もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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奈落の新刊チェック 2022年5月 海外文学・現代思想・歴史・くるまの娘・リャマサーレス・吸血鬼・黒人神学・フェミニズム・ネオレアリズモほか

5月も終わり、6月が始まりましたが皆様いかがお過ごしでしょうか。梅雨は読書にぴったりなわけですが、だからといってこんなにたくさん面白そうな本が出ても困るわけです。読めるわけがない。でも仮に読めなくても買っておいた方がいいです。本はとりあえず買っておけば、著者にも出版社にも書店にも我々にもメリットがあります。むしろメリットしかないのでは?

というわけで5月前後に刊行された面白そうな本をメモしておきます。

 

 

ハヤカワSFコンテストや創元SF短編賞出身の若手を中心とした23作家による豪華SFアンソロジー。『1984年』から100年後の2084年をテーマにした競作集となっています。これだけいれば新たなお気に入りの作家が見つかるはず……

 

 

推し、燃ゆ』で芥川賞を最年少受賞した宇佐見りんの待望の新作。デビュー作『かか』に続いて、物語はふたたび家族にフォーカスしている。

 

旅する練習』で三島賞を獲っている乗代雄介のガールミーツガール小説とのこと。純文学系作家の本が小学館から出るのは珍しい。

 

近年は宝塚関連小説をいろいろ書いている中山可穂だが、ついにテーマは「ダンシング玉入れ」に……しかもノワール小説らしい。

 

黄色い雨』などで知られるスペインの作家フリオ・リャマサーレスの短編集。ラテンアメリカ文学好きなら死ぬほどお世話になっている木村榮一訳。 

 

早逝の詩人シルヴィア・プラスの、死後50年以上経って発見された未発表短編を中心とした短編集。アメリカ文学好きなら足を向けて寝られない柴田元幸訳。

 

中国系アメリカ人作家イーユン・リーの2020年作。同作者のこれまでの邦訳を全て手掛けている篠森ゆりこ訳。

 

なんと、『吸血鬼ドラキュラ』以前に書かれた吸血鬼小説を10篇集めたアンソロジー。ドラキュラ以前からそんなにたくさんあったんですね……

 

2017年単行本の文庫化。著者のソフィア・サマターはなんとこのデビュー長編で世界幻想文学大賞と英国幻想文学大賞を受賞したらしい。

 

ルイ・マルによる映画が有名な『地下鉄のザジ』や、実験小説(?)『文体練習』で知られるレーモン・クノーの研究書が登場。著者はクノーの翻訳のほか、やはり実験的作家として知られるジョルジュ・ペレックの翻訳もしています。

 

「黒人神学」を説くアメリカの神学者ジェイムズ・H・コーンに師事し、その著書『誰にも言わないと言ったけれど』の翻訳も行った著者による、おそらく初めての黒人神学に関する日本語書籍。キリスト教神学と、アメリカ社会における人種差別の現実の間で思考した神学者の記録。

 

フェミニズムポストコロニアル・アラブ文学を専門とする岡真理の2006年の著書が新装版で登場。第三世界フェミニズムに関する代表的な書籍。同著者には『彼女の「正しい」名前とは何か』も。

 

フェミニズムクィア理論を専門とし、ジュディス・バトラーの翻訳も手掛ける著者によるフェミニズム入門書。表紙には「エッセンシャルワーカーとケア」「オリンピックとセクシズム」「インターセクショナリティ」「Black Lives Matter」などのキーワードが並ぶ。帯コメントは台湾出身の芥川賞作家・李琴峰が寄せている。

 

ジェンダーの観点から歴史学に変革をもたらしたという古典が、三十周年版として二度目の復刊。

 

メディア文化論を専門とする著者による、敗戦後の日本とかつての被支配国の関係についての研究。「ポスト帝国」の連帯はいかにして可能なのか。

 

中島岳志杉田俊介責任編集による、西端100年を迎えた橋川文三論集。橋川文三による論文ベストセレクションも収録。

 

群像評論新人賞出身、93年生まれ著者によるデビュー作。臨床哲学に立脚しつつ、鷲田清一やSEALDsを批評の俎上に乗せる。気になります。

 

刊行点数がすごい仲正昌樹による入門講義シリーズにニーチェが登場。それにしても刊行点数がすごい。

 

檜垣立哉による2000年の単行本が講談社学術文庫入り。私が読んでいる著者のドゥルーズ論も多くベルクソンに依拠しているのでこちらも勉強したいところ。

 

中島隆博による2007年の単行本が増補版として登場。同著者による中公新書中国哲学史』の次に読むのにちょうどいいかも。6月には講談社より『荘子の哲学』も出ます。

 

田中純東京大学出版会の雑誌『UP』に連載していた同名論文を中心としたイメージ論集。『イメージの自然史』『過去に触れる』に続く第三弾。目次を見るだけでクラクラします。

