散文的だが、そこで書かれることが抽象的なイメージに終始することはあまりないと感じる。どんなに詩的な描写であっても、そこで書かれていることは飽くまでも具体的な体験や、事実に関するものごとのように思える。

 

みぞれ

生は誰に対しても特段に好意的ではない。それを知りつつ歩むとき、私に降りかかってくるのはみぞれ。額を、眉を、頬をやさしく濡らすのはみぞれ。すべてのことは過ぎ去ると胸に刻んで歩むとき、ようやく握りしめてきたすべてのものもついには消えると知りつつ歩むとき、みぞれが空から落ちてくる。雨でもなく雪でもない、氷でもなく水でもない。目を閉じても開けていても、立ち止まっても足を速めても、やさしく私の眉を濡らし、やさしく額を撫でにやってくるのはみぞれ。

 

ろうそく

そんな彼女がこの都市の中心部を歩いていく。四つ角に残された赤れんがの壁の一部を見ている。爆撃で倒壊した昔の建物を復元する過程で、ドイツ軍が市民を虐殺した壁を取りはずし、一メートルぐらい手前に移したのだ。そのことを記した低い石碑が立っている。その前には花が手向けられ、たくさんの白いろうそくが灯っている。
明け方のそれのように濃くはないが、半透明のトレーシングペーパーのような霧がこの街を包んでいる。突然強風が吹きつけて霧を取り払ったなら、復元された新しい建物の代わりに、七十年前の廃墟が驚いて姿を現すかもしれない。彼女のまぢかに集まっていた幽霊たちが、自分たちが殺害された壁に向かって忽然と身を起こし、らんらんと目を燃やすのかもしれない。
しかし風は吹かない。何ものも、おののきつつ現れはしない。溶けて流れるろうの雫は白く、また熱い。白い芯を燃やす炎に自らを徐々に委ねて、ろうそくは短くなってゆく。徐々に消えてゆく。

 

薄紙の白い裏側

恢復するたびに、彼女はこの生に対して冷ややかな気持ちを抱いてきた。恨みというには弱々しく、望みというにはいくらか毒のある感情。夜ごと彼女にふとんをかけ、額に唇をつけてくれた人が凍てつく戸外へ再び彼女を追い出す、そんな心の冷たさをもう一度痛切に確認したような気持ち。
そんなとき鏡を見ると、これが自分の顔だということになじめなかった。
薄紙の裏側の白さのような死が、その顔のうしろにいつも見え隠れしていることを忘れられなかったから。
自分を捨てたことのある人に、もはや遠慮のない愛情を寄せることなどできないように、彼女が人生を再び愛するためには、そのつど、長く込み入った過程を必要とした。

(以上全て『すべての、白いものたちの』より)


 
 
この小説の中では、さまざまな「白いもの」に導かれた、生きることや、すでに死んでしまったものに関する思索が静かに語られる。それらは淡々としているが、研ぎ澄まされた力強さがあり、強く印象に残る。

ワルシャワという特別な都市の歴史から語り手が導き出す思考と、語り手自身の歴史が、付かず離れずの距離を持ちながら語られ、それらが透明な薄い層のように積み重なっていくような本だと思う。

 

3章構成の秘密

 

上記のような印象を持ちながらこの本を読み終わった私だったが、翻訳者の斎藤真理子による「補足」を読むと、3章からなるこの小説の構成に関して、意外な事実が書いてあった。

(なお訳者はこの「補足」について、「本書を未読の方はぜひ、お読みになってからこの文章にアクセスしてくださいと、お願いしたい」と書いている。ここでその内容を詳述することはないが、まっさらな状態で読みたい方は以下の部分は飛ばしてもらいたい)

 

訳者は「著者は、この転換と章構成についての秘密について教えてくれた」と書いている。その「秘密」とは、実際には作中にきちんと示されていることなので、注意深く読んだ読者であればおのずと了解されたことかもしれない。

この「補足」により、本作の構成に関するちょっとしか仕掛けを知った後で本文を読み返してみて、私はとても驚いた。いくつかの断章について、その意味することが突然、明確に理解できたように思えたのだ。

恥ずかしながら私は、3章に分割されて配列された断章を、単にゆるやかに繋がりあったものとして読んでいた。しかしそこに隠された構成(実際には特に隠されているわけではなく、繰り返すが注意深く読んでいれば最初から読み取れるかもしれないものだ)を知った時、その全体から受ける印象は大きく変化し、その時、この小説の企みのようなものを初めて知ったように思えた。

これはとても鮮烈な、小説ならではの体験だったと思う。もともと、何度も読み返したくなるような断章がいくつもある本だと思って読んでいたが、ぜひ最初から通して読み返したい。
 

次の一冊

 

河出文庫は韓国文学を精力的に刊行しているが、これもその一冊。1970年代の韓国における過酷な社会状況を背景とした連絡短編集。こちらも斎藤真理子訳。

 

これも斎藤真理子訳だが、時代はかなり遡って日本統治下の1930年代に書かれた近代文学。なおハン・ガンが受賞した韓国の権威ある文学賞、李箱文学賞はこの作家の名前から取られている。過去に紹介しました。

pikabia.hatenablog.com

 

そのうち読みたい

 

ハン・ガンの国際ブッカー賞受賞作がこちら。韓国文化の紹介を専門とした出版社クオンより。

SFと植民地 あるいはシンガポールで見る『カジノ・ロワイヤル』(自作宣伝です)

 

私事で恐縮ですが……

Winsland House II

 
今回は私事と雑談なんですが、実は一昨年あたりからブログのほかに趣味でSF小説を書いておりまして、WEBメディアのコンテストに応募したりしています。

昨年はバゴプラ/Kaguya Planet主催の「第3回かぐやSFコンテスト(特集・未来のスポーツ)」 にて選外佳作に選んでいただいたりもし、細々と楽しく活動しております。

Kaguya Planetについてはこちらの記事をどうぞ。作品へのリンクもあります。

pikabia.hatenablog.com

この1月には同じくKaguya Planetの「気候危機」特集に合わせて行われた公募に向けて短編を書きました。そちらも現在カクヨムで公開しております。

kakuyomu.jp 

SFのテーマとしての植民地


さて、私はこれまでSF短編・掌編を8本ばかり書いてみたのですが、おおむね毎回、実在の熱帯の国々を舞台とした物語を書いております。そして、実在の熱帯の国々を舞台にするということは、ほとんど自動的に、旧植民地を舞台にするということになります。
これは私が実際に熱帯に、そして旧植民地に住んでいるということと関係があります。

 

私はそう趣味が広いとは言えないSFファンなのですが、SFというものは、大雑把に言えば人間と文明との関わりをテーマとするジャンルのことだと思っています。(サイエンス=科学を広めに捉えるタイプのSF観ですね)

そのようなSFには、様々なテーマがありえるでしょう。例えば情報技術の発達であったり、人工知能との関係であったり、宇宙への進出であったり。あるいはJ.G.バラードの言うような内宇宙の探求や、あるいは時間や神、存在といった根本的な観念なども主要なテーマになるでしょう。

そのようなテーマはどれも興味深いのですが、いま自分が個人的に気になる、あるいは気にならざるをえない、文明=科学にまつわる問題が、植民地についてなのです。

 

かれこれ8年ほど、かつて植民地だった場所に住んでいるのですが、外国人としてそこで暮らしていると、ここが植民地であったということはどういうことなのか、植民地を生み出した文明とは、そして植民地化によって生み出された文化とは何なのか、そのようなことが気にかかります。

そしてそれは、そのまま人間と文明について考えることとなり、それはSFのテーマそのものとなります。

帝国主義を生み出した西洋近代。西洋近代と不可分のものとしての理性と啓蒙と自由、そしてキリスト教。植民地の動脈である貿易と、それによって始まる資本主義。西と東、北と南の非対称性。植民地を可能にした動力と生産力、その延長としての科学技術。

そのような文明=科学=サイエンスの、暴力的な産物の中に私たちは暮らしている、旧植民地諸国に住むようになってから、そのようななことを実感することがとても多くなり、それは創作の個人的な動機ともなったのだと思います。(そしてそれはもちろん、日本に住んでいても感じているべきものだったのだろうと今は思います)

もちろん私には知識も技術も不足しており、高度な達成は望むべくもありませんし、また、私が書くものが結果として植民地主義の再生産となる可能性も当然あります。そのような恐れも抱きつつ、作品を公開するにあたっての補助線として、あるいは熱帯に住む日本人のSFファンの雑感として、このようなことを書き記してみました。

 

シンガポールで見る007の衝撃

 

関連して、以前ひとつの印象的な出来事がありました。

現在私はシンガポールに住んでいるのですが、住み始めて間もない頃、ふとダニエル・クレイグ主演の007が見たくなり、配信で2006年の映画カジノ・ロワイヤルを見ました。

私は007については特に詳しくはなく、過去のシリーズについては数本見たことがある程度でしたが、多くの方と同じように2012年のスカイフォールに非常に感銘を受け、その後ダニエル・クレイグ主演のシリーズをちょくちょく見ていたのでした。

しかし私はその時、『カジノ・ロワイヤル』を見て、とても驚きました。

急激に、ほとんど啓示のように、007というものを初めて理解したと感じたのです。

 

映画の冒頭、クレイグ演じるジェームズ・ボンドはアフリカ某国でひと暴れした後、ハバナのリゾートにやって来ます。

木々の立ち並ぶ海沿いの道路を走ってたどり着く、西洋風の高級リゾート。世界各国からやって来た富裕な人々が闊歩し、駐車場には高級車が並ぶ。使用人は傅き、労働者は働き、エレガントな装いの人々は優雅に遊び、秘密を弄んで騙し合う。

それは、ちょうど私がその頃、うっすらと身の回りに感じ取っていた世界でした。

西洋によって熱帯に築かれた都市。コロニアル様式の建築と背後に広がる森。優雅な人々と労働者。

シンガポールはイギリス東インド会社の提督トーマス・ラッフルズが建設した港で、マレーシアのペナン、マラッカと合わせて海峡植民地を構成していました。英語を公用語とし、イギリスに留学した中華系の人々を中心に建国された現在のシンガポールにも、イギリスの文化の名残はそこかしこに残っています。

私はこの都市で『カジノ・ロワイヤル』を見て初めて、ジェームズ・ボンド大英帝国そのものの化身であること、ある種の観光映画として映し出されるその冒険の舞台が植民地そのものであること、そして、ボンドが体現する美しさやカッコよさ、エレガンスや美学のすべてが帝国主義から汲み出されていることを、自分の経験と重ねて感じ取りました。

 

私はもともと西洋の美術や芸術に興味があり、派生して映画やデザイン、文学や歴史などのことも素人ながらに学ぶようになりましたが、それら全てが、ここでジェームズ・ボンドが体現しているものと無縁ではないということが、(それなりに知ってはいたものの)この時まざまざと実感されました。

「芸術」や「美」は、帝国の制度であること。

私たちが美しく感じるものは、植民地を前提に成立していること。

もちろんこれは極端な物言いであり、そればかりではないのですが、しかし美術や芸術、文学における「伝統的なもの」について考える際には無視できない観点でしょう。そしてまた、現在の新たな芸術も、伝統と無縁ではありえません。

シンガポールで見る『カジノ・ロワイヤル』は、私にとってはそのような体験でした。その後私はSF小説を書いてみようとするにあたり、このことをよく思い出しています。
 

(記事の下の方に、関連するブックガイドがあります)

 


こちらの記事も、SF小説を書くにあたって考えていることを書いたものです。よろしければご一読ください。

 

創作紹介

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こちらが、上記のようなことを考えつつ書いた、Kaguya Planet「気候危機」特集への応募作です。気候の変化に伴う移住、多文化の衝突、西洋とその外部について。

中高緯度地帯が急速に寒冷化し、人類が赤道付近にこぞって移住するというお話です。混乱に乗じて財を成した主人公は、カトリックの多いボルネオ島北部に旧ラテン諸国民の入植地を作ろうと目論む。しかし信頼していた相棒の日本人青年が姿を消した……

 

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こちらはカクヨムの公式自主企画「百合小説」に投稿した作品です。

毛皮の売買が禁止された近未来、シンガポールを舞台にしたピカレスク・ロマンス。詐欺師のアリスは、ラッフルズ・ホテルでペーパーバックを読んでいた富裕層の令嬢に目をつけ誘惑する。しかし彼女は……

 

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こちらも近未来のシンガポールが舞台。土地そのものの歴史や記憶を鳴らすロックバンドの短いお話です。目抜き通りであるオーチャード・ロードに秘められた歴史、そしてこの貿易都市の起源が、とある楽団の伝説とともに語られます。

 
 

関連ブックガイド

トーマス・ラッフルズによる海峡植民地の成立や、東南アジアを統治する西欧列強と現地勢力が複雑に関係しながらの諸地域の主権の成立などについて。

 

マレーシアのペナン島イギリス海峡植民地のひとつだったが、そこでは多様な民族が入り乱れて交易を行っていた。

 

15世紀以降にオランダがいかに貿易によって世界の覇権を握り、それがどうやってイギリスに移っていったのか。

 

近代日本の成立においてアイヌ琉球はどのような役割を負わされたか。

 

帝国主義のただ中で「文学」そのものを立ち上げた作家たちについての批評。

中井亜佐子『〈わたしたち〉の到来』 三人のモダニズム作家から読む、「歴史」の書かれかた - もう本でも読むしかない

 

ベルギー領コンゴの姿を活写した近代文学の巨峰。

ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』 植民地政策と密林の恐ろしさを、突き放した視線で描く - もう本でも読むしかない

 

カトリックが支配する近代西欧を描いて、ヨーロッパそのものを問い直す歴史改変SFの傑作。

 

アメリカ大統領と黒人奴隷の恋、というテーマを時空を超えて描く圧倒的小説。

 

日本SFにおける思弁的な植民地性の作家というと飛浩隆かもしれません。

飛浩隆『ラギッド・ガール』 緻密で官能的に描かれた、不可避の暴力についてのSF - もう本でも読むしかない

 

J.G.バラードニヒリズムと倦怠感には、上海生まれの英国人という出自が影を落としてもいる。

J.G.バラードの不毛の癒し 『ミレニアム・ピープル』ほか - もう本でも読むしかない

 

ヨーロッパそのものの姿を抉り出す日本の作家として、佐藤亜紀以上の存在を今のところ知らない。

佐藤亜紀『ミノタウロス』 容赦のない「歴史」の手触り、そして機関銃付き馬車。 - もう本でも読むしかない

 

沖縄を舞台にしたこの芥川賞受賞作も、ポストコロニアルSFと呼びたい。

高山羽根子『首里の馬』 歴史を秘めたものたちの、さりげない配置と交錯 - もう本でも読むしかない

 

急速に近代化するアジアにおける世界の衝突を刻み込んだラブロマンス。

張愛玲「傾城の恋」 近代中国の葛藤を織り込んだ傑作ラブロマンス - もう本でも読むしかない

 

近代日本文学の陰画としての、植民地化朝鮮文学。

李箱『翼 李箱作品集』 植民地下朝鮮のモダニストによる、近代小説の冒険 - もう本でも読むしかない

 

マレー系シンガポール作家による、多民族国家シンガポールのスケッチ。

 

国共内戦に敗れ中国大陸から台湾に渡った人々、残された人々を追ったノンフィクション。台湾最大のベストセラー。

 

ホウ・シャオシェン監督映画の脚本も手掛ける作家による、台北という都市の歴史の地層を掘り返す小説。

 

日本統治下台湾を舞台とした本格ミステリ六大学野球のスカウトにまつわる殺人事件から、秘められた歴史が紐解かれる。

 

岡田温司の主著のひとつ。美と芸術そのものに潜在する政治の姿を丹念に追う。

 

こちらもタイトル通り、美そのものが持つ権力についての大著。

 

多木浩二にも美術と権力を論じた本は多いが、弊ブログで紹介したこちらを。

多木浩二『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』機械と速度を賛美した芸術運動 - もう本でも読むしかない

 

20世紀の思想と前衛芸術は、「非人間的なもの」とどのような関係にあるのか。

 

植民地にまつわる作家と作品に大きな紙幅を割いた現代美術入門。

山本浩貴『現代美術史』 社会の中の芸術、そして国境を越えた「脱帝国の美術史」へ - もう本でも読むしかない

 

ポストコロニアル批評の第一人者スピヴァクの入門編にちょうどいい講演集。インドにとっての英語とは何か。

ガヤトリ・C・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』コンパクトな講演録でスピヴァクに入門 - もう本でも読むしかない

 

自由主義・民主主義・立憲主義はともに西欧の産物だが、それを他の世界に広めることについてどう考えるべきか。

樋口陽一『リベラル・デモクラシーの現在』 重鎮が語る、立憲主義の普遍性 - もう本でも読むしかない

 

権力についての思考といえばやっぱりフーコー

 

政治と宗教と芸術の解き難い関係を縦横無尽に語るのがアガンベン

岡田温司『アガンベン読解』 「できるけどやらない」という能力、そして政治の存在論 - もう本でも読むしかない

 

これは短い文章のアンソロジーなのでドゥルーズの中では読みやすい。権力批判としての文芸批評。

 

 

 

 

奈落の新刊チェック 2024年1月 海外文学・SF・現代思想・歴史・Blue・サイード・プルードン・ケアの倫理・バトラー・決闘裁判・温泉・タロットの美術史ほか

さて月も明けまして恒例の新刊チェックです。この記事のために見かけた書名を控えておくのですが、いざこれを書こうとすると発売が延期になっていることもしばしば。みなさま苦労して本を刊行されているのかと思います。面白い本をどんどん出してくれる著者翻訳者出版社のみなさまに感謝しつつ1月の気になる新刊を見てみましょう。

 

 

「チリの地震」が有名な19世紀ドイツの作家クライストの新訳短編集が岩波文庫より。訳者は他にベンヤミンカール・クラウスなど手掛け、『映画に学ぶドイツ語』『現代メディア哲学 複製技術論からヴァーチャルリアリティへ』『「みんな違ってみんないい」のか? ──相対主義と普遍主義の問題』など近著も多数。

 

メキシコのノーベル賞作家パスの長編が22年ぶりに文庫で復刊(単行本は2002年書肆山田刊)。翻訳はおなじみ野谷文昭で、こちらの近著に『ラテンアメリカン・ラプソディ』など。

 

以前はヴィレッジブックスから出ていた、サリンジャーの代表的短編集の柴田元幸訳が文庫復刊。新潮文庫野崎訳と読み比べよう。

 

歌人・作家の川野芽生による、芥川賞候補にもなった話題作。高校の演劇部を舞台にしたトランスジェンダーの物語。近作にエッセイ集『かわいいピンクの竜になる』、長編『奇病庭園』など。

 

デビュー作『Schoolgirl』も芥川賞候補となっていた九段理江の芥川賞受賞作。執筆にChatGPTを使用しているということでも話題。

 

オリエンタリズム』を著したポストコロニアリズムの旗手であり、パレスチナ解放運動にも関わった批評家エドワード・サイードについて。著者近著に『日常の読書学: ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』を読む』『〈わたしたち〉の到来 英語圏モダニズムにおける歴史叙述とマニフェスト』などがあり、後者へ弊ブログでも紹介済。

中井亜佐子『〈わたしたち〉の到来』 三人のモダニズム作家から読む、「歴史」の書かれかた - もう本でも読むしかない

 

美術史の重鎮、高階秀爾による、『痴愚神礼讃』の著者である人文主義のルーツ、エラスムスの評伝。著者近著に『ヨーロッパ近代芸術論 ――「知性の美学」から「感性の詩学」へ』『カラー版 名画を見る眼Ⅰ 油彩画誕生からマネまで』『カラー版 名画を見る眼 Ⅱ 印象派からピカソまで』など。

 

新たに発見されたレヴィ=ストロースの講演「革命的な学としての民族誌学」(1937年)と「モンテーニュへの回帰」(1992年)を合わせて翻訳。訳者近著に『だれが世界を翻訳するのか―アジア・アフリカの未来から』、共著に『山口昌男 人類学的思考の沃野』など。

 

ジャン・カヴァイエスの翻訳やドゥルーズ、数理哲学の研究で知られる著者による新著。近著に『ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する 〈内在〉の哲学試論』『〈内在の哲学〉へ ―カヴァイエス・ドゥルーズ・スピノザ―』、訳書にアルベール・ロトマン『数理哲学論集 ー イデア・実在・弁証法』カヴァイエス論理学と学知の理論について―構造と生成2』など。

 

無政府主義の父として知られるプルードンの主著が半世紀ぶりの新訳とのこと。訳者は昨年『社会秩序とその変化についての哲学』を刊行している。

 

プラトンからロールズまでの正義論の入門書が講談社現代新書より。著者は法哲学が専門で訳書にラズ『価値があるとはどのようなことか』、ドゥウォーキン『神なき宗教: 「自由」と「平等」をいかに守るか』、フリードマン自由のためのメカニズム―アナルコ・キャピタリズムへの道案内』などの重要書籍多数。近著には『自由と正義と幸福と』『法哲学はこんなに面白い』など。

 

いわゆる「ケアの倫理」について、基本図書エヴァ・フェダ-・キテイ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』の翻訳者である岡野八代による入門書が岩波新書より登場。近訳書は他にアイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』、ケア・コレクティヴ『ケア宣言: 相互依存の政治へ』、ジョアン・C.トロントケアするのは誰か?: 新しい民主主義のかたちへ』など。

 

2008年に出ていたジュディス・バトラーの単行本の新版。「道徳が暴力に陥る危険性」がテーマとのこと。訳者は他にもバトラーの『非暴力の力』『問題=物質となる身体 「セックス」の言説的境界について』など手掛ける。訳者近著に『新自由主義と権力―フーコーから現在性の哲学へ』『権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』など。

 

刊行時に話題を呼んだ著者のデビュー作が、「定本」となって岩波現代文庫に。著者近著に『教養主義のリハビリテーション』など。

 

2000年の講談社現代新書が増補版となってちくま学芸文庫に。ヨーロッパの法制史の原点を中世以来の決闘裁判に見るということらしい。著者近著に『グロティウス『戦争と平和の法』の思想史的研究』『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』など。

 

戦後しばらくの間、重要な政治的決定がしばしば温泉地で行われていたという驚きの歴史を原武史が書く。『「線」の思考』『地形の思想史』『空間と政治』『「民都」大阪対「帝都」東京 思想としての関西私鉄』など近著も多数

 

都市空間に特有の想像力が数々の妖怪を生み出したとする2001年の民俗学的考察が文庫化。民俗学者である著者の近著に『弥勒』『霊魂の民俗学 ――日本人の霊的世界』『江戸のはやり神』など。

 

伝説上の初代天皇神武天皇についての言説の歴史を幕末から辿る。著者には天皇陵についての著書が多く、『天皇陵 「聖域」の歴史学』『検証 天皇陵』などがある。

 

近代パリの文化形成に大きな役割を果たしたボヘミアンについての本格研究。著者はアラン・コルバンを中心にフランスの学術書を多く翻訳しており、近訳書にコルバン雨、太陽、風 〔天候にたいする感性の歴史〕』『草のみずみずしさ 〔感情と自然の文化史〕』『静寂と沈黙の歴史』などがある。近著には『批評理論を学ぶ人のために』『歴史をどう語るか: 近現代フランス、文学と歴史学の対話』など。

 

2015年に『現代インドのカーストと不可触民:都市下層民のエスノグラフィー』を刊行した著者による、同テーマの入門書が中公新書より。

 

坂口安吾作品と太平洋戦争との関係についての半藤一利の2013年の著書が文庫化。

 

版画家でもある著者による、柳宗悦の大部の研究書。著者のキャリアは80年代まで遡るが、近著は『ビジネス戦略から読む美術史』『図説 名画の歴史: 鑑賞と理解 完全ガイド』など入門書が多い。

 

1992年に刊行された、遠近法に関する思想的研究の基本書がちくま学芸文庫に。なんとこれが4バージョン目となる。著者近著に『古代ギリシアにおける哲学的知性の目覚め』『教養のヘーゲル『法の哲学』: 国家を哲学するとは何か』『様式の基礎にあるもの―絵画芸術の哲学』など。

 

芸術作品などに対する美的な判断において、帰属性という要素はいかに関わるのか。著者は美学・芸術学が専門でこれが初めての著書のもよう。

 

鏡リュウジによる、タロットの絵柄に秘められた歴史を1巻につき2枚ずつ紹介するシリーズが刊行開始。初回は『女教皇・女帝』『皇帝・教皇』含め3冊同時刊行で、大アルカナ22枚を11冊で紹介し、第12巻で小アルカナをまとめて紹介する。
鏡リュウジのタロット本については以前紹介したこちらの記事をどうぞ。

鏡リュウジ『タロットの秘密』 ゲームから神秘主義へ、タロットカードのディープな歴史 - もう本でも読むしかない

 

ではまた来月。

長谷部恭男『法とは何か 法思想史入門』 法と道徳との関係を、人々はどう考えて来たか

著名憲法学者による、憲法と法思想の入門書

今回紹介する『法とは何か 法思想史入門』は、法学者である長谷部恭男による法学・法思想の入門書である。長谷部恭男は1956年生まれの憲法公法学を専門とする法学者であり、政府の会議等にも出席することが多く、日本を代表する憲法学者としてニュースやメディアで目にすることも多い人物だ。

本書は憲法についてだけではなく、法や国家のそもそもの成り立ちから、法とは一体何なのか法について人々はどのように考えて来たのかといったことを、平易な言葉遣いながら一歩も二歩も踏み込んで教えてくれる。

もともと2011年に河出ブックスより刊行されていたが、現在流通しているのは2015年の増補新版である。

 

本書は、タイトルになっている「法とは何か」という問題を、特に「法と道徳との関係」という観点から考察していく。著者はここでいう道徳を、まず社会通念としての道徳(勤労道徳、性道徳など)や特定の信条に由来する道徳(キリスト教道徳、仏教道徳など)と区別し、以下のように述べる。

 

本書で扱う道徳は、人としてどう生きるか、いかに行動すべきかをその理由に照らして吟味する作業とその成果を指すものです。実践理性の働きと言い換えることもできます。人は生きていく上で、どう生きるか、いかに行動するかをその理由に照らして考えるものでしょう。人である以上は、こうした道徳と離れて生きることはできません。これに対して、キリスト教道徳に従うかどうかは、あなたがキリスト教徒であるかどうかに依存する問題ですし、勤労道徳にいたっては、普通そう言われていますね、という程度の話です。金利で生活していて働かない人を強制労働させるわけにはいきません。
道徳という、人である以上離れては生きることのできないはずの問題と法とがどのように関わっているかを考えるのが、本書の目的だということになります。
(「はしがき」より)

 

これはわれわれ市井の人間には意外と難しい話ではないだろうか。キリスト教道徳はともかく、勤労道徳のような「普通そう言われていますね、という程度の話」と、人にとって普遍的なものであるような道徳を区別しなければならない、と著者は言っているのだ。

本書はこのようなデリケートな問題を、法思想の歴史を辿りながら考察していく。
 

国家に従う必要はあるのか?

 

三部構成である本書の第一部「国家はどのように考えられてきたか」では、まず国家の意義が問われる。法を執行するのは当然国家なのだが、そもそも皆が国家に従う必要があるのかどうかという問題だ。

ここでは、多くの政治学や法思想の本と同じように、ホッブズ、ロック、ルソー、カントという、現在の国家観を形作った近代の思想家たちの考えが紹介される。そこで提出される国家の目的とは、例えば人々の自己防衛であり、個人の権利や自由の保障といったものだ。彼らが生きた時代のヨーロッパは宗教改革につづく激しい宗教戦争の只中にあり、人々は分裂してしまった教会にかわる新たな秩序を打ち立てることを必要としたのだ。

第一部の議論は、最後に立憲主義という概念に辿り着く。

 

善悪の判断に関する激しい衝突があるにも関わらず、人は自分の命が惜しいし、できれば安楽な、人間らしいと言える生活を享受したいと思うものですから、社会の平和の実現を求めて国家の設立に協力するはずだというのが、社会契約論者の想定です。とはいえ、もともと根底的に異なる、比較不能とも言いうる世界観を抱いている人たちの集まりですから、その間に平和を維持しうる秩序を設けるには、工夫が必要です。この工夫の核心にあるのは、公のことがらと私のことがらを区分すること、つまり公私の区分です。

立憲主義は、大雑把に言えば、憲法を通じて国家を設立すると同時に、その権限を限定するという考え方です。限定することがなぜ必要かと言えば、多様な世界観を抱く人々の公平な共存を可能にするために、公私を区分し、国家の活動範囲を公のことがらに限定するためだと言うことができます。
(どちらも第一部第三章「人々がともに生きるための立憲主義」より)

この観点からすれば、例えば日本国憲法基本的人権(思想・良心の自由、信教の自由、プライバシーの権利)や政教分離という観念も、公私の区分を守るためにある。

 

法と道徳は同じものなのか?

 

つづく第二部「国家と法の結びつきは人々の判断にどう影響するか」においては、まず「法とは何か」というそもそもの議論が紹介される。ここでも特定の結論は導かれず、代わりに歴史上重要ないくつかの対立点が以下のように提示される。(かなり単純化して書いています)

 

法はなぜ成立するのか?

  • ハンス・ケルゼン「法は、法に従うべきだという前提を人々が頭の中に持っているから成立する(根本規範)」
  • H.L.A.ハート「法は、公務員集団がそれを受け入れ、実践しているからこそ成立する(認定のルール)」

 

法と道徳の関係は?

  • ハンス・ケルゼン「何が道徳的に正しいかを客観的に判断することはできないので、法そのものの規範性(根本規範)に従うべき」
  • ロナルド・ドゥオーキン「困難な法律問題を解決する際は、裁判官が整合性のある道徳原理を構築しなければならない」

 

またこの第二部では、「法の支配」や「国民の代表」といった観念がもつ限界や、法と国家はどちらが先なのか(憲法はいつ誰が制定するか)という問題など、法と国家の関係についての、容易に答えを出すことのできない論点が次々に挙げられる。法という問題、法と社会の関わりという問題の複雑さの一端を窺い知ることができる部分だ。

なお著者は前述のケルゼンのような、道徳について完全に相対主義的な立場はとらない。「裁判官の良心」と題された節で、著者は以下のように述べる。

 

裁判官である以上は、実定法に従うのが当然でしょうが、ときには実定法の基準通りに結論を出すと、道理に合わない、きわめておかしな結論になることもあります。そうしたときには、実定法に従うべきだという一般的な理由づけの背後に遡って、この場合は法律を字義通りには解釈・適用すべきではないと考えることもあるでしょうし、コンピュータではなく、生身の裁判官に裁判を委ねているのも、それを期待しているからでしょう。

 

そうした意味では、実定法秩序もここでいう広い意味での道徳の一部ということになります。(略)ここで述べたことは、そうした広い意味での道徳について、人々の意見は必ず一致するとか、多くの場合は一致するものだということまでは意味していません。一致しないこともしばしばあるでしょう。それでも、人はいかに行動すべきか、その理由は何か、という問いを避けて通ることはできません。それは裁判官であっても同じことです。
(第二部第八章「法と道徳の関係──ハートとドゥオーキン」より)

 

 

この後本書は、第三部「民主的に立法することがなぜよいのか」において、多数決という方法にまつわる数々の問題点を指摘する。そして終章では古代アテネで死刑判決を受け入れたソクラテスへと遡り、「法に従う義務はあるか」という問題を検討する。

多くの観点からの多くの問題を取り上げながら、著者は常に最初に提示した「法と道徳との関係」というテーマに立ち戻り、人にとって普遍的なものであるような道徳は存在するのか、であればそれはどのようなものか、という問いに関連付けていく。

ここまで列挙してきたどの話題も、非常に困難な問いでありながら、私たちの生活と社会に深く関わるものだ。本書はそのような困難な問いについての、答えではなく、歴史的な議論の積み重ねを教えてくれる。折にふれて読み返したい一冊だと思う。

 

そのうち読みたい

 

長谷部恭男の代表作はどれも題名に迫力があって気になります。安価な新書などもいろいろ出ています。


次の一冊

 

法学に関する本を他にもいくつかブログで紹介しております。
 

pikabia.hatenablog.com

 


 

岡田温司『イタリア芸術のプリズム』 巨匠たちの映画に結実する、イタリアの芸術・宗教・政治

表象文化論の大家が、イタリア映画の巨匠たちを読み解く

 

 

『イタリア芸術のプリズム 画家と作家と監督たち』は、このブログでもすでに何冊か著書を紹介している、美術史・表象文化論の大家にしてイタリア現代思想の紹介者である岡田温司の2020年の単行本だ。タイトルとサブタイトルが示す通り、イタリアの絵画と文学と映画に関する本である。

アガンベンをはじめとしたイタリアの思想家たちの翻訳とともに、美術を中心としたイメージにまつわる研究を続けてきた著者だが、近年はすごい勢いで映画についての著書を刊行している。2015年の『映画は絵画のように――静止・運動・時間』を皮切りに、『映画とキリスト』『映画と芸術と生と』『映画と黙示録』『ネオレアリズモ――イタリアの戦後と映画』と続くそのラインナップはさながら新たなライフワークのようだ。私はこの中では映画史における終末や崩壊の表象を辿った『映画と黙示録』を手に取ったが、そこで参照される映画の、名作からB級作までの圧倒的な広さと量に驚いてしまった。

今回紹介する『イタリア芸術のプリズム』もやはり映画を中心とした本で、ここではフェリーニパゾリーニ、アントニオーニといった誰もが知るイタリア映画の巨匠が主に取り上げられ、その作品世界がイタリアの絵画や文学などとの関連の中で語られる。

 

さて、この「絵画や文学などとの関連」という部分こそが、岡田温司の映画本の醍醐味だと思う。

著者はイタリアの巨匠たちの映画について、時にそのテーマを同じくイタリアの文学や哲学を通じて読み解き、また時にその画面やモチーフをイタリアの画家たちの作品と比較する。

そこで参照される作家や思想家や芸術家は多岐にわたり、さながらこの本は、古代から現代へといたるイタリア芸術のエッセンスを凝縮したもののようだ。

ちなみにイタリアの芸術というと、古代ローマルネサンスを思い浮かべる方が多いかもしれないが、もちろんそれだけではない。本書の惹句には「せめぎあう伝統と前衛」とあるが、古代からの長い伝統と、近代の前衛が密接に関わり合うのがイタリアの芸術だ。本書でも未来派デ=キリコ、そして著者がこだわり続けるジョルジョ・モランディなどが取り上げられ、巨匠たちの映画と並べられる。

そして言うまでもなく、映画そのものが20世紀の新しい芸術の形式なのであり、フェリーニパゾリーニは上記の芸術家たちの後継者でもあるわけだ。

 

当たり前のことかもしれないが、現在は過去と切り離すことができない。ルネサンスやパロックという、無視しえない偉大な過去を引きずるイタリアの場合、この自明の事実は特別の意味をもつ。それゆえ、この国の芸術における過去と現在の絡み合いもまた、小著をつらぬく主たるテ ーマのひとつである。ただし明記すべきは、その過去が、権威主義的で伝統墨守的なものとは一線を画するという点である。現代から問い直される、いわば良きアナクロニズムの鏡に写し取られるものとしての過去。「わたしは過去の力である」、「深くて親密でアルカイックなわたしのカトリシズム」、伝統と前衛とがせめぎあらパゾリーニのこれらの言葉がいみじくもそのことを象徴している。読者の皆さんには、判官贔屓と危ぶまれる記述や解釈もあるかもしれない。が、絵画と文学と映画のうちに分光され屈折される二十世紀イタリアの芸術のプリズムを読者の皆さんに味わっていただけるなら、わたしにとってそれ以上の喜びはない。

(「はじめに」より)

 

イタリア芸術とキリスト教ファシズム


本書におけるさらにふたつの重要なキーワードがキリスト教ファシズムだ。

例えばフェリーニロッセリーニパゾリーニらの様々な映画において、贖罪や奇跡といったカトリック的な主題が見いだされ、あるいは古代的な民衆信仰とマリア信仰との混交の表現などが注目される。

他の監督の作品についても、ピエロ・デッラ・フランチェスカカラヴァッジョを始めとしたと多くの伝統的な画家たちとの関連が語られる際、やはりキリスト教に関する主題が登場するだろう。

また20世紀のイタリアにおいて決して無視できない要素がファシズムであり、多くの監督たちは実際にファシスト党政権の時代を生きている。そのテーマがほとんどの監督たちの作品に影を落としているのも当然だろう。

岡田温司の本(そして岡田温司が紹介するイタリアの思想家たちの本)においては常に、芸術と宗教と政治との関係が問題とされるのだ。

 

フェリーニのローマ』では、この章の最初に触れた教皇庁のファッションショーのすぐ後、最後のシークエンスで「ノアントリ祭」が描かれる。「われわれみんな noi altri」がなまってこう呼ばれるこの祭は、毎年六月の後半に聖母マリアを記念してトラステヴェレ地区で盛大に祝われてきた。十六世紀初めに漁師が偶然に見つけた、テヴェレ川を流れる聖母像を地区の教会堂に奉納したという言い伝えにさかのぼるのだが、実は祭自体は、一九二〇年代にファシズム政権下で民衆操作のために大いに振興されたといういわくつきのものである。もちろんフェリーニがそのことを知らないはずはないから、カトリシズムとファシズムの結託が民衆的な祭のなかに投影されてきた歴史が、やはりそれとなく示唆されていることになる。祭の期間、地区の人々のみならずローマ市民たちは、広場に集っては、大いに飲んで食べ、歌って踊る。映画のなかで も、英語が方々で飛び交っていて、いまや祭が観光化していることを印象づける。アメリカの作家ゴア・ヴィダル(本人)が、地球が自滅しつつある現在、興亡を繰り返してきたローマで世界の終わりを見届けるのがふさわしいなどと、英語なまりのイタリア語で黙示録めいたセリフを吐いている。もちろん、ローマに付き物の盗難も欠かせない。そんな混沌とした賑わいがドキュメンタリー調でカメラに収められていく。広場の噴水に大勢の若者たちがたむろしていると、その数に負けないくらいの警官が突然現われて、暴力で強引に彼らを追い払っていく。この場面には明らかに、一九六八年の学生運動の弾圧の記憶が投影されている。

(「Ⅱ フェリーニとカトリシズム」より)

 

著者のこれまでの研究を縦横に引き出しながらのリラックスした語りにより、古代から続く伝統と近代の革新、そして世界を基礎付ける宗教とファシズムの難問、そういったものが絡み合う場としてのイタリア映画の姿を教えてくれる本だ。
 

次の一冊

 

岡田温司に関する過去記事がいろいろあるのでご覧ください。

pikabia.hatenablog.com


 
 

李箱『翼 李箱作品集』 植民地下朝鮮のモダニストによる、近代小説の冒険

1910年ソウル生まれの作家の新訳作品集

 

李箱(イ・サン)は1910年、日本統治下の朝鮮に生まれ、27歳の若さで世を去った詩人/作家だ。ソウル(当時の名は京城)に生まれ、日本語で教育を受けて朝鮮総督府に務め、後にそれを辞してからはカフェを経営するなどし、やがて東京に向かい、そこで客死した。活動期間は短かったものの、現在の韓国でも熱狂的な人気があるという。

今回紹介する光文社古典新訳文庫『翼 李箱作品集』は、近年韓国文学の翻訳で大活躍している斎藤真理子の編訳による、李箱の小説、詩、随筆や書簡までを集めた作品集だ。

 

日本経由のモダニズム

 

冒頭に収められた詩「烏瞰図」、そして表題作「翼」まで読み進めて驚かされるのは、その鮮やかで挑戦的な言葉遣いと形式だ。

それはまさにモダニズム小説というべき、20世紀初頭に特有の、近代社会の到来に対応する実験的なスタイルなのだ。現に作者は横光利一などの影響を受けているとのことで、横光をはじめとした日本の新感覚派とも共通するムードを持っている。

また言うまでもなく当時の日本のモダニズム詩や文学の一部はダダ未来派シュルレアリスムといったヨーロッパの前衛運動に影響を受けており、この李箱もそのような世界的な潮流の中にいるということが一読して伝わってくる。

下記は表題作「翼」の冒頭で、本編に入る前に、四角い枠に囲まれて書かれた序文のような部分。

 

「剥製にされた天才」をご存じですか?
私は、愉快だ。こんなときには、恋愛までもが愉快なんです。
 
肉体がぼろぼろになるまで疲労したときにだけ、私の精神は銀貨のように清らかに澄みわたります。蛔虫だらけの腹の中ヘニコチンが染みてゆくとき、頭の中にはいつも白紙が一枚用意され、その上に私はウイットとパラドックス碁石のように並べて遊ぶのです。これぞ恐るべき常識の病です。私はまた、女と生活を設計します。恋愛術をひねくり回すことにも飽いてしまった、知性の行きつく果てをちらりとでも垣間見たことのある、いわば一種の精神逸脱者とともにですよ。こうした女の半分だけ──それはすべての半分でもある──を受け取って、それを我が物として生活を設計するわけだ。そんな生活に片足突っ込んで、まるで太陽が二個あるみたいに向き合ってくすくす笑っているのですよ。私はどうやら人生のもろもろがどうにも味気なく、耐えがたくなって、降りてしまったみたいです。グッ・バイ。
 
グッ・パイ。ときには、あなたがいちばん嫌いな食べ物をむさぼり食うというアイロニーを実践するのも良いことじゃないか知らん。ウイットとパラドックス……。
あなた自身を偽造するということも、やって甲斐ある行いかもしれませんよ。あなたの作品は、見たこともないあなたの模造品が作られていくことによって、いっそう手軽にも、いっそう高尚にもなるのでしょうから。
 
十九世紀はできれば封鎖してしまうがよろしい。ドストエフスキー精神などと いうものは、一歩間違えたら浪費です。ユゴー仏蘭西パンの一かけだとは誰が 言ったものやら、至言と思われます。
(李箱『翼』表題作より)

 

しかし、形式において挑戦的であっても、ここに収められたいくつかの小説は決して難解なものではないと思う。

その内容は、ほとんど私小説的と言ってもいいような、作者と当時のパートナーとの関係をかなり直接的に反映した物語だ。

李箱は療養に訪れた温泉地で知り合った妓生をソウルに呼び寄せ、彼女を店主としてカフェを経営するなどしており、「翼」「蜘蛛、豚に会う」「逢別記」といった短編小説はその当時の生活をもとにして書かれているらしい。

 

なお注意してもらいたいのは、これらの小説や随筆は主に1930年代に書かれたもので、当時の男性の女性蔑視的な視線や男女の社会的な格差、また当時の朝鮮に前世紀から残る保守的な価値観を色濃く反映している。特に現在、韓国文学やエッセイとして多く翻訳されているような、近年の韓国のフェミニズム的な書物とは内容的にも時代的にも全く違うものなのでその点は留意してほしい。

小説に反映された作者とパートナーとの関係も、現在の目で見るとかなり搾取的なものに映るだろう。(なおそれは日本の近代小説においても同様ではある)

 

また李箱の小説においては、日本の植民地支配に対する批判的な視線は、少なくとも直接的には現れない。

斎藤真理子は李箱のことを、「近代化・植民地化に見舞われる朝鮮半島にて新しい文学を求めた孤高のモダンボーイ」と書いている。

朝鮮の近代化は、日本による植民地化と同時に始まった。近代の到来による社会の変化は、植民地支配と不可分のものとして経験されたのだ。

植民地化と同年に生まれた李箱はその状況を生まれながらのものとして育った世代であり、その文学や芸術への志もまた朝鮮総督府による日本文化の強制と無縁ではありえない。

日本から西洋へのまなざしが生んだのが日本の近代文学だとすれば、さらにその日本との不可分の関係によって生まれたのが当時の朝鮮の文学と言えるだろう。

(この作品集には李箱が日本語で書いた詩も収録されている)

 

近代日本の陰画

 

「翼」において、妻と小さな部屋に住む語り手は、訪れた「客」が妻に手渡す金銭によって無為に生活している。妻との奇妙で複雑な関係に追い立てられるようにふらりとさまよい出た語り手は、京城の街にある三越の屋上へ向かう。この三越は1930年に開業した、朝鮮最初期の百貨店である。

 

コーヒー──それもよし。だが京城駅のホールに一歩足を踏み入れたとき、僕はポケットに一文もないのを忘れていたことに気づいた。また目の前が暗くなった。ここはどこなのだろう、僕はただぐったりして、おろおろして、途方に暮れるばかりだった。魂の抜けた人間みたいにこっちへ行ったりあっちへ行ったりして……。
どこからどこへ無闇にほっつき歩いたものだか、一つも覚えていない。ただ、何時間かして自分がミツコシの屋上にいることに気づいたときには、ほとんど真昼になっていた。
僕は屋上の適当なところに座り込み、自分の生きてきた二十六年間を振り返ってみた。朦朧とした記憶の中からは、それらしい主題など一つも出てこない。
僕はもう一度、自分自身に尋ねてみた。お前には何か、人生に対する意欲はあるのかと。だが、あるともないとも、そんなことは答えたくなかったんだ。僕にはもうほ とんど、自分の存在を認識することさえ難儀であったから。
(略)
このとき、ポーと正午のサイレンが鳴った。人という人がみな、鶏がばさばさと羽ばたきをする姿のごとく両手両足を伸ばし、すべての硝子、鋼鉄、大理石、紙幣、インクがぐつぐつと沸き返り、がなり立てているかのようなこの刹那、まさに燦爛たるこの正午。
にわかに脇がかゆくなる。あはア、これは僕に人工の翼が生えていた痕だ。今はもうない僕の翼。頭の中で、希望や野心という言葉が抹消された本のページが、辞書をめくるようにちかちかと点滅する。
(李箱『翼』表題作より)

 

語り手の直截な独白とともに、「硝子、鋼鉄、大理石、紙幣、インク」と、近代都市を特徴づける新たな素材が列挙される。

私たちから見れば、このような李箱の小説は、いわば日本の近代小説の陰画のように思える。

私たちが親しんでいる日本の近代小説は、基本的にはその全てが帝国主義時代の日本において書かれたものだ。朝鮮半島の植民地支配は1910年からであり、例えば夏目漱石が死去し芥川龍之介がデビューするのが1916年だ。

日本の近代文学を切り開いた作家たちの背後には、この李箱のような、日本によって強制的にもたらされた近代を生き、そこから新たな小説を生み出していた作家がいるのだということを、この作品集は教えてくれる。

その両者はつねに、非対称性のうちに重なり合っている。日本の近代小説の傍らには、つねに彼らの小説があるのだ。

訳者による、60ページを超える充実した解説とともに読んでほしい。

 

次の一冊

李箱を読んで直接連想したのが、本人も影響を受けたという横光利一の小説。日本近代文学きってのモダニストである横光の代表作を集めた文庫がこちら。

 

そのうち読みたい

 

本書の訳者である斎藤真理子による、韓国文学について書かれた本。こちらは戦後から朝鮮戦争を経て現代までの時代を扱っているようだ。

(「韓国文学」と言っている以上当然なのですが)