もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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奈落の新刊チェック 2022年6月 海外文学・SF・現代思想・歴史・血を分けた子ども・地図と拳・バロックの哲学・精神分析・ミュージカルほか

早くも今年が半分過ぎてしまいましたがいかがお過ごしでしょうか。そろそろ皆様も、「今年が半分終わったのに読んでない新刊がこんなに……」と焦る頃合いではないでしょうか。私はもうそのように焦ることはやめました。面白そうな新刊が、多すぎるから……本との出会いは、実際に読めるかどうかも含めて一期一会……そんな諦念に身を浸しつつ、6月に気になった新刊です。

 

「ブラックフェミニズムの伝説的SF作家」というオクテイヴィア・E・バトラーの短編集。表題作はヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞の三冠に輝いた、なんと「究極の「男性妊娠小説」」らしい…… 翻訳はクレストブックスやエクス・リブルスで大活躍の藤井光。ジャネル・モネイも絶賛というので気になります。

 

ペルーのノーベル賞作家、バルガス・ジョサの長編デビュー作(1963年発表)が光文社古典新訳文庫から登場。訳者の寺尾隆吉は同じ文庫でコルタサルも訳してます。新潮社から杉山晃訳で『都会と犬ども』というタイトルで出ていたものの新訳です。

 

かのウィリアム・ギブスンが執筆したもののお蔵入りとなったことで有名な、ギブスン版『エイリアン3』の脚本がなんとここへ来て小説化(原書は2021年)。小説化を担当したパット・カディガンは邦訳がほとんど無いのだが、80年代から活躍するサイバーパンク第一世代の作家らしい。他の作品も気になります。入間眞訳。

 

デビュー作でシャーリイ・ジャクスン賞を獲った作家ケヴィン・ウィルソンによる2019年のベストセラー。「燃える双子」というのは比喩ではなく本当に燃えているらしい。翻訳はフロスト警部シリーズなども訳している芹沢恵。

 

韓国の奇才と呼ばれるカン・ファギルの短編集が白水社エクス・リブルスから登場。小山内園子訳。

 

ゲームの王国』で日本SF大賞山本周五郎賞をダブル受賞という珍しいパターンで有名な新鋭作家・小川哲の新作長編は、満州を舞台にした歴史SF大作。

 

うつくしい繭』で2018年にデビューした、ゲンロン大森望SF創作講座出身作家の二冊目の単行本。筑豊の炭鉱街を舞台にした小説とのこと。

 

八面六臂の活躍を見せる伴名練のセレクトによる、日本SF新鋭作家アンソロジー。まだSFの単著を出していない作家、という条件で選ばれた14人による短編が収録されています。編者による、収録作に関連するSFサブジャンル解説も14本収録とのこと。

 

村田沙耶香の新作短編集。「なあ、俺と、新しくカルト始めない?」という帯コピーはかなり読みたくなってしまう。

 

竹本健治がセレクトした「変格」ミステリのアンソロジー。昨年「戦前篇」が刊行済で、戦後篇も今回が「1」なので今後も続刊があるようだ。中井英夫山田風太郎日影丈吉など収録。

 

ベストセラー『日本現代怪異事典』の著者・朝里樹はこれまで妖怪や怪談、都市伝説の本を出していたが、今回はフィクションの中の怪異・怪物の大事典。かなり細かいキャラクターまでカテゴリ別に網羅されている模様。

 

ここのところベルクソン関連書が刊行ラッシュで大変なことになっていますが、これは88年生まれ著者によるデビュー作。

 

ドゥルーズデカルトに関する著書の多い哲学者、小泉義之の600ページ超え大著。著者の哲学の集大成のよう。ちなみに1月に講談社学術文庫で刊行されたデカルト方法叙説』の新訳も手掛けており、気になります。

 

哲学史の本道から外れた「反─理性」の哲学の流れを、「バロック」の名のもとにまとめた檜垣立哉の大著。ドゥルーズベンヤミンホワイトヘッド坂部恵西田幾多郎九鬼周造などの名前が並ぶ。檜垣立哉についてはこちらの過去記事をどうぞ。

 

哲学、芸術、そして医学によって捉えられる対象である憂鬱(メランコリー)の系譜を、古代から現代まで追った文化史。著者の谷川多佳子は近世哲学を専門とし、岩波のライプニッツモナドロジー』の翻訳者でもある。

 

医師、精神医学史家であり、なんと『アイヒマン調書』の翻訳者でもある著者による、ユダヤ人であったフロイトとナチズムとの関係についての研究。精神医学の専門書店である誠信書房より。著者は『隣人が敵国人になる日』など、東欧とユダヤ人に関する本を多く刊行している。

 

ガリツィアというのは現在の西ウクライナとのこと。この地に住むウクライナ人、ポーランド人、そしてユダヤ人の複雑な関係と歴史について。2008年に出たものの新装版。

 

愛国思想、パトリオティズムの起源を古代ローマまで遡り、その後の歴史的な変遷を追う。著者は政治思想史が専門で、岩波から同テーマの『愛国の構造』や、ちくまプリマー新書から『従順さのどこがいけないのか』も出ている。

 

日清戦争から敗戦にいたる、帝国日本50年間のプロパガンダの歴史。著者は『満洲国のビジュアル・メディア』など、近代アジアのメディアについて著書がいろいろある。

 

近世の日本人は、災厄をどのように生き延びたか、という視点による近世史。2001年に同社から出ていた単行本が平凡社ライブラリー入り。

 

1930年代~40年代のアメリカで作られた、全て再婚をテーマにした7本の古典的映画を分析する異色の映画論。同じく映画論である『眼に映る世界〈新装版〉』と同時刊行。著者は2018年に逝去した哲学者で、美学や政治学、文芸評論など幅広いテーマの研究を残したそうだ。二冊ともに石原陽一郎訳。

 

東京都写真美術館で開催中の展覧会図録。1930年代~40年代に日本で起こった前衛写真の潮流をまとめる。

 

19世紀アメリカから現代の2.5次元まで、ミュージカルの歴史をまとめた新書。「なぜ突然歌いだすのか」という副題はインパクトがある。著者には『宝塚ファンの社会学』『コンサートという文化装置』などの著書あり。

 

最近すっかりツイッターでもよく見かけるようになったジジェクの評論集。最新の話題について語ってるようです。

 

博覧強記のおなじみ鹿島茂による、パスカル『パンセ』から抽出した人生論。パスカル入門によさそう。

 

「月刊ムー」に掲載された書評をまとめた本がなんと青土社から刊行。「その書評の範囲はオカルト関連書にとどまらず、天文学、考古学から理論物理学まで多岐にわたり、業界関係者の評価も高い」らしい……

 

 

ではまた来月。

ガヤトリ・C・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』コンパクトな講演録でスピヴァクに入門

ガヤトリ・C・スピヴァクを読んでみたいなと思ったので、とりあえず一番薄そうなナショナリズムと想像力』を買ってみた。ブルガリアのソフィア大学における講義が2010年に書籍化したものだ。巻末には聴衆との質疑応答も収録されている。

 

二つの「想像力」

 

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクはインドのコルカタカルカッタ生まれ。文芸評論、比較文学ポストコロニアル批評、フェミニズム批評の大家で、現在はコロンビア大学で教えている。またデリダの主著『グラマトロジーについて』の英訳者としても有名。この講演録は大変短いものなのでその仕事のごく一端しか知ることはできないだろうが、それでもとても興味深い。

題名となっているナショナリズム「想像力」だが、この想像力には二つの意味がある。ひとつはナショナリズムを成立させるものとしての想像力。もうひとつはナショナリズムを批判するための想像力だ。

著者はナショナリズムを、「記憶を蘇らせることによって構成された集団的想像力の産物」とする。ナショナリズムは過去の記憶を蘇らせ、人々が「母語を愛すること、自分の住む街の一角を愛すること」を利用して、社会の公的領域の支配に繋げようとする

ナショナリズムは、それがどんなものであれ、自分たちは特別な生まれだという私的な確信を持つことによって、二次的派生物ではない私的な──自分の街にいるという──安らぎを足場にすることによって、確保されるということです。

ナショナリズムは人々の私的な想像力を動員するのだ。

そして著者は、「独占せよ、というナショナリズムの魔法を解くのは、比較文学者の想像力です」と続ける。比較文学を専門とする著者は、文学を教えることによって、「ナショナリズムの同一性を超えて、インターナショナルなものの複雑なテクスト性(テクスチュアリティ)に向かっていけるように」することを目指すのだ。それを著者は想像力を「鍛える」ことだという。

 

口承定型詩と「等価性」

 

講演で語られる最も印象的なエピソードは、インドの少数民族であるサバル族の女性たちが歌う口承定型詩に関する部分だ。著者はこの貧しい人々のために教師を養成する仕事をしていた折、彼女らが受け継いできたこの詩が編まれるのを聴いたという。サバル族の女性たちが伝統的な定型詩を歌う中で自在に言葉を置き換える様子に、著者は「創意に満ちた等価性(イクィヴァレンス)」を見る。この等価性という概念が、この講演における「比較文学の想像力」を表わすキーワードだ。

著者は等価性(イクィヴァレンス)をこのように説明する。

等価性というのは、均一にすることではありません。差異を取り除くことでもありませんし、未知のものを既知の枠に押し込むことでもありません。それはおそらく、たとえば自分の第一言語が占めている唯一無二の場所を他のものが占めることができる、そういう認識を学んで手に入れることです。

このことがいかにナショナリズムの批判に関わるかは明らかだろう。

 

帝国の言語


スピヴァクはインド生まれの英文学者である。このことは、イギリスが長きにわたってインドを植民地としてきた歴史と切り離すことができない。スピヴァクにとって英語は支配者の言語なのだ。この講演も、著者が幼少期に経験したインド独立時の混乱についての話から始まっている。また著者の母親は当時、インドと同時に独立した東パキスタン(現バングラデシュ)からの難民の支援に当たっていたという。(インド東部にあるベンガル州が東西に分裂し、東が東パキスタン=後のバングラデシュに、西が著者の出身地コルカタのあるインドの西ベンガル州となった)

最後にこの英語という言語についての著者のコメントを引用しよう。

この協会(英連邦協会)は、アフリカやインドの様々な作品のテクスト分析を尊重する動きを歓迎すべきなのです。こうした動きはいまや、翻訳という問題を超えて、植民地主義によって閉じられていたもの──言語の多様性──を旧英連邦の加盟国が再び開く可能性に向かって進むべきなのです。コミュニケーションの媒体は英語のままでいいでしょう。私たちは利便性を考慮して、英語という植民地主義からの贈り物を受け取ります。しかし、作品はさまざまな言語で書かれ、比較研究されなければなりません。それはまさに、帝国がさまざまなお国言葉で返答してくるということなのです。

スピヴァクは、ナショナリズムを批判する想像力を鍛える第一歩として、母語ではない言語を学ぶことの重要さを強調する。そして彼女にとって言語を学ぶ目的とは、その言語で書かれた美しい詩を読むことなのだ。

 

そのうち読みたい

 

スピヴァクの邦訳は多い。サバルタンは語ることができるか』は代表作の一つだが、「サバルタン」とは「従属的社会集団」などと訳され、支配的な権力構造から様々な意味で疎外された人々を指す。

 

次の一冊

 

日本人によるポストコロニアル的なテーマを含んだ文芸批評で印象的だったのが、この中井亜佐子『〈わたしたち〉の到来』。著者はヴァージニア・ウルフ、ジョセフ・コンラッド、そしてハイチ革命に関する戯曲『ブラック・ジャコバン』を書いたC・L・R・ジェームズなどを取り上げ、文学における歴史叙述の方法を探る。またC・L・R・ジェームズのパートナーである、70年代の「家事労働に賃金を」運動を先導したセルマ・ジェームズについても多くの記述が割かれている。

 

最初にハマった小説がギブスン『ニューロマンサー』だった人間の末路

卵から孵って最初に見たのが『ニューロマンサー

 

私はウィリアム・ギブスンニューロマンサーが大好きというか、現在に至るまでに読んでいるSF、あるいは文学、あるいは小説に関しての私の好みを決定づけた作品であると言える。卵から孵って最初に見た生き物のようなものだ。私は卵から孵って最初に『ニューロマンサー』を読んだので、以後、小説というものは『ニューロマンサー』みたいであってほしいと思い続けて今まで生きている。

もちろんこれは生まれて初めて読んだ小説という意味ではなくて、現在に至るまでの小説の好みに連なる最初の作品ということだ。だから今回の文章はとても私的なものになるだろう。

 

確かに『ニューロマンサー』といえばサイバーパンクなのですが

 

ところでウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』と言われれば、知っている人はだいたい「ああ、サイバーパンクね」となるだろうと思う。

確かにこの小説はサイバーパンクと呼ばれるジャンルを代表する作品だ。しかしここからが面倒な話なのだが、私はサイバーパンク自体にはそこまで思い入れはないのである。

サイバーパンクというのは1980年代にかなり流行したSF概念で、サイバースペース、人体改造、退廃的なムード、近未来都市なんかのイメージで知られるジャンルだ。

ニューロマンサー』が好きと聞けば、聞いた人は「ああ、サイバーパンクが好きなんですね」と返すのが当然だ。しかし私はそこで、「いや、別にそういうわけでもないんですよね……もちろん嫌いじゃないですが……」と返してしまう面倒な人間なのである

(なお私はサイバーパンクの文脈でよく出てくる映画ブレードランナーGHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊も大好きだが、それも単にリドリー・スコット押井守が好きなだけである。本当に申し訳ない

 

ニューロマンサー』のどこが好きか

 

さて、では私は『ニューロマンサー』のどういうところが好きなのか。以下、箇条書きにしてみる

  • ハードボイルドな感じの、突き放した文体で書かれている
  • 都市の物語である
  • フェティッシュである
  • スペクタクルがある
  • よく意味の分からない固有名詞がバンバン出てくる
  • 全ての登場人物は主人公にとって他者であり、基本的に何を考えているのかわからない
  • 登場人物たちのもつ動機はごく個人的なものである
  • 伝統的な価値はだいたい崩壊している
  • 説明が少なく、何が起こっているのかわかりづらい
  • 本筋に直接関係のない事物がたくさん描写される
  • 新しいものと古いもの・現在のものと歴史を形成するものが両方出てくる
  • 具体的なものと抽象的なものが両方重視される
  • 寂しくてメランコリックである

ざっとこんなところだろうか。

こうして並べてみると、私が『ニューロマンサー』が好きなことと、それがサイバーパンクであること、さらにはSFであることとは、あまり関係がない気がしてくる。実際、ウィリアム・ギブスンのその後の作品は、年を追うごとにサイバーパンクでもSFでもなくなっていくのだ。(この辺、やはり私の好きな作家であるJ.G.バラードの場合にも似ている)

ニューロマンサー』に始まる「スプロール」三部作あるいは「電脳」三部作はいわゆるサイバーパンク小説なのだが、その後の『ヴァーチャル・ライト』に始まる「橋」三部作の舞台はぐっと現在に近づき、その後の『パターン・レコグニション』『スプーク・カントリー』に至ってはほとんどSF要素がない。

結局、私はギブスンという作家の小説の書き方に惚れ込んだということなのだと思う。ギブスンの小説はその後の私にとっての範例となり、私にとって面白い小説とはギブスンが書くような小説だということになった。

どんな小説か?つまり、あまり説明しすぎない突き放した文体の、フェティッシュでスペクタクルな、よく意味のわからない固有名詞と本筋に関係ない事物がバンバン出てくる、伝統的な価値が崩壊した後の孤独でメランコリックな都市の物語である。そういう小説こそが、面白い小説なのだ。

これは小説のある傾向を評価するとかしないとか、あるいはこういう小説が「いい小説」だとかいう話ではない。たぶん、単に私はこういうタイプの小説を読むと条件反射的に快楽を感じるのだ。 

これがつまり、卵から孵って最初に見たものが『ニューロマンサー』だった人間の有様である。とくと御覧ください。

 

ニューロマンサー』の具体的な内容

 

さすがにここで終わるのも申し訳ないので、『ニューロマンサー』の具体的な内容を多少は紹介しておく。

舞台は近未来。凄腕ハッカーだったケイスは、仕事のヘマにより神経毒を盛られ、電脳空間サイバースペースへの没入ができなくなり、チバ・シティで失意の日々を送っていた。「カウボーイ」と呼ばれるこの世界のハッカーたちは、頭に電極を貼り付けてネットワークの世界に直接入り込み、ウィルスソフトを駆使して企業の防壁を破り、情報を盗み出すのだ。

(この、まだインターネットが存在しなかった時代に書かれた電脳空間というアイディアが、『ニューロマンサー』を史上最も有名なSFのひとつにしている)

そんなケイスの前に、身体能力を強化した女性戦闘員・モリイが現れる。ケイスはモリイを通じて謎の男アーミテジの危険な依頼を受け、その見返りとして、再びハッカーとして電脳空間に入り込む能力を回復する。

アーミテジの背後には、あるAIの存在があった。“冬寂”ウィンターミュートという名のそのAIは、巨大な富を有する一族テスィエ=アシュプール家の所有物で、自分自身の解放を希望していた。チバ・シティ、スプロール(アメリ東海岸のどこか)、イスタンブール、宇宙コロニーへと舞台を変えながら、ケイスとモリイは現実世界と電脳空間の双方で、陰謀と暴力、狂気と幻影の渦巻く冒険を繰り広げる。

終盤、宇宙コロニー内にあらゆるアンティークとがらくたを寄せ集めて作られたかのような(そこにはデュシャンの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」も置いてある)構造物、“迷光”ストレイライトの中で、ケイスは全ての出来事の中心にいたある存在と対峙する。

 

ふたりは完全に真四角な部屋の中央に浮いていた。壁と天井は、四辺形の黒ずんだ木で、板張りになっている。床は一枚の鮮やかな正方形カーペットで敷きつめてあり、模様パターン微細素子マイクロチップ。回路が青や紅のウールで記されている。部屋の中央には、カーペットの模様パターンとぴったり合った位置に、つや消しの白ガラスの台座がある。
その台座の上の、宝石をちりばめたものが、音楽のような声を出し、
「ヴィラ迷光ストレイライトは内に向けて増殖する個体、擬ゴシック風の阿房宮です。迷光ストレイライトの中の各空間は、なんらかの意味で秘密であり、この果てしない部屋の連続をつなぐ形で、通路や、腸のように彎曲した階段があり、眼は極端な曲線に捕われ、華麗な幕や空虚な小部屋を通り抜けて運ばれ──」(「第四部 迷光仕掛けストレイライト・ラン」より)

 

あらゆるシークエンスを、古くて新しい無数のガジェット、文明の進歩と退化をともに示すような人やモノたちが埋めつくす。ギブスンの描き出す未来世界(あるいは現代世界)は、技術によって人が決定的に変わってしまい、しかしそのこと自体が人類の歴史で繰り返されてきたことだということを冷徹に語っている。その、夢想的でありながらメランコリックな視線がギブスンの魅力だと思う。

 

 

 

次の一冊

 

ニューロマンサー』と同じくらい好きなのが、この第二作『カウント・ゼロ』。この小説から、その後のギブスン作品ではおなじみとなる、複数人の主人公の視点から順番に物語を語っていくスタイルが現れる。前作に見られる魅力はそのままに、今作では前作よりもだいぶ親しみやすい人物たちが主人公になるので比較的感情移入がしやすくなっております。ちなみに私はこの本を読んで、箱作り作家ジョセフ・コーネルのことを知りました。

 

こちらの『クローム襲撃』は『ニューロマンサー』と前後して書かれた短編を集めた短編集。なにしろクセの強い文章なので、短編を試してみてから長編に進むという手もありかと。「記憶屋ジョニイ」「ニュー・ローズ・ホテル」「クローム襲撃」の三作は『ニューロマンサー』と同じ世界を舞台としたシリーズで、登場人物も一部共通してたりする。

 

サイバーパンク以降の作品で特に好きなのがこの『パターン・レコグニション』。2003に発表されたこの小説は、9.11へのリアクションとして書かれた最初期の小説でもある。ネット上に散在する、「フッテージ」と呼ばれる断片的な映像作品の謎を追う話。文庫化復刊してほしい。

 

ウィリアム・ギブスンに深く影響を受けて読書人生を始めた私が、その後出会うべくして出会ったと思うのがヴァルター・ベンヤミンである。ベンヤミンの都市論・文明批評を読んでいると、「いや、これギブスンの話じゃん」と思うことが多々ある。特に、現在的なものと古代的なものがひとつの形象の中に同時に現れるというアレゴリーの理論、そして打ち捨てられた瓦礫のような断片の集積こそを「歴史」と見る歴史哲学は、自分がギブスンのどこに魅せられたのかを説明してくれるように思えた。

 

 

ところでサイバーパンク以外に私が好きなSFのサブジャンルがあるとすれば60~70年代のニューウェーブSFになるのだが、そういう意味では私はギブスンをニューウェーブSFの後継者として好きなのだという言い方はできるかもしれない。

ニューウェーブSFに関しては以下の過去記事もご覧ください。

pikabia.hatenablog.com

pikabia.hatenablog.com

pikabia.hatenablog.com

 

 

それにしても、近年めっきりギブスンの新作が翻訳されなくなってしまったのは寂しい限りである。

原書で読むしかないのだろうか……

 

 

中島隆博『中国哲学史』 誠実でダイナミックな中国哲学入門

「中国」、「哲学」、そして「歴史」とは何か、から始まる「中国哲学史」

 

2月に刊行された新書中国哲学史』は、中国哲学に関してすでに多くの著書がある中島隆博による、中国哲学の概論・通史となる本だ。中国哲学について全く知らなかった私だが、最初の一冊として良さそうな感じがしたので読んでみた。

冒頭から感銘を受けるのが、本書における議論の前提を確認する「まえがき」の内容だ。この「まえがき」では、「中国哲学史」というものが決して自明のものではなく、この言葉そのものの中に強く地理的・政治的・制度的な条件が含まれているということが強調される。

「中国」「哲学」、そして「歴史」という概念そのものが、決して自明のものではないのだ。

 

そもそも「哲学」というカテゴリーは、ギリシア哲学に始まり、キリスト教との関係や西欧の大学制度の中で構築されてきたものである。これに対し「中国哲学」と言う場合、それは西洋の哲学と同じものの中国版(「中国における哲学」)なのか、あるいは別のものだが哲学に近い何か(「中国的な哲学」)なのか、などの問題が発生する。また「中国」そのものに関しても、古代の中国と現在の中国が果たして同じものなのかという疑問があるだろう。

このような前提を確認した上で、著者は中国哲学「中国(語)の経験を通じて、批判的に普遍に開かれていく哲学的な実践」と定義する。哲学というものには、その固有の言語における経験、そして普遍を目指しながらもそれ自体を批判可能な学であることが重要だということだ。

また「哲学史」にも同様の問題がある。著者はまず、西洋中心で超時間的な普遍性を前提とする哲学史を批判し、哲学史を概念が変遷していく歴史ととらえる「概念史」という考えを紹介する。次に歴史学におけるグローバル・ヒストリー、つまりヨーロッパ中心史観への批判の流れを紹介し、それを哲学史にも結び付けていく。

このようにして著者は、ともすれば疑問を持たずに流してしまいそうな、「中国哲学史」というテーマそのものについて真摯な検討を行う。この「まえがき」を読むだけでも、著者の誠実な姿勢に安心感を覚えるだろう。

 

国家との深い関係の中にある中国哲学

 

その後本書は孔子孟子荀子荘子……といった、誰もが名前くらいは知っているだろう古代中国の思想家から、仏教やキリスト教、そして西洋文明と中国哲学との対峙を経て、二十一世紀の展開までを駆け足で辿っていく。駆け足といっても、その密度は高い。著者はごく短い紹介と引用の中に、それぞれの時代と思想家のエッセンスを抜き出して解説していく。各章は短くまとまっているが、何度も読み返したくなる内容の濃さがある。

一読して印象に残るのは、中国の哲学というものが、常に「帝国」としての中国に関わっているということだ。秦・漢以降の中国の王朝は、つねにその権威と正統性を支えるものとして哲学・思想を必要とした。それぞれの思想家はある時は権力に奉仕し、ある時は君子たりうる道を為政者に説いた。中国の思想は常に、時の権力との駆け引きの中にあったのだ。

また近代から現代においては、世界を支配する思想となった西洋の原理、つまり西洋の科学と民主主義との出会いと衝突を経て、中国がいかなる原理において思考し、どのような世界の構築を目指すか、という問いが浮かび上がる。(そこにはもちろん隣国である日本も関わってくるだろう)

孔子老子といった中国の思想というと、日本ではもっぱら人生論や道徳観として語られがちな気がするが、そういうものではない、世界そのものとダイナミックに関わっていく中国哲学の世界を垣間見せてくれる本だと思う。

 

孔子と「仁」・「礼」について

 

この本に書かれているそれぞれの哲学について短くまとめることは難しいが、ここでは特に印象に残った、孔子「仁」、そして「礼」についての部分を取り上げてみる。

史記』を記した司馬遷によれば、孔子は国なき人だったという。孔子は周という国では周縁化された異邦人だったということが、まず強調される。

さて、孔子の思想の核心は「仁」という概念であった。これは人間らしさに関わる概念だが、しかし決定的な定義はなく、つねに発見的に探究されるものだという。

『中国思想史』を書いたフランスのアンヌ・チャンによれば、孔子「仁は、人を愛することである」という言葉から、孔子の語る愛とは、神という超越的な源泉に基づくことがなく、人間的なものに根差しているものだという。それも、感情的で相互的な人間にである。

(この「感情的で相互的な人間」というのは、近代のヒューマニズム的な理性的な主体とは別のものであると著者は言う)

 

仁は「礼」によって表現されるという。礼とは客観的で普遍的な規範ではなく、そのつど見直され変形されるものである。

ここで挙げられている礼は、単なる儀礼的で形式的な規範ではない。それは、バラバラになりそうなこの世界を繋ぎ止める、弱く、不安定な規範であって、人間の感情の様式化に由来するものだ。(中略)

ここで重要なことは、礼が万古不易の規範ではなく、歴史的に変容する規範であるということだ。

孔子の異邦性はここに関係してくる。歴史的なヘテロトピア(別の場所、異邦性)が、わたしたちの「別のしかた」を肯定するからだ。

 

最後に、孔子による、礼というものの根源的な定義についての部分を引用しよう。

では、礼はどこで最も効いてくるのか。それは、とりわけ死の瞬間である。さらに言えば、ひとつは、他の生物を殺して食べる時であり、もうひとつは人の命が尽きる時である。

(中略)

食事のマナーは文化によっても時代によっても変化する。たとえば、日本料理では麺を音を立ててすすったり、お椀やお皿を手に持ったりすることがしばしばあるが、それを無礼と感じる文化もある。

(中略)

論語』のこの箇所にも、実に細かい規定があり、何ともややこしいと感じることだろう。しかしポイントは、食べるという最も基本的な行為が、仏教的に言えば殺生なしには成立しないことにある。根本的な暴力をむき出しにしてはならない。それを何らかの仕方で飾ること。これこそが礼なのだ。(「第5章 礼とは何か」より)

「礼」というものに対するイメージが少し変わるような話ではないかと思う。

 

そのうち読みたい

 

しばらく入手が難しかった中島隆博による中国哲学の本が、ここへきて続々復刊中である。『中国哲学史』に続けて読むのに最適だろう。

 

次の一冊

 

哲学者・作家である千葉雅也の自伝的なこの小説には、中島隆博をモデルにしたらしい教授による、荘子に関する授業のシーンがある。詳細に描写されるそのシーンを読むと、「この講義、受けたい!!」と思うこと間違いなしだ。

 

雑談:漫画を途中から読むのが苦手という話(そしてMCU)

大人になって失われた能力

 

今回は、私が失ってしまった能力について書きたいと思う。「漫画を途中から読む能力」である。

 

かつて、私が子供だった頃、あるいは漫画雑誌を買っていた頃、漫画を途中から読むことは普通だった。

雑誌に載っている漫画や、たまたま途中の巻を手に取った漫画など、キャラクターやストーリーがわからなくても気にせず読んでいた。

しかし現在──いったいつ頃からだろうか──漫画を途中から読むことが苦手になってしまったのだ。別にキャラクターやストーリーがわからなくても読めはする。しかし、もし漫画を読むなら、最初からちゃんと読むべきだ……最初から読んだ方が面白いはず……途中から読むなんてもったいない……そんな観念が頭をもたげ、途中から読むくらいなら読まなくていいや、と結局読まずじまいになってしまうのだ。

これは損失である。現に私は少年ジャンプとジャンプSQの電子版を購読しているが、上記の理由により、最初から読んでいた漫画しか読んでいない。途中からでも読めばいいではないか!せっかく買っているのだから! あるいはウェブやアプリの漫画だって、気になったら無料公開してる最新話から読めばいいではないか。しかし、どうにも手が伸びないのだ……

こちらはインド料理のプラータ。カレーにつけて食べると美味しい。

 

途中から読んでもいいはずだ!いやむしろ途中から読むべき?

 

理性ではわかっているのである。必ずしも、わざわざ最初から読む必要はないと。

それは確かに、作者たちが計画し、緻密に構築したであろう話の運びや、キャラの登場のさせ方や、張られた伏線などを十全に味わうことはできないであろう。しかしそれが何だというのか。作品が提供するものを十全に味わう、などというのは作品と読者の理想化された関係にすぎないではないか。そもそも最初から読んだ場合に、そういったものを十全に読み取っていると言えるのか。もっと適当に読んでいるではないか。だったら途中から読んでも同じだし、面白い漫画なら途中からでも読んだ方が作者にとってもいいではないか。そもそも、漫画の単行本についてるキャラ紹介や「これまでのあらすじ」ページは、途中から読む人のためにあるのではないのか?

そう、そうなのだ。書けば書くほど、途中からでも読んだ方がいいと思えてくる。

しかも、漫画を途中から読むという行為には、ちょっとノスタルジックで甘美な趣もある。それは幼年期の記憶と結びついた感情であろう。幼い頃、私はいろんな漫画を途中から読んだ。そこでは誰だかよくわからないキャラクターが、なんだかよくわからない事情で活躍していた。私はおそらく、そういうよくわからなさが好きだった。

今にして思えば、それはむしろよりリアルな世界の手触りかもしれない。そもそも我々は世界の全容を知ることなどできない。であれば、読んでいるフィクションによくわからない部分があるのは当然ではないか。だいたい、作者が作品の全てをコントロールしているという観念自体が眉唾なのだ。もちろんみんな頑張ってコントロールしようとしているのだろうが、しょせん人間の考えることである。無意識まではコントロールできないし、思考に枷のように嵌められた形式に逆らうことすら容易ではない。であれば、むしろ途中から読むくらいがちょうどいいのではないか? 作者の計算の効果が発揮されない状態にあえて身を置いた方が、より作者の根源にあるものが現れるのではないか──?

 

まあ最後の方は半分冗談だが、だいたいこういう感じで、「途中からでも漫画を読んだ方がいいよな~」と考えているのである。この文章を書くことで、その目標に一歩近づけるかもしれない。読めるような気がしてきた。私は、「漫画を途中から読む能力」を取り戻したいのだ。

(そもそも昔の漫画は、「読者が最初から全部読んでくれること」を現在ほど期待せずに描かれていた気もする。この辺は「漫画雑誌を読む」という習慣の変遷にも関わって来るだろう)

 

救世主となったMCU

 

さて、実は近年、漫画とは別のところで、「物語を途中から追う」という体験をさせてくれたものがある。

アベンジャーズでおなじみ、マーベル・シネマティック・ユニヴァース(MCUである。

台湾に住んでいた頃、なんとなく映画館に行く余裕ができ、最初のアイアンマンくらいしか見たことがなかった私はいきなりマイティ・ソーの三作目『ソー・ラグナロクを見に行った。楽しかった。そもそもソーが誰なのかわからないし、ロキとの関係もわからないし、サプライズ登場するハルクもわからない。しかしそんなことは問題なく、私は大いに映画を楽しんだ。

その後も私は公開されるシリーズを見続けたが、その時点ですでに膨大だった過去作を全部見るつもりはさらさらなく、何本かつまみ食いしただけでアベンジャーズ・エンドゲーム』まで駆け抜けた。過去作を全部見るのは無理だな、と自然に思える物量が、それを可能にしてくれたのだろう。(なおこのつまみ食いの段階でバッキーにハマり、バッキー登場作は全部見る、というような楽しい寄り道もあった)

それは久方ぶりの、「よくわからないキャラが、よくわからない事情で活躍しているのを特に気にせず楽しむ」という体験だった。

様々なヒーローやヴィランが登場する度に、「なんかいるんだな~、そういうキャラが」と思いながら見たものである。それは前述のように、ある意味では失われた幼年期を取り戻す体験だった。マーベル映画に感謝したい。

 

 

当時こういうのを読んで、「なんかそういうキャラがいるんだな~」とぼんやり把握して映画を見てましたね。

 

この過程でキャプテン・マーベルにはまってこの日本語版も読んだんですが、そういえばアメコミもだいたい「なんかこの話の前にいろいろあったんだろうな……」という読み方になりますよね。

『逆行の夏──ジョン・ヴァーリイ傑作選』で読む、ヴァーリイの煌びやかで繊細なSF

ジョン・ヴァーリイの短編「逆行の夏」を紹介します。

 

ジョン・ヴァーリイは70年代末から活動しているアメリカのSF作家で、私のとても好きな作家の一人だ。SFファン向けの説明をすると、だいたいニューウェーブサイバーパンクの中間くらいの作風だと思う。

つべこべ言う前に、まずは私のとても好きな短編「逆行の夏」(1975年発表)のあらすじを紹介してみよう。


太陽系に住処を広げた人々が裸で過ごし、当たり前のように性転換する未来。水星に住む者は肺に機械を埋め込み、体表に形成される流動的な銀色の宇宙服(〈服〉と呼ばれる)を身につけて真空中を歩いている。15歳までは女性だった少年ティモシーは、月からやって来た自分のクローンである姉・ジュビラントと初めて会う。

ジュビラントを自宅へ招き、母を交えて話しているうちに、ティモシーは自分の家族の不自然な点について疑問を抱く。その後二人は水星の名所である水銀の池のある洞窟へ向かい、地震に遭って閉じ込められる。

ティモシーは、水星に慣れないジュビラントが酸素の備蓄を十分にしてこなかったことを知る。ティモシーは〈服〉を連結し、ジュビラントに残り少ない酸素を分け与える。二人が寄り添うと、銀色の〈服〉は触れた部分から溶け合って繋がり、二人は裸で触れ合うことになる。

「つまり……わかったわ。〈服〉を着たままメイク・ラブできるのね。それがあなたのいってることなの?」
「水銀の池でやってごらん、最高だよ」
「わたしたち水銀の池にいるわ」
「だけどいまはできない。オーバーヒートしちゃう。自制しなくちゃ」
彼女は黙っていた。でもぼくの背中で彼女の手がぎゅっと握られるのを感じた。

 

「ティモシー、あなたのお母さんについて、どんな質問にも答えるわよ」
彼女がぼくを怒らせたのはこれがはじめてだった。タンクをいっぱいにしておかなかったことについては腹が立たなかった。冷却についてでさえそうだ。それはむしろぼくの失敗だった。冷却の強度について、生き残るための予備を確保しておくことがどんなに大切なことかきちんと告げないまま、軽く見ていたのだ。彼女もまじめにとらなかった。そして今ぼくらは、ぼくのささやかな冗談のつけを支払っているわけだ。彼女がルナの安全に関する専門家だというので、自分のことは自分でできるだろうと思い込んだのがまちがいだった。危険に対して実際的な予測ができないのに、そんなことができるはずがない。
ところが、この申し出には酸素に対するお礼のようなニュアンスがあり、そして水星ではそんなことをしてはいけないのだ。進退きわまったとき、空気はいつでもタダで分かち合うものなのだ。感謝なんて礼儀知らずだ。
「ぼくに何か借りがあるなんて考えないでくれ。それはよくないことだ」
「そんなつもりでいったんじゃないわ。もしもこの地の底で死ぬことになるのなら、秘密をもったままなんてバカげていると思うの。これは筋が通っているかしら?」

 

助けを待つ間、ジュビラントは秘密にしていたティモシーの出生の秘密を明かす。二人がなぜこの世界では珍しくクローンとして存在するのか、そしてなぜこの世界の慣習に反して、親と離れて暮らしていたのかという謎が明かされる。

 

ざっとこのような話だ。この短編は〈八世界〉と呼ばれるシリーズの一篇で、このシリーズは太陽系の各惑星に人々が住んでいる世界を舞台としている。人類は己を改造して各惑星に適応し、また性転換や年齢操作が当たり前となっている。

ご存じのようにSFと言ってもいろいろなものがあるが、私がSFに期待するものは、ひとつには美しく(あるいは醜く)魅力的なイメージと、そしてもうひとつは、我々の常識とは違う世界観や価値観である。ヴァーリイの書くSFはその両方を備えている。

ヴァーリイの多くの作品では、性別や容姿だけでなく、人々の欲望や、社会の目的そのものが我々の住む世界とは大きく違っていて、その中でドラマが展開する。

ヴァーリイはきらびやかなイメージと奇抜な世界を華麗に描きつつも、意外と人間関係にまつわる感情を細やかに扱う。ただしその人間関係は我々の知る共同体的なものではなく、我々の世界とは全く違う基準の中で、お互いに異なる人々がどのように関わりうるかを探るものだ。

この短編の結末で明かされる秘密も、我々の知る家族や共同体のあり方を軽やかに相対化するような、そしてその上で人間について考えるような、そんな秘密である。

 

この短編は、2015年にハヤカワ文庫から復刊された同タイトルの短編集に収録されている。障害のある四肢を補助マシンで動かす女優との恋愛を非対称性の中で描く「ブルー・シャンペン」など、他の短編も粒揃いなのでぜひ読んでもらいたい。

 

次の一冊

 

ヴァーリイの〈八世界〉シリーズ全短編は以下の二冊に収録されている。新品は手に入りづらそうですが…… なお同シリーズには長編も「へびつかい座ホットライン」「スチール・ビーチ」の二作があるようです(未読)。

 

 

ジョン・ヴァーリイと少し近いイメージがあるのが、私の最愛のSF作家のひとりであるサミュエル・ディレイニーだ。アメリカのニューウェーブSFを代表する作家である。煌びやかなイメージと、オルタナティブな社会の姿を描いていく感じが似ていると思う。ディレイニーの方が、ヴァーリイよりも抽象度と幻想度が高いかな? 新刊で手に入るものの中では、短編集『ドリフトグラス』がお勧め。(というか文庫が全滅状態でハードカバーしかない)

 

ちなみに上記の『ドリフトグラス』を含む国書刊行会未来の文学」シリーズについては、以前も紹介しているのでご覧ください。

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多木浩二『肖像写真』 ナダール、ザンダー、アヴェドンから読み解く、歴史の無意識

三人の肖像写真家


今回は、以前当ブログでベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を紹介した多木浩二の本をもう一冊紹介しよう。

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今回取り上げる『肖像写真』岩波新書)は、美術、写真、映画、建築など多彩な分野の批評を残した著者の晩年の新書で、理論的な著作というよりは批評的エッセイという感じで読みやすい一冊だ。

この本ではナダール、アウグスト・ザンダー、リチャード・アヴェドンという三人の著名な肖像写真家を取り上げ、それぞれの写真の違いを通じて、写真の発明からおよそ一世紀にわたる、写真のありかたと社会そのものの変化を読み取っていく。

まずはそれぞれの写真家の概要を簡単に紹介しよう。

  • ナダール(1820~1910)
    フランスの写真家。風刺画家として出発し、後に写真家に。パリに写真館を開き、多くのブルジョワジーの肖像写真を撮影した。
  • アウグスト・ザンダー(1876~1964)
    ドイツの写真家。ドイツの様々な職業・階層の人々の肖像写真を撮影し、それらをまとめてドイツ社会を表現しようとした。
  • リチャード・アヴェドン(1923~2004)
    アメリカの写真家。ファッション写真で成功し、後に多くの肖像写真を撮影した。


多木浩二はこの三人における肖像写真の変遷から、被写体を撮影する写真家の視線そのものの変化を読み取る。

まずナダールは写真館で有名無名の多くのパリ市民を撮影したが、際立つ作品は当時の著名人たちだという。ナダールは風刺画家時代に「パンテオン・ナダール」という大作を発表したが、それは当時のパリを代表する著名人たちの似顔絵を並べたものだった。ナダールは彼らの顔の個々の特徴を捉えて表現し、それを並べることでその時代のパリを表現したのだ。

同じように彼は肖像写真においても、著名人たちの内面を引き出し、かつての写真館で使われていたような装飾的な背景を使わず、灰色の背景の上に彼らの姿を浮かび上がらせた。

ナダールは、その抜きんでた人々の肖像写真の数々によって、エリート主義的なブルジョワジーの時代ブルジョワジーの神話を伝えている。

 

一方、それに続くザンダーが撮影したのは著名人ではなかった。ザンダーはドイツの農村や都市に住む普通の人々を、その職業や階層を強く表現するような形で撮った。どの人物も、その生活や立場を力強く表現し、そしてそのような肖像写真が集まることによって、当時の社会の全体像が現れてくる。

ザンダーによれば、「個人はおのれを歴史に刻印し、同時に歴史の意味を体現する」という。ザンダーの写真は20世紀初頭のドイツの一地方を写したものだが、それは写真のイメージでしか触れえない歴史へと我々を導く。

 

最後のアヴェドンは、真っ白い背景の上で肖像写真を撮った。アヴェドンによれば暗い背景は何らかの存在を感じさせて充実しているが、白い背景は空虚である。白い背景は、被写体を撮影場所や環境などの偶然から隔てて、その人そのものとする。アヴェドンは多くの著名人を撮ったが、その社会的地位ではなく、彼ら個人の中から自分が読み取るものを撮影した。

ナダール、ザンダーの時代を経て、アヴェドンの時代には写真家個人の視点が重要になった。アヴェドンは白い背景の力を借りて被写体個人に迫っていくが、それは写真家自身を見ることでもあった。20世紀後半に至り、写真は被写体と同時に写真家個人を表現するものとなっていく。

やがてアヴェドンはアメリカの無名の人々を撮影して写真集にまとめ、また父親の死期に際してはその写真を撮り続けた。晩年にはボルヘスベケットフランシス・ベーコンといった彼の敬愛する芸術家たちを撮った。アヴェドンは優れた技巧によってその肖像写真を撮影したが、そこに現れるのは生々しさと同時に空虚さでもあった。それは20世紀後半に徐々に現れてくる、非人間的な歴史を表現するものでもある。

 

肖像写真と歴史

 

ナダールはボードレールを始めとする19世紀の芸術家や著名人たちの生き生きとした姿を撮影しながら、しかしその写真はブルジョワジーの世界に閉じていた。

ザンダーの写真は世界に開かれ、ドイツの一地方のあらゆる階層の人々を撮ることにより、世界全体を表現しようと目論んだ。

そしてアヴェドンはニューヨークのファッション写真家としてスノビズムから現れ、著名人から無名の人々まで多くの人々を進歩した撮影技法で写したが、そこで表現されたのは世界の空虚さでもあった。

 

多木浩二は、写真は言説としては記述されない、歴史の無意識を表現するという。三人の肖像写真家を辿って語られたのは、近代という歴史の無意識なのだ。

普通、歴史は言語によって記述されねばならない。そのことに強い関心を向けた人びとが、叙述の比喩的性格にまで立ち入ろうとしたことがあった。しかし写真におけるまなざしは、記述的な歴史の構成される以前の状態で働いている。これはまなざしだけではなく、日常の習俗としか思われないものも、いつのまにか歴史を変えていく新しい力になっていくことと同様である。同時代の歴史とは、記述されうる歴史と、まだ言説にはならないマイナーな実践の二重の関係のなかで進んでいくものである。だからまなざしもこの関係のなかに巻き込まれ、写真は論証しないから、記述しえない歴史を語るようになるのである。言葉を換えれば、それは「記述される歴史」の無意識をなしているのである。(「終章 肖像写真と歴史」より)

写真や建築などの形で現れる芸術と技術、それが「歴史」と切り結んでいる関係を、多木浩二の本はいつもスリリングに取り出してくる。

 

次の一冊

 

このモダニズムの神話』はもともと1985年に刊行されたものだが、現在はオンデマンド版が手に入るようだ。20世紀初頭のモダニズムの諸文化を広範に取り上げて分析を加え、資本主義と文化の関係の根源を探る濃密な論集。80年代における日本の批評の盛り上がりも感じられる。

 

こちらもオンデマンド版。未来派ロシア・アヴァンギャルドなどやはりモダニズムの芸術を扱った本だが、『進歩とカタストロフィ』というタイトルがその問題意識をコンパクトに表現している。エル・リシツキーをあしらった表紙もとてもよい。

 

そのうち読みたい

 

文庫で買えるこの二冊、『眼の隠喩』天皇の肖像』多木浩二の代表的な仕事として挙げられることが多い。どちらも面白いことはわかりきっているので読みたいです。