 

西欧のルネサンスを、アジアや新大陸からの、そして「古代」の発見による大量の情報が流入した情報革命の時代ととらえる本。著者は2019年の『ルネサンス庭園の精神史』でサントリー学芸賞を受賞している。

 

東南アジア海域史を専門とする著者による、東南アジア諸国がいかに海を経て行き来する外来者との関係の上に成り立ったかを記述する本。同著者には東南アジアに限らない海域史を扱った『海と陸の織りなす世界史』などもある。

 

我々がイメージする「古都・鎌倉」とは、実は後の時代にどんどん付け加えられた「幻想」の集大成であるという衝撃の一冊。面白そう。著者は鎌倉と中世史に関して著書多数。

 

フランスの植民地統治を専門とする著者による、人種主義・レイシズムの包括的な入門書。大航海時代から現代までをカバー。

 

「国家が拡張をあきらめたとき、 若者はどのように大人になっていくのか」という副題は大変なインパクトだが、これは帝国主義から福祉国家へと変遷していく英国において、若者がどのように成長について考えたのかを古今の文学から探る文芸批評の本。著者はベケットについて何冊か著書がある。

 

アイドル、ジャニーズ、宝塚など、日本人はなぜ未熟さを特徴とする文化を愛するのか、という日本文化論。著者は社会学音楽学が専門で、2015年に『童謡の近代』を刊行している。

 

ご存じ大塚英志による、シン・ゴジラからシン・エヴァンゲリオンを経てウルトラマン仮面ライダーへ至る庵野秀明「シン」シリーズ批評。著者が連綿と続けてきた戦後日本社会批判・「おたく」文化批判の現在地か。

 

日本記号学会編によるアニメ論集。アニメとはそもそも何なのかという原理的なところから現代のアニメのあり方まで押さえたガチな論集のようです。アニメーターへのインタビューもあり。

 

ドローンの哲学』『人体実験の哲学』などの邦訳があるフランスの科学思想史家によるネオリベラリズム批判。訳者の信友建志ネグリやラッツァラートも手掛ける。

 

最近はほとんど年一冊ペースで映画に関する本を出している岡田温司、今回はネオレアリズモです。一体どこまで行くのか。

 

高橋葉介による夢幻紳士、まさかの新作。読んだことない方はとりあえずこちらからどうぞ。『夢幻紳士 幻想篇

 

 

以上、5月の新刊チェックでした。ではまた来月。

藤野可織『ピエタとトランジ』 無敵の二人は変化に抵抗する

無敵の存在に関する小説

あなたはもう藤野可織ピエタとトランジ<完全版>』(文庫版では『ピエタとトランジ』)を読んだだろうか? もし読んでいるなら良かった。あなたはすでに無敵の存在に一歩近づいていると言える。もしまだ読んでいないなら、あなたには無敵の存在に一歩近づく機会がひとつ残されているということだ。

もちろんピエタとトランジ<完全版>』を読んだとしても無敵の存在になれるわけではない。ただこの小説の中には、無敵の存在とは何かという、切実な、しかしひょっとしたら不可能な、それでも祈りのように問わずにはいられない問いについてのひとつのイメージが描かれていると思う。この小説を読んだとしても、我々はまだ弱く不完全で何の力もないままかもしれないが、それでもここに「力」のイメージを見出すことはできるのではないか。

 

いきなり大袈裟な感じで始めてしまった。とりあえずこの小説がどんなものかを説明する。

もともとこの小説は一篇の短編小説だった。爪と目によって2013年に芥川賞を受賞した藤野可織が、そのすぐ後に刊行した短編集おはなしして子ちゃんに収録されていたのが、原型となる短編ピエタとトランジ』である。そしてそれを全く同じ設定で長編化したのがこのピエタとトランジ<完全版>』というわけだ。

※追記 文庫版ではタイトルが『ピエタとトランジ』だけになったので、記事タイトルを変更しました。(2022年10月)

 

女子高校生探偵コンビ、そして未来世界へ

 

主人公は、ピエタトランジと呼ばれる二人の女子高校生。トランジは天才的な頭脳を持つ名探偵なのだが、身の回りで死を引き起こすという特異体質の持ち主で、何もしていないのに周囲でどんどん人が死んでしまう。ピエタは助手としてそんなトランジとコンビを組み、数々の難事件の解決に乗り出すのだ。

こうして名探偵とその助手のコンビが誕生したのだが、とはいえこの小説はミステリではない。序盤はミステリ風のエピソードもあるものの、徐々に物語は予想もつかない方向へと進んでいく。そしてさらに予想外なのは時間の経過だ。この小説は個々の短いエピソードの積み重ねなのだが、エピソードとエピソードの間に驚くほどの時間が流れ、舞台は未来に、主人公の二人はやがて老婆になる。女子高校生のコンビとして始まったピエタとトランジの