もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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ジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』 謎に満ちた語りと美しい文章に魅せられる技巧派SF短編集

未来の文学」シリーズの定番短編集

 

以前このブログでジーン・ウルフの傑作SFケルベロス第五の首』(およびそれを含む国書刊行会未来の文学」シリーズ)を紹介したことがあるが、同シリーズから出ている、同じくジーン・ウルフの短編集『デス博士の島その他の物語』が重版されたという知らせが届いた。

 

 

これは2006年に刊行されたハードカバーの本で、遠からず刊行20年を迎えることになるが、そのような本が判型を変えることもなく版を重ねているというのはとても稀有なことだと思う。この本が(そして「未来の文学」シリーズが)より多くの読者を得られることを願って、当ブログでも紹介することにする。

 

以前の記事はこちら。

pikabia.hatenablog.com

 

ジーン・ウルフは1931年に生まれ2019年に没したアメリカの作家で、1965年にデビューし、多くのSF、ファンタジーを発表した。日本ではファンタジー方面の代表作新しい太陽の書シリーズが1980年代に翻訳されていたが、現在における人気を決定づけたのは、「未来の文学」シリーズから刊行された前述の長編ケルベロス第五の首』(1972年発表)、そして70年代に書かれた短編を集めたこの『デス博士の島その他の物語』の二冊だと思われる。70年代に書かれた作品群が今世紀に紹介され、多くの新たな読者を獲得したというわけだ。

(「未来の文学」シリーズは、他にも多くの過去の作品をこのように紹介してくれている)

 

 

ではこの短編集に収録された作品群を紹介しよう。

中核をなすのは、「島シリーズ」などと呼ばれる一連の中短編群だ。

 

  • The Island of Doctor Death and Other Stories 「デス博士の島その他の物語」
  • The Death of Doctor Island 「アイランド博士の死」
  • The Doctor of Death Island 「死の島の博士」

 

よく見てもらえばわかる通り、これらの作品の題名は全て、「死」「島」「博士」の三語を並び替えて作られたものだ。

と言っても、これらの作品はそれぞれ完全に独立したもので、内容については互いに何の関係もない。また、最初からこの三作が計画されていたわけでもなく、順番に「じゃあ次は……」と書かれたものらしい。このような遊び心に満ちた、あるいは冗談みたいな題名で、しかしいずれも劣らぬ傑作を書いてしまうところがジーン・ウルフの恐ろしさなのだ。

 

「デス博士の島その他の物語」

それぞれ簡単に内容を紹介しよう。この表題作の主人公(主人公だが、地の文によって「きみ」と呼び掛けられる)はタックマン・バブコックという少年だ。タックマンは母親と二人で海辺の古い家に暮らしているが、母親と周囲の大人たちは様々な問題と思惑を抱えている。

印象深い書き出しを引用しよう。

 

落ち葉こそどこにもないけれど、冬は陸だけでなく海にもやってくる。色あせてゆく空のもと、明るい鋼青色だった昨日の波も、今日はみどり色ににごって冷たい。もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら、きみは浜辺に出て、一夜のうちに訪れた冬景色のなかを何時間も歩きまわるだけだ。砂つぶが靴の上を飛び、しぶきがコーデュロイの裾を濡らす。きみは海に背をむける。半分埋まっていた棒をひろい、そのとがった先っぽで湿った砂の上に名前を書く。タックマン・パブコック、
それから、きみは家に帰る。うしろで大西洋が、きみの作品をこわしているのを知りながら。

(「デス博士の島その他の物語」より)

 

 

孤独と寄る辺なさの中で生きるタックマンは、手に入れたパルプ小説「デス博士の島」に夢中になる。不穏な日々の中で、やがて小説の登場人物たちが少年のもとを訪れるようになる。逞しいランサム船長や獣人のブルーノ、そして妖しくも美しいデス博士

やがて少年の生活には大きな事件が訪れ、その中でタックマンは、もう本の続きを読みたくないとデス博士に告げる。本を読み終われば彼らは去ってしまうからだ。それに応えるデス博士の言葉は、多くの読書家の心に刻まれた名文句となっている。ぜひ読んで確認してほしい。

 

さて、このようにまとめるとごく単純な話に思えるし、実際そのように読むこともできるのだが、しかしジーン・ウルフは厄介な作家として知られている。

ウルフの小説はほとんどの場合「信頼できない語り手」によって語られており、その描写は多くのことを隠し、また複雑な含意を持ち(あるいは持っているように見え)、多くの事柄が曖昧な謎のままにされる。

しかし、それは決してウルフが曖昧な小説を書く作家という意味ではない。むしろその小説は飽くまでも緻密に構成され、しかしその全貌を書かない、という方法で成り立っているのだ。

この「デス博士の島その他の物語」に対しても多くの読解が行われているので、興味のある向きは調べてみてほしい。

 

いずれにせよこの短編は、孤独な少年にとっての読書の意味だけでなく、作中作として書かれるH.G.ウェルズ(「モロー博士の島」)へのオマージュと、そのような古典冒険小説とその後の時代との対比、また70年代のアメリカ社会、特にドラッグ・カルチャーが残したものの明暗、といった様々な要素が、凝りに凝った技巧によって盛り込まれた傑作だと思う。

 

「アイランド博士の死」

島シリーズ二作目のこちらは、ネビュラ賞ローカス賞を受賞している。

舞台は打って変わって、木星軌道上にある小さな人工星。その閉鎖空間内に作られた島は、ある種の医療施設として、「病気」とされた人々を収容している。

この島へ送り込まれた少年ニコラスに、波や風の音、あるいは鳥や動物の声を使って何者かが話しかける。その言葉の主こそはこの人工島そのもの、この医療施設そのものであり、自らを「アイランド博士」と名乗る。

この中編では、少年ニコラスの奇妙だが理にかなった振る舞いや、互いを探るようなアイランド博士との対話、そして宇宙に浮かぶ人工島の豊かな自然とそれを取り巻く機構の姿とが、美しく流麗な文章で描かれる。ジーン・ウルフは非常な名文家でもあるのだ。

 

地面はかなり急傾斜の登りになった。とある林間の空地で少年は立ちどまり、後ろをふりかえった。 今、その下をくぐって登ってきた密林が、池の面をおおう藻のように緑の膜を張り、そのむこうに海が見える。左右の視野はまだ葉むらにふさがれ、行く手にはまばらに木の生えた草地が、(少年は気づかなかったが、ちょうど彼が最初にくぐり出てきた四角な砂のハッチのように)斜めに立てかけられたかたちで、見えない頂上に向かって険しくのびている。足もとでほんのかすかに山腹がゆれているような気がした。とつぜん、少年は風に問いかけた。
「イグナシオはどこだ?」
「ここにはいない。もっと浜の近くにいる」
「じゃあ、ダイアンは?」
「きみがおいてきた場所にいる。このパノラマが気にいった?」
「きれいだけど、地面がゆれてるみたいだ」
「そのとおり。わたしはこの衛星の強化ガラスの外殻に、二百本のケーブルでつなぎとめられているが、それでも潮の干満と海流がわずかな振動をわたしの体に伝えてくる。この振動は、いうまでもなく、きみが高く登るにつれて大きくなっていく」

(「アイランド博士の死」より)

 

人工の自然の中で、ニコラスはイグナシオという青年、ダイアンという娘と出会う。彼らもまたこの島で治療されている者たちだ。読者はニコラスとともにこの謎めいた人工島を探検し、アイランド博士と対話し、二人の人物に恐る恐る近づいて、自分と世界の有様を探っていくことになる。

ここでも作者の企みは冴えわたり、読者は美しい文章に酔いながら、少しずつこの島の秘密を知っていく。そして最後には残酷な事実が明らかにされ、ニコラスと読者はともに置き去りにされるかのようだ。描写と叙述の力をこれでもかと駆使して語られる、残酷な物語である。

 

「死の島の博士」

私にとって最も謎めいているのはこの三作目だ。正直言って、何が書いてあるのかしっかり読めている自信はない。

今作の主人公もまた閉じ込められている(ちなみに、以前紹介した長編『ケルベロス第五の首』の主人公の一人も幽閉されていた)。殺人罪終身刑となり、末期ガンに罹患したことにより40年間の冷凍睡眠処置をされていたアランが目覚めるところから物語が始まる。40年後の世界では人々は老いを克服し、事実上の不死を獲得していた(事故や怪我によっては死ぬ)。

アランはかつて発明家で、本の表紙に回路を埋め込むことにより「スピーキング・ブック」を生み出した。現在この種の本は世界を席巻し、本はもはや読むものではなく、会話しながら聞くものとなっている。アランが殺したのは、この事業のパートナーだった。

 

物語は、アランが収容されている刑務所病院の様子、40年後の未来世界の有様、そしてアランの過去などの要素が、行きつ戻りつしながら、少しずつ語られる。叙述は一直線には進まず、情報は小出しにされ、この世界は何なのか、一体アランに何が起こったのか、ほんの少しずつしか見えてこない。

病院の用務員やカウンセラー、謎めいた医師、生き長らえていた妻などの登場人物が意味ありげに登場し、それぞれ印象的な形でアランと関わっていく。いまだ終身刑のなかにある自分の行く末を、何故かアランは楽観しているようだ。

やがて外の世界では、スピーキング・ブックにまつわるある異変が起こり始める──

 

こうやって概要を書き起こしていても、「あの描写は何だったのか?」「あの人物は結局何物だったのか?」「このシーンでは何が起こっていたのか?」などと疑問がどんどん出てくる。

しかし、それは決して不満ではない。むしろさらに興味をかき立てられ、すぐにでも再読したい気分になってくる。このような読後感は、ウルフのほとんどの作品に共通するものだ。

 

その他収録作と、必読の「まえがき」

この短編集には、上記三篇のほかに、文明崩壊後のアメリカを舞台にしたアンチ・ミステリ的なSFアメリカの七夜」オズの魔法使いを題材にした、目が見えない少年の冒険譚「眼閃の奇跡」の二篇の中編を収録している。これらもまたたいへんに印象深い傑作で、なんなら別の記事で紹介したいほどだ。

そして本書の冒頭には、上記「島シリーズ」三作が書かれた経緯を語る「まえがき」が収録されているのだが、実を言うとこの「まえがき」も大きな読みどころだ。意外な経緯を面白おかしく語りつつ、あっと驚くような仕掛けが、この「まえがき」自体に仕込まれているのだ。洒脱としか言いようのないこの仕掛けを、ぜひ味わってもらいたい。

 

久しぶりにこの中短編集を読み返したが、あらためて読むとジーン・ウルフの作品には、いかにもニューウェーヴSFという感じの捻りや実験精神、スタイルへの野心とともに、オーセンティックな、大文字の「文学」への帰依のようなものを感じた。ニューウェーヴ的なものと、もっとエスタブリッシュメントとしての文学的なものの同居と言おうか。(もともとニューウェーブSFは、大衆小説としてのSFから離れ、現代文学との同時性を目指したジャンルでもあるのだが)

ウルフはSF、ファンタジーの枠を超えて、「現在最高の英語作家」と称されたこともあるというが、その理由はこのあたりにもあるのだろうか。

(またウルフは、「カトリックの作家」として語られることも多い。ウルフの小説のカトリック的な要素というのも気になる話題だ)

 

次の一冊

 

同じく「未来の文学」シリーズから出ている短編集。こちらはより短い作品が集められており、比較的気軽に読める。収録された短編全てが、何らかの記念日にちなんだものとなっている。

 

こちらはウルフの長編。アメリカに住むとある老人の回想という体裁の小説なのだが、長編だけあって謎の量も段違いに多く、読者はひたすら眩惑され、今読んでいる文章に何か隠された意味があるのではないかと疑いながら読むことになる。私も一読後、他の人の読解を見て驚愕しながら読み返した。

 

 

 

奈落の新刊チェック 2024年3月 海外文学・SF・現代思想・哲学・嘘つき姫・ブルックナー譚・見ることの塩・少女小説とSF・アンチ・ジオポリティクス・ゾンビの美学・ピラネージほか

暑くなったり寒くなったりしつつ早いもので世の中は新年度ですが、まだまだ旧年度の新刊が睨みを利かせています。年度の切れ目など、人類そして宇宙の歴史の前では何の意味も持たぬ区切りにすぎない……人類の営みとは……などと紋切り型の詠嘆をたわむれに捻りつつ、2024年3月の気になる新刊をどうぞ。

 

2020年より、SFを中心とした様々なコンテストに入賞してきた新鋭の初の単行本が登場。岸本佐知子小山田浩子・斜線堂有紀という豪華作家陣が推薦コメントを寄せている。

 

今年2月に『東京都同情塔』で芥川賞を受賞した作者の、昨年の野間文芸新人賞受賞作が前後して単行本化。

 

2022年に芥川賞候補となった筋トレ小説が文庫化。昨年の『我が手の太陽』も芥川賞候補。

 

2012年に刊行された金井美恵子の話題作が満を持しての文庫化。

 

小説、評論、アンソロジストとして活躍する高原英理による、作曲家ブルックナーの「評伝と小説のハイブリッド」とのこと。同著者についての過去記事はこちら↓

高原英理『ゴシックハート』 抑えた筆致で語る、反逆の美意識 - もう本でも読むしかない

 

なんと、新潮文庫安部公房に新刊が登場。比較的近年に発見された初期作などを集めたもののようです。

 

アンゴラ生まれのポルトガル人作家による移民小説。訳者はパウロ・コエ-リョやジョゼ・サラマーゴなど手掛け、近訳書にアグアルーザ『過去を売る男』サラマーゴ『象の旅』など。

 

レムのメタ・ミステリと不条理小説を合わせて収録した、ファンには嬉しい一冊。訳者は同シリーズのレム『FIASKO‐大失敗』のほか、アダム・ミツキェーヴィチ『コンラッド・ヴァレンロット』など手掛ける。

 

パレスチナ生まれの詩人ダルウィーシュの詩集が、四方田犬彦訳でちくま文庫より刊行。エドワード・サイードにも影響を与えた詩人とのこと。

 

 

続いて、2005年に刊行されていた四方田犬彦の『見ることの塩 パレスチナセルビア紀行』が二分冊で河出から文庫化。タイトルがそれぞれ「イスラエルパレスチナ紀行」と「セルビアコソヴォ紀行」に変更になっている。著者近著に『人形を畏れる』『サレ・エ・ぺぺ 塩と胡椒』『いまだ人生を語らず』など。

 

博士論文をもとにした、本格的なミラン・クンデラ研究。著者はこれが初の著書となる。共訳書に『美術館って、おもしろい! 』アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』。

 

現代の映画におけるシェイクスピアの翻案を辿りつつ現代人のルネサンス的心性を探る本のようだが、最初に取り上げられるのがなんと『エイリアン:コヴェナント』。著者には他に『パブリック圏としてのイギリス演劇: シェイクスピアの時代の民衆とドラマ』、訳書にラロック『シェイクスピアの祝祭の時空 エリザベス朝の無礼講と迷信』など。

 

世代を超えて集まった少女小説作家によるSFアンソロジー日本SF作家クラブ、嵯峨景子編。編者の近著には『氷室冴子とその時代 増補版』『少女小説を知るための100冊』などがある。

 

日本SF精神史【完全版】』著者による、70~80年代のものを中心としたSF少女マンガの歴史。著者近著に『萩尾望都がいる』『独身偉人伝』『日本回帰と文化人 ――昭和戦前期の理想と悲劇』など。

 

地政学ブーム喧しい中、「反地政学」のタイトルを持った大著が登場。著者はこれが初の単著となる。これまで『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』『惑星都市理論』などの論集に参加、訳書にメッザードラ『逃走の権利: 移民、シティズンシップ、グローバル化』、共訳書にベラルディ『ノー・フューチャー: イタリア・アウトノミア運動史』など。

 

博士論文をもとにした本格ゾンビ研究。著者の初の著書となる。参加論集に『ヒューマン・スタディーズ 世界で語る/世界に語る』『モダンの身体: マシーン・アート・メディア』、共訳書にブライドッティ『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』クロンブ『ゾンビの小哲学: ホラーを通していかに思考するか

 

ケアの倫理とエンパワメント』『世界文学をケアで読み解く』等の著者によるゴシック文学論。

 

建築家、版画家ほか様々な顔を持つピラネージの作品と生涯をたどる。著者は建築関連の著書・訳書多数。近著に『つれづれ日記: 五輪の巻』『小さな家の思想 方丈記を建築で読み解く』『ピラネージ〈牢獄〉論: 描かれた幻想の迷宮』、訳書に『ルタルイー近代ローマ建築』各巻など。

 

決定論と自由についての哲学。著者はこれが初の単著で、専門は分析哲学とのこと。

 

フランス現代哲学を専門とする著者による倫理学入門。著者近著に『いかにして個となるべきか?: 群衆・身体・倫理』『死の病いと生の哲学』『現代思想講義――人間の終焉と近未来社会のゆくえ』など。

 

ショック・ドクトリン: 惨事便乗型資本主義の正体を暴く <a href=*1 (岩波現代文庫 社会 344)" title="ショック・ドクトリン: 惨事便乗型資本主義の正体を暴く *2 (岩波現代文庫 社会 344)" />
ショック・ドクトリン: 惨事便乗型資本主義の正体を暴く <a href=*4 (岩波現代文庫 社会 345)" title="ショック・ドクトリン: 惨事便乗型資本主義の正体を暴く *5 (岩波現代文庫 社会 345)" />

日本では東日本大震災の年に刊行されたナオミ・クラインの代表作が文庫化(原著2007年)。著者近著に『地球が燃えている : 気候崩壊から人類を救うグリーン・ニューディールの提言』『楽園をめぐる闘い: 災害資本主義者に立ち向かうプエルトリコ』など。訳者はほかにメイ・サートン、スティ-ヴン・ピンカ-など手掛ける。

 

副題にある通り、言語哲学法哲学の立場からヘイトスピーチを論じた論集。

 

多くの著者を集めた、アナキズムの現在を見渡す論集。編者は『アナキズム入門』の著者で、近著には『死なないための暴力論』『もう革命しかないもんね』など。

 

私にはいなかった祖父母の歴史―ある調査―』『歴史家と少女殺人事件―レティシアの物語―』などの著書で数々の賞を受賞しているフランスの歴史学者によるマチズモの歴史。訳者は同著者の翻訳のほか、著書に『近代科学と芸術創造: 19~20世紀のヨ-ロッパにおける科学と文学の関係』『グラン=ギニョル傑作選: ベル・エポックの恐怖演劇』などがある。

 

トリニダード・トバゴ生まれの歴史社会学者による帝国研究の書。近年は「帝国→国民国家」という単線的な歴史観が見直されているそうです。他にかなり古いが『予言と進歩』『ユートピアニズム』の邦訳あり。訳者には『スペイン・ポルトガル史 上』『』『スペイン史10講』『歴史のなかのカタルーニャ: 史実化していく「神話」の背景』などスペイン関連の著書が多い。

 

イギリス史を中心に多数の著書のある著者による君主制入門。『教養としてのイギリス貴族入門』『女王陛下の影法師 ──秘書官からみた英国政治史』『貴族とは何か―ノブレス・オブリージュの光と影―』『ハンドブックヨーロッパ外交史:ウェストファリアからブレグジットまで』など近著も多数。

 

小アジアを中心とした、帝政ローマ時代のギリシア都市の研究。これが著者の初の著書のようです。

 

種村季弘の2006年の文庫が新装復刊。タネムラが東京の裏町30をめぐる。

 

昨年復刊されたバルトルシャイティス幻想の中世』の翻訳者でもある著者の2001年刊の芸術論が復刊。ほか近著に『チェコ・アヴァンギャルド: ブックデザインにみる文芸運動小史』『ことばとかたち: キリスト教図像学へのいざない』『雲の伯爵: 富士山と向き合う阿部正直』など

 

2022年『ショットとは何か』に続く蓮實重彦の映画批評集。単行本未収録のものを集めた本のようです。

 

野心的なキュレーターによる初の著書で、芸術史・思想史も含めたパンクの歴史をまとめる。

 

 

ではまた来月。

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丹下和彦『ギリシア悲劇 人間の深奥を見る』 理性の価値と、その困難を描いた普遍的な物語

ギリシア悲劇への入門に最適の新書

 

丹下和彦『ギリシア悲劇 人間の深奥を見る』は、2006年刊行の中公新書。著者は1942年生まれで古典学を専門とし、多くのギリシア悲劇を翻訳している。

もともとギリシア悲劇に興味があり、また最近関連する本を読むことも多かったところに、ちょうどロシア文学者で西洋演劇史を教えている上田洋子がこの本を紹介していたので読んでみた。

本書はまずギリシア悲劇とは何か」と題された序章で、ギリシア悲劇についての基本的な事項を紹介し、その後に続く各章で計11本の作品を実際に読解していくという構成になっている。

 

序章において、著者はギリシア悲劇の特性として、〈宗教性〉〈文芸性〉〈社会性〉の三つの要素を挙げている。

まず〈宗教性〉だが、まずギリシア悲劇というものは、葡萄酒の神ディオニュソスを祀る大ディオニュシア祭において、アテナイのアクロポリスにあるディオニュソス神殿にて上演されるものである。その起源についてははっきりとはわかっていないものの、少なくともディオニュソスを祀る儀礼、その際の合唱と関連があるらしい。ほとんどの作品がギリシアに伝わる神話を題材にしていることも含めて、悲劇はもともと宗教的な起源をもつということだ。

続いて〈文芸性〉について。ギリシア悲劇が発展するにつれて様々な工夫が生み出される。まず当初は合唱隊による合唱のみで構成されていたところに、悲劇の祖とされるテスピスという人物が、台詞を話す俳優という概念を導入した。最初は一人だけだった俳優の数は、やがて三人となり、この人数はギリシア悲劇の全歴史を通じて守られることになる(登場人物が多い場合は、この三人が複数の役を演じる)。

また他にも役柄を表す仮面の着用、背景画や様々な舞台設備の発展、合唱と対話が交互に行われる劇の構成など、様々な要素が発明されていく。最古の悲劇論とされるアリストテレス詩学においては、もはや悲劇の宗教的要素についての言及はなく、もっぱら文芸、芸術として悲劇が語られるという。

最後の〈社会性〉とは何かと言えば、つまり古代のアテナイにおいては、悲劇の上演そのものが社会の構成において大きな役割を果たしていたということだ。

大ディオニュシア祭における悲劇の上演は同時に悲劇競演会という競技であり、これは国家が主催し、アテナイ全市民が参加する行事だったという。合唱隊には市民から選ばれた者も参加し、競演会の優勝作品を決める審査員も市民たちから選ばれる。
そしてここで上演される悲劇の内容は、当時のギリシアの人々の精神と密接に結びついたものだった。

 

前四八〇年に来寇したペルシア軍を破ったギリシア、なかでもアテナイは、以後約半世紀にわたって繁栄を謳歌することになるが、その文化的社会的躍進の原動力として彼らアテナイ市民が認識していたのは、自らに固有のものと自認する〈自由〉〈法〉〈勇気〉〈知〉という四つの価値観だった。わたしたちはこうした価値観のさまざまな形での表出を、共同体の伸長とともに発展してきた悲劇という芸術ジャンル、その各作品の中に看取することができる。悲劇は市民の精神生活を写し出す鏡となったのである。

(「序章 ギリシア悲劇とは何か」より)

 

古代ギリシアの人々は自分たちの精神のありようを悲劇として表現し、またその上演を通して社会の紐帯を形作っていったのだ。

 

ギリシア的な価値を表現する作品たち

 

さてこの後、本書は具体的な作品の紹介と読解に入っていく。取り上げられた全作品について、基本的な筋立てが詳しく解説されるので、もともとの作品を読んでいなくても問題ない。

本書の前半で読解されるのは、先の引用にもあった、アテナイ市民が自らに固有のものとしていた価値、すなわち〈自由〉〈法〉〈勇気〉〈知〉などを表現する作品たちだ。

 

例えばペルシアとの戦争を題材としたアイスキュロスペルシア人では、ペルシア軍を撃退し、大帝国への隷従を免れたギリシア人たちの〈自由〉の観念が、異国人であるペルシア人との対比の中で称揚される。

また親から子へ受け継がれる復讐の連鎖を描いた、同じくアイスキュロス『オレステイア』三部作(『アガメムノン』『供養する女たち』『慈しみの女神たち』)では、「目には目を」という氏族社会の秩序に沿った復讐行為が、最後にはアテナイの〈法〉によって調停される様を描く。父の仇を討つために実の母を殺したオレステスは、そのことによって自身が復讐の対象になるが、最後にはギリシア社会に確立された「法の正義」によって罪を免れる。

そしてソポクレス『アンティゴネにおいては、人間的な迷いを抱きつつも死者の名誉のために戦うアンティゴネの英雄的な姿が、同じくソポクレスのオイディプス王においては、苛酷な運命に対しても知ることを恐れない〈知〉の価値が描かれる。

 

神の気まぐれとしか思えないような理不尽で苛酷な運命そのものは、オイディプスは問題にしようとしない。神の計画そのものを非難することはせず、その計画に知らずして乗せられて犯した我が罪を、彼はすべて引き受けようとする。ただ恐ろしい禍に遭うために生かされてきたその身を全的に肯定するのである。神の強大な力を知りつつも、また神に憎まれた存在であることを知りつつも、なお生きて禍=罪の意識に堪えようとするところに、わたしたちはオイディプスの人間としての存在理由を見出すことができるように思われる。

彼は、すべてが解明され神の計画が明らかになったとき、知の象徴としての目を潰す行為(未熟な知への懲罰)に出た。このことは、そこで彼が神に 帰依し、神への信仰に一挙に走るのではなく、自分を知の地平に置くことで人間としての我の存在の証しを立てようとしたことを意味している。いわば世界を知の地平から捉えようとするのである。世界を人間の理性の中に取り込もうというのである。たとえ自分が神の手になる世界構造に繰り込まれている身であるとしても、その中に自らの位置を設定しようとするのである。神だけで計画し、事を成就し、結末をつけることは許されない、世界の出来事を神だけの手に委ねることは許さない、というのである。人間の未熟な知による過失をわざわざ持ち出し、その責任を取ろうというのである。オイディプスがこのあとも惨めな姿を晒し続けること自体が、理不尽な神の計画に対する無言の非難であり、異議申し立てであり、また神に対する人間存在の不逞な自己主張でもあると言えるのではないか。

(どちらも「第四章 知による自立 ソポクレス『オイディプス王』」より)

 

アテナイ社会の翳りと知の衰退

 

このように、本書の前半では、古代のギリシア人たちが生み出した様々な価値や理念が輝かしく打ち立てられる様を眩しく見ることができるが、しかし後半になるとその様相は変化する。

紀元前5世紀はじめ、ギリシア世界はペルシアを撃退しその全盛期を迎えたが、その時期は50年ほどで翳りを見せ始める。シチリア遠征における敗北やギリシア都市国家間における内戦(ペロポネソス戦争)などがアテナイの国力を弱め、同時に社会においても、先に述べたような理念が信じられなくなっていく様が、当時の作品に記録されているのだ。

 

後半の主役になるのは、「人をありのままに描く」と評されたエウリピデスだ。『メデイア』『ヘレネ』『キュプロクス』『オレステス』『バッコスの信女』といった作品が紹介されるが、ここでは理性に対する非理性的なものの力、伝統的な価値観の衰退、法秩序への反乱などが描かれる。

ここには本書の前半に見られたような、ギリシアの伝統としての理念や価値、そして知性への信頼はすでにない。いくつかの作品においては、ホメロスが描いたオデュッセウスの冒険やトロイア戦争への批判や揶揄すら登場するのだ。社会状況の変化によって、かつて信じられていた価値が失墜していく様は、現在の私達にとっても非常にリアルに感じられる。

 

本書は、前5世紀という100年間のアテナイの精神史を刻んだものであるギリシア悲劇が、その地域性と歴史性にとどまらない普遍性をもつゆえに、多くの人々に読まれ続けていることを確認して終わる。

ここに収められた11篇の作品は、さすがに2000年以上にわたって読み継がれているだけあり、その物語だけ見ても大変に面白く力強いものだ。本書は各作品の筋立てを詳細に語ってくれるので、それを知るだけでも十分に楽しめるだろう。その上で、これらの作品に込められた理念と価値、そしてその受け皿となる社会の変化の有様は、確かに現在の読者にとっても切実なものだと思う。

 

次の一冊

 

ギリシア悲劇のいくつかは文庫で手軽に読むことができる。

ちくま文庫ギリシア悲劇』シリーズは全4巻で作者別。

 

pikabia.hatenablog.com

過去記事で紹介したこちらでは、法の起源としてのギリシア悲劇の読解を読むことができる。

 

そのうち読みたい

 

丹下和彦の、ギリシア悲劇に関する単行本。

 

中井亜佐子『エドワ-ド・サイ-ド ある批評家の残響』 理論に新しい生を与える批評意識

オリエンタリズム』の批評家サイードについて

 

中井亜佐子は英文学、特にコンラッドをはじめとしたモダニズム期のものを専門とする研究者で、以前も当ブログで著書を紹介したことがある。

pikabia.hatenablog.com

今回紹介するのは、上記『〈わたしたち〉の到来』においても主要な参照項となっていた批評家、エドワード・サイードに関するものだ。

 

 
エドワード・サイードパレスチナ人としてイスラエルに生まれ、後にアメリカ合衆国に移住した批評家である。西欧において語られるアジアのイメージを批判的に論じた代表作オリエンタリズムによって、いわゆるポストコロニアル批評の先駆者にして代表者と目されることが多い。またパレスチナ問題について積極的に発言し、政治的にも関与していたことでも知られる。

2024年1月に刊行された本書はもともとサイード没後二十年に合わせて企画されていたものだったが、序章によればまさに本書の執筆中である2023年10月、ハマスの奇襲をきっかけとし、イスラエル軍によるガザへの攻撃が始まった。著者はこの序章で、このような状況下において、パレスチナに深く関わりのある人物による文学批評の研究書を出版することに対する逡巡を率直に語っている。

著者は最終的には、このような状況においても文学や批評、あるいは「書かれたテクストを読むこと」は研究されるべきものだと述べはするが、そこには大きな葛藤があるということは、読者も気に留めておくべきだと思う。

 

イードにとって批評とは何か

 

さて、シンプルな題名を持つ本書だが、しかしこの本は必ずしも、サイードの思想の概要をまとめた入門書というわけではない。

もちろん入門書としても読めるし、私もそのつもりで読みはしたが、しかし本書はどちらかと言えば、イードの批評家としての態度のようなものについての本だ。

イードは批評理論においてポストコロニアル理論」「植民地言説分析」などと呼ばれる大きな潮流を作り出した思想家であり、同時にパレスチナに関する具体的な政治活動にも積極的に身を投じた人物だが、著者によれば、サイードの著作と政治的な活動の間には多くの矛盾もあるという。またそれだけでなく、サイードの思想には時期によってかなりの変遷があり、互いに矛盾する理論もあって、ひとつの統一された体系を見出しにくいものらしい。

しかし近年においては、サイードの矛盾を批判・修正して理論を整えるのではなく、そのような矛盾を含んだ知識人としてのサイードの全体像を捉え直そうとする研究が多く現れてきているそうだ。本書もまた、そのような方向性に連なる研究ということになる。

著者はこの本の中心にある問いを、「サイードにとって批評とはどのような営為だったのか」とまとめ、その手がかりとして「旅する理論」と題された論考を取り上げる。

 

本書において『はじまり』とともに重視されるのは、『世界、テクスト、批評家』に収録されている「旅する理論」という論考だ。この論考のなかでサイードは、 批評意識(批判的意識)は「理論が旅をする」プロセスに欠かすことができないと主張している(ここでの「理論(セオリー)」は狭義の文学理論に限定されるものではなく、おそらく「体系」や「思想」のほうが意味的には近い)。理論は特定の歴史的文脈のなかで誕生する。理論が地理的、時間的に移動したならば、どうしても変容を余儀なくされるだろう。現実政治に根ざしたアクチュアルな理論が学問制度にとりこまれて形骸化することもあれば、別の文脈のもとで解釈や誤読が加わることによって、むしろ再生することもある。既成の理論が別の場所で生まれ変わるためには、理論を検証し、その限界をみきわめるための批評意識が必要なのだとサイードはいう。

(「序章 批評家を批評する」より)

 

 
著者はサイードの批評を、まさにこの「旅」の実践として捉えていく。理論や体系はひとつのことろに留まるのではなく、移動し、変容することによって新たな生を得る。

このことは、サイードの批評にはアカデミア批判、学問制度批判が多く含まれることにも関係がある。代表作『オリエンタリズム』が主に批判する対象も、オリエンタリズムを形成する西洋の学問制度だ。

またサイードは70年代の米国の大学制度の中で研究を行っていたが、例えば当時の大学でもイスラエルを批判することは容易ではなかったという事情もまた、パレスチナ人であるサイードにとっては大きな問題だった。

このように、学問的な意味でも政治的な意味でも、理論や体系が制度の外への「旅」をすることによって、形骸化することなく「生まれ変わる」ことが求められているのだ。

 

著者はこのようなサイードの「旅」を導くものとして、ジョゼフ・コンラッドミシェル・フーコー、レイモンド・ウィリアムズという三人の人物を挙げる。この本は三つの章により、これらの人物のテキストをサイードがどのように読んだか、そしてそこから自らの批評をどのように構成していったかを語ることになる。

 

このようにサイードは、みずから理論の旅を実践し、異なる時代や場所で生まれたさまざまな理論や思想を鋭利な批評意識をつうじて批判的に読みなおし、自身の住まう現実のなかに蘇らせた。サイードが批評を実践することによってみずから他者の理論に旅をさせてきた軌跡をたどることも、彼にとっての批評の意味を探る重要な手がかりとなる。
(同上)

 

理論に旅をさせるための様々な視点

 

それぞれの章の内容にも簡単に触れておこう。

第一章「ある批評家の残響」で著者は、サイードが深く関わるポストコロニアル批評や、それを含む批評理論そのものがすでに古くなったと評価されつつあるという近年の状況(著者は「批評理論の衰退」と表現する)を踏まえたうえで、それでも批評という行為にどのようなことができるのかを、サイードジョゼフ・コンラッド研究から読み取ろうとする。

『闇の奥』をはじめとしたコンラッドの作品について、サイードは一定の評価を下すのではなく様々な角度から読み解いており、著者はサイードの仕事そのものについても同じような読みを促していく、

 

第二章「理論は旅をする」は、サイードが深い影響を受けつつ後に批判することになったミシェル・フーコーについての章。前述のようにサイードは理論に「旅」をさせることを説いたが、フーコーを始めとしたフランス現代思想アメリカにおける受容(これもひとつの「旅」である)は多分に誤読を含み、また大学制度によって形骸化することにもなったという。

著者はサイード初期の難解な文学批評である『はじまり』の読解を手始めに、サイードがどのようにフーコーの受容・再解釈・批判を行ったかを見ることによって、理論に旅をさせる際に必要な批評意識(批判的意識)のあり方を探る。またここではサイードによる大学制度批判についても詳細に辿られる。

 

最後の第三章「文化と社会」では、社会思想家レイモンド・ウィリアムズの思想を受容することによって、批評家サイードがどのように社会や共同体と関わることを考えていたかを読み解く。それは、いわゆるフランス現代思想や批評理論とは別の角度からサイードの批評のあり方を考えることでもあるという。

ウィリアムズはシステムに汲み尽くされない社会的経験の中に社会を変革する契機を見いだそうとしたが、サイードはその理論と響き合う形で、すでに権威となった理論に抗う力としての批評意識について語る。

そして最後に著者は、サイードの批評意識が現実の世界へ向けられた例として、パレスチナ問題』『パレスチナとは何か』という二冊の本を読んでいく。これまで深く読み込んで来た文学批評や制度批判の視線が、ここでパレスチナという問題に結びつく。

 

 

以上、乱暴にまとめてしまったが、本書の内容はこのように要約できるほど単純なものではない。全体で200ページ程度と短いながらも、ここではエドワード・サイード本人のテクストと、彼が研究した様々な文学者や思想家のテクストがふんだんに引用され、多彩なテーマについての濃密な分析が行われている。

そして冒頭に記したように、とても痛ましい状況の中での執筆・刊行となったことにより、著者の祈りのような真摯さが感じられる本となっている。

 

次の一冊

 

冒頭でも紹介した過去記事ですが、こちらは三人のモダニズム作家を題材にした、著者の本格的な文学研究。本書に興味を持った方はぜひチェックしてほしいです。

エドワード・サイード』第一章で大きく取り上げられているコンラッド『闇の奥』についても、以前当ブログで紹介しました。

 

そのうち読みたい

 

こちらは中井亜佐子による、コンラッド『闇の奥』にフォーカスした本。また「読書」について考えた本でもあるようです。

 

分厚い上下巻のこちらですが、いつかは読んでみたいですね……

フィッツジェラルドの短編集はどれを買えばいい? 文庫・ライブラリー収録作ガイド

フィッツジェラルドの短編集が多い!

 

グレート・ギャツビーで知られる作家スコット・フィッツジェラルドについては弊ブログでも二度紹介し、どちらの記事も非常に多くの方に読んでいただいております。

戦間期の好景気に沸いた狂乱の20年代とその後に来る大恐慌の時代を生きた、ロスト・ジェネレーションを象徴する作家、さらにはアメリカ文学を代表する作家とまで言われるフィッツジェラルドですから、読者が多いのも不思議はありません。

 

ところでいざ『グレート・ギャツビー』以外の小説、それも短編を読んでみようかなと思った際に、古典的な文豪の常ですが、各社からいろんな短編集が出ていて困ってしまうのではないでしょうか。

というか例によって私が困っておりますので、今回は現在流通していると思われる短編集の収録作をまとめてみました。

 

まずは村上春樹訳以外のものを刊行順に、その後で点数の多い村上春樹訳のものをまとめてあります。

記事の末尾にそれぞれの本の収録作を一覧にした表もありますので、スクロールしてご覧ください。

 

また野崎孝小川高義村上春樹の訳文の違いについてはこちらの記事で比較しておりますので、ぜひ参考にしてください。当ブログで最も読まれている記事です。

 フィッツジェラルドの小説の内容についてはこちらの記事をどうぞ。

 


1.村上春樹訳以外のもの

 

新潮文庫 『フィツジェラルド短編集』 野崎孝訳 1990

まずは定番の新潮文庫、そして定番の野崎訳です。こちらは「フィツジェラルド」表記。

収録作:氷の宮殿 冬の夢 金持の御曹子 乗継ぎのための三時間 泳ぐ人たち バビロン再訪

 

岩波文庫 『フィッツジェラルド短篇集』 佐伯泰樹訳 1992

こちらも老舗の岩波文庫。同じく定番と言えるでしょう。

収録作:リッツ・ホテルほどもある超特大のダイヤモンド メイ・デイ 冬の夢 金持ち階級の青年 バビロン再訪 狂った日曜日

 

光文社古典新訳文庫 『若者はみな悲しい』 小川高義訳 2008

こちらは光文社古典新訳文庫。読みやすさを重視した翻訳となっています。

収録作:お坊ちゃん 冬の夢 子どもパーティ 赦免 ラッグズ・マーティン=ジョーンズとイギ○スの皇○子 調停人 温血と冷血  「常識」 グレッチェンのひと眠り

 

角川文庫 『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 永山篤一訳 2009

こちらは角川文庫で、デヴィッド・フィンチャーによる映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』に合わせて編纂された短編集。他の短編集とほとんど重複していないレア作品が集まっています。ちなみにこれも「フィツジェラルド」表記。

収録作:ベンジャミン・バトン レイモンドの謎 モコモコの朝 最後の美女 ダンス・パーティの惨劇 異邦人 家具工房の外で

 

 

2.村上春樹訳のもの

 
ここから村上春樹訳です。

まず以下三点は、中央公論新社の「村上春樹翻訳ライブラリー」シリーズ。新書サイズで、エッセイやインタビューなども収録されています。

 

マイ・ロスト・シティー』 単行本1981/ライブラリー2006

収録作:残り火 氷の宮殿 哀しみの孔雀 失われた三時間 アルコールの中で マイ・ロスト・シティー F・スコット・フィッツジェラルド インタビュー フィッツジェラルド体験(村上春樹

 

バビロンに帰る』 単行本1999/ライブラリー2008

収録作:ジェリービーン カットグラスの鉢 結婚パーティー バビロンに帰る 新緑 スコット・フィッツジェラルドの幻影(村上春樹) スコット・フィッツジェラルド作品集のための序文(マルコム・カウリー)

 

『冬の夢』 単行本2009/ライブラリー2011

収録作:冬の夢 メイデー 罪の赦し リッツくらい大きなダイアモンド ベイビー・パーティー
 

 

中公文庫 『フィッツジェラルド10 傑作選』 2023

こちらは中公文庫から最近出たもので、村上春樹がこれまで訳した短編の中から10本を選んだベストセレクションです。定番作も多く収録されていますし、春樹訳を一冊だけ買うならこれがいいのではないでしょうか。

収録作:残り火 氷の宮殿 リッチ・ボーイ(金持の青年) カットグラスの鉢 バビロンに帰る 冬の夢 メイデー クレイジー・サンデー 風の中の家族 エッセイ3部作(壊れる 貼り合わせる 取り扱い注意)
 

 

『ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集』 2019

こちらは単行本。後期の短編とエッセイを集めてあります。

収録作:短篇小説(異国の旅人 ひとの犯す過ち クレイジー・サンデー 風の中の家族 ある作家の午後 アルコールに溺れて フィネガンの借金 失われた十年) エッセイ(私の失われた都市 壊れる 貼り合わせる 取り扱い注意 若き日の成功)

 

 

収録作一覧表

タイトルの訳し方がそれぞれ違うので、原題でまとめてあります。拡大してご覧ください。(角川文庫『ベンジャミン・バトン』は他との重複が一作のみなので除外)

「冬の夢」「金持ちの御曹司」「バビロン再訪」が三大定番と言えそうです。


新潮文庫光文社古典新訳文庫・中公文庫は電子版あり。

 

以上、フィッツジェラルド短編集の収録作紹介でした。

フィッツジェラルドは短編も大変魅力的ですので、ぜひ読んでみてください。

奈落の新刊チェック 2024年2月 海外文学・SF・現代思想・歴史・恐るべき緑・ルバイヤート・カストロの尻・射手座の香る夏・近代日本の身体統制・日本アナーキズム・サンリオ出版大全ほか

そろそろ暖かくなってきたりそうでもなかったりする今日この頃ですがいかがお過ごしでしょうか。中華圏でも旧正月が終わってようやく新年が始まっております。最近は出版社や書店がニュースの主役になることもなんだか多く、それぞれの役割がいろんな方向から問われているなあと感じつつ2月刊行の面白そうな新刊をまとめました。

 

韓国の現代文学を代表する作家の一人による、脱北者の青年を主人公とする小説。他の邦訳書に『光の護衛』『天使たちの都市』など。訳者はほかにチョン・ヨンジュン幽霊』を手掛ける。

 

河出文庫の斎藤真理子訳韓国文学シリーズがまた一冊。数々の文学賞を受賞しているチョン・イヒョンの日本オリジナル作品集(単行本は2020年)。邦訳書はほかに『マイスウィートソウル』『きみは知らない』など。

 

オランダ生まれのチリの新鋭による、ブッカー賞、全米図書賞ノミネートの話題作が邦訳。科学史に着想を得た奇想小説のようです。訳者はボラーニョをはじめとしたスペイン語文学を手掛け、近訳書に『蛇口 オカンポ短篇選』『俺の歯の話』など。

 

奇想のSF作家として知られるアヴラム・デイヴィッドスンの代表作が14年の時を経て文庫化復刊。邦訳はほかに『どんがらがん』がある。翻訳はアシモフ、ホーガン、キングなど手掛けるベテラン。

 

カミュの1939年の随筆集の新訳。訳者は『賽の一振り』などマラルメの翻訳者であり、フランスで国家功労勲章シュヴァリエ章を授与されている。訳者近著に『今宵はなんという夢見る夜 金子光晴と森三千代』『ノーベル文学賞【増補新装版】――「文芸共和国」をめざして』など。

 

かのエーリッヒ・ケストナーによる、独裁政治を批判した戯曲が岩波文庫に登場。訳者はドイツ語文学を多く手掛け、同月に光文社古典新訳文庫から『若きウェルテルの悩み』の新訳も。ほか近訳書にネレ・ノイハウス『友情よここで終われ 刑事オリヴァー&ピア・シリーズ』、ユーリ・ツェー『人間の彼方』、シーラッハ『』など。

 

オマル・ハイヤームによるペルシアの古典詩『ルバイヤート』の、フランツ・トゥーサンによるフランス語訳からの邦訳。訳者は現在、光文社古典新訳文庫プルーストの新訳(『失われた時を求めて 1~第一篇「スワン家のほうへI」~ 』ほか)を刊行中の高遠弘美。訳者近著に『物語 パリの歴史』など。

 

松浦寿輝の、谷崎潤一郎賞ドゥマゴ文学賞を受賞した2007年の小説が上下巻で文庫化。近作に『香港陥落』『無月の譜』『わたしが行ったさびしい町』など。

 

金井美恵子による、批評、小説、フォトコラージュを合わせた作品集。2017年の単行本を文庫化。近年は姉妹の共著『シロかクロか、どちらにしてもトラ柄ではない』『鼎談集 金井姉妹のマッド・ティーパ-ティーへようこそ』が出ている。

 

創元SF短編賞受賞作家の松樹凛による初めての単行本。受賞作である表題作を含む作品集。

 

アガサ・クリスティー賞優秀賞を『ヴェルサイユ宮の聖殺人』で受賞しデビューした作家の二作目。文庫オリジナル。前作から続くシリーズで、ブルボン朝のフランスを舞台に公妃と軍人のバディが事件を捜査する。

 

すばる文学賞受賞の言葉が話題となった大田ステファニー歓人の鳴り物入りのデビュー作。

 

文学、芸術、思想哲学から神話や魔術まで語り尽くす種村季弘のベスト・コレクションが文庫で登場。「吸血鬼幻想」「怪物の作り方」「K・ケレーニイと迷宮の構想」「文字以前の世界―童話のアイロニー」などなど垂涎の文章を収録。編者は教え子でもある芥川賞作家の諏訪哲史

 

パリで登場し、日本には宝塚歌劇東宝レヴューという形で輸入された「レヴュー」という形式が、いかに女性の身体を統制するイデオロギーとなったか。著者はこれが初の著書で、博士論文を書籍化したもの。

 

音楽メディアにも執筆する英国在住の作家による変わり種のデリダ本。出版元も音楽関連書で知られるele-king BOOKS。

 

「NHK100分de名著」でリチャード・ローティ『偶然性・アイロニ-・連帯』の紹介を担当した著者による本格ローティ論。著者近著に『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』『バザールとクラブ』など。

 

ドイツ史、現代史を専門としジェンダー関連の著書・訳書の多い著者によるジェンダー史入門。著者近著に『ローザ・ルクセンブルク: 戦い抜いたドイツの革命家』、共著に『「ひと」から問うジェンダーの世界史 第2巻 「社会」はどう作られるか?—家族・制度・文化』、訳書に『戦場の性 独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』など。

 

2020年に『市民の義務としての〈反乱〉:イギリス政治思想史におけるシティズンシップ論の系譜』でデビューした著者による政治思想入門。

 

幸徳秋水大杉栄を始めとした日本のアナーキズムの歴史をたどる大著が登場。著者近著に『明治のナイチンゲール 大関和物語』『社会運動のグローバルな拡散: 創造・実践される思想と運動』『アナキズムを読む 〈自由〉を生きるためのブックガイド』など。

 

三井財閥の原点のひとつであり、日本の銀行業のさきがけでもある、江戸時代に始まった両替店の歴史。著者には他に『近世畿内の豪農経営と藩政』がある。

 

近年は英語圏での日本文学ブームが起こっているが、歴史上、日本の小説の翻訳には様々な問題があったという。著者はこれが初の著書のようです。

 

1980年代まで続いていたサンリオの出版事業を網羅した論集が登場。サンリオSF文庫の話も載ってます。

 

北上次郎による1993年刊行の冒険小説論が30年越しに文庫化。

 

どっちも知らない建物だと思ったら、「「幻の建築計画」を巡る戦後史」とのこと。著者は他に『高層建築物の世界史』も書いてます。

 

著者はジュンク堂書店難波店店長で著書多数。独立系書店・個人書店とは大きく違う役割を持つ大型書店における葛藤の記録だろう。近著に『書物の時間(多摩DEPO11): 書店店長の想いと行動』『書店と民主主義: 言論のアリーナのために』など。

 

ではまた来月。

チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』 多声的に語られる、韓国独裁体制下の苦難

70年代の韓国を描いたベストセラー

 

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨンを始めとした数々の韓国文学の翻訳により、今ではすっかり日本を代表する韓国文学の紹介者として知られている斎藤真理子だが、今回紹介するのはその訳業の原点になったという小説だ。

 

1942年生まれの作家チョ・セヒによる小説『こびとが打ち上げた小さなボール』は1978年、韓国が過酷な独裁体制のもとにあった時代に刊行され、以来300刷を超えて読まれ続けている大ベストセラーだという。(日本語版は2016年単行本→2023年文庫化)

しかし、その内容はとても重いものだ。20年以上にわたって続く独裁体制、そして70年代の韓国を襲った急速で無慈悲な都市化と再開発の経験が、この物語の中に生々しく反映されている。そしてこの小説は、もともと連作短編という形をとって様々な雑誌に散発的に発表されたものなのだが、その発表手段自体が検閲を恐れてのことだったという。文庫版の帯には作者自身による、「この悲しみの物語がいつか読まれなくなることを願う」という言葉まで引かれている。

 

差別と貧困の中にいる主人公たち

 

連作短編の形で書かれたこの小説には、幾人かの主人公たちがいるのだが、最も重要なのは、題名にもなっている「こびと」とその家族たちだ。

身長1メートルあまりの「こびと」は、心無い差別を常に受けながら様々な職を転々とした後、配管工として働いている。彼には妻、二人の息子、一人の娘がおり、スラム街の無許可住宅で暮らしている。この小説の大部分は、差別され、搾取される立場である彼らの物語だ。

1970年代の、特にソウルで起こった急速な再開発、マンションの建築は、彼らのような者たちが住むスラム街を一掃していったという。この小説においても、こびとの一家や他の住人たちは強制的な立ち退きを迫られている。

立ち退いた人々には新たに建つマンションの居住権が与えられるのだが、彼らの多くには、そこに実際に居住するために必要な金銭が無い。そこで、彼らはそのマンション居住権を売るのである。

当時の韓国では、マンション居住権が投機の対象になり、さかんに売買されたという。この小説でも、登場人物たちはかけがえのない住処を追い立てられ、あるいはハンマーで破壊され、そしてその代償となるはずのマンション居住権は安く買い叩かれていく。

 

みんなが父さんを「こびと」と呼んだ。彼らの目は正しい。父さんはこびとだった。でも、彼らに見えていたのはそれだけだ。それ以外のことは何も見えていなかったのだ。僕は、父さん、母さん、ヨンホ、ヨンヒ、僕という五人家族のすべてをかけて、彼らは間違っていたと言うことができる。「すべて」とは、僕ら五人の命を含む。
天国に住んでいる人は地獄のことを考える必要がない。けれども僕ら五人は地獄に住んでいたから、天国について考えつづけた。ただの一日も考えなかったことはない。 毎日の暮らしが耐えがたいものだったからだ。生きることは戦争だった。そしてその戦争で、僕らは毎日、負けつづけた。母さん はあらゆることによく耐えていた。けれどあの日の朝だけは耐えられなかったらしい。
「町内会長がこれを持ってきたよ」
僕は言った。母さんは狭い板の間の隅に座って、朝ごはんを食べていた。
「ああ、とうとう!」
母さんは言った。
「家を取り壊せというんだろう? いよいよ始まるんだね。試練っていうものが」
母さんは食事を中断した。僕はそのお膳を見下ろした。麦飯、黒みそ、しなびた唐辛子二、三個と煮つけたじゃがいも。
僕は母さんのためにゆっくりと撤去警告状を読み上げた。
(「こびとが打ち上げた小さなボール」より)

 

こびとの3人の子どもたち、ヨンス、ヨンホ、ヨンヒは、満足に学校に行くこともできず、工場で働き始める。彼らは過酷な条件下における労働でたちまち疲弊していく。

やがて青年となった彼らは労働運動を知り、組合の一員として使用者たちと対峙しようとする。しかし当時の韓国においては労働組合への弾圧は激しく、彼らは絶望的な戦いに身を投じていくようにも見える。

そして工場は大量の廃水を河へ流し、生物は死に行き、有毒なガスが発生して人々を苦しめる。

 

この小説で書かれるのは、ほとんど全てがこのような物語だ。差別と貧困、都市化と再開発、過酷な工場労働と労働運動、そして公害。これらの背景から、日本の高度経済成長期の出来事を思い起こす読者も多いだろう。

 

多声的に語られる物語

 

この物語に登場するのはしかし、こびとの家族たちだけではない。

この連作短編を重層的なものにしているのは、それぞれの短編の主人公となる、他の登場人物たちの存在だ。

こびとに水道管の修理を頼むことになるシネは、郊外の住宅地に住む中産階級の女性だ。彼女はこびとに共感を抱き、暴力を振るおうとする人々から守ろうとする。
また冒頭に登場する「せむし」「いざり」はやはり家族を持つ貧民街の住人で、手放したマンション居住権を取り戻そうとしたり、見世物の巡業に加わって生計を立てようとする。

そしてさらに別の視点をもたらすのは、裕福な法律家の息子であるユノだ。彼は有名大学への合格を望む父につけられた家庭教師との出会いによって、貧富の差や労働運動について学ぶようになる。しかし彼はどこまでも資本家階級の暮らしのうちにおり、ここではその葛藤や無力感が描かれていく。

 

「私、知らなかったのよ」 
キョンエが言った。
「それが君の罪」
ユノが言った。
「知らずにいた人たちすべての罪だ。君のおじいさんは恐ろしいほどの力を思いどおりにふるってきた。今ぐらい、大勢の人が一人の要求に従って働いたことは、これまでなかっただろうな。君のおじいさんはあらゆる法律を無視した。労働強要、精神的・身体的自由の拘束、賞与と給与、解雇、退職金、最低賃金、労働時間、夜間及び休日勤務、有給休暇、年少者の使用なんかだ。今言った不当労働行為のほかに、労組活動の抑圧、職場閉鎖脅迫なんかについても違法事例が数えきれないぐらいある。僕、こびとのおじさんの娘が読んでいた本を見たんだ。君のおじいさんが言ったことがそこに書いてあったよ。今は分配のときじゃなくて、蓄積のときなんだって。そして君のおじいさんは亡くなった。誰に、いつ、どうやって分けてやるの? 君のおじいさんは、死んだこびとのおじさんの息子と娘と、あの幼い同僚たちに与えるべきものを何も与えなかった。そして君はそれを知らなかったんだろ? 知らなかったから、休暇にはおじいさんが所有してる美しい島に行って過ごして、真っ赤な自家用車に乗って、毎日、肉や新鮮な野菜が並ぶ食卓について、あったかいベッドで男の子のことを考え、その子を引っ張り出すために気の毒な子どもたちを売ったんだろ? 君はそろそろ自分自身で、自分の罪から抜けだすべきだ。今までは君たちのためにこびとのおじさんの息子や娘や、その幼い同僚たちが犠牲を払ってきた。今からは彼らのために、君が犠牲を払う番だよ、わかる? 家に帰って大人たちにそう言いな」
(「過ちは神にもある」より)

 

この『こびとが打ち上げた小さなボール』は、明確に社会的・政治的なメッセージを備えたシリアスな小説だが、その内容は決して一面的なものではなく、上記のような様々な人物の視点によって多声的に語られる。

またここで語られる物語はリアリスティックなものばかりではなく、時には幻想的な描写があったり、過去と現在が溶け合って描かれたりもする。(訳者あとがきによれば、発表当時には「このように難解な小説では労働者自身には読めない」という批判もあったそうだ)

 

そしてまた、この小説は非常に重く深刻な内容を扱っているが、しかしひとたびそれぞれの短編を読み始めると、物語の強い力に引っ張られ、途中で止めることができないほどだ。

苛酷な状況を生きる登場人物たちの、どうにか生きて行こうと苦闘する姿。あるいはそんな彼らが、ふとした時に家族や近しい人々との思い出の中に生きる姿。政治と、経済と、彼らの人生が深く結びつき、そして力強い物語となって始まりから終わりへ向けて流れていく。とても濃密な読書体験だと思う。

そして、作者はこの物語がやがて読まれなくなることを願ったが、残念ながらこれは現在の日本に生きる私達にとってもいまだ切実な物語だろうと思う。

斎藤真理子が自らの原点となったこの小説について語る訳者あとがきのほか、四方田犬彦による時代背景も含めた詳細な解説を収録。

次の一冊

 

このブログでは斎藤真理子訳による韓国(朝鮮)の小説をこれまでにも2作紹介している。それぞれ別の時代に書かれたものだが、合わせて読めばそれぞれの小説をより立体的に楽しめるだろう。

pikabia.hatenablog.com

 

そのうち読みたい

 

その斎藤真理子による、韓国文学のガイドブック。朝鮮戦争や日本との関係が、韓国文学に大きな影響を与えているという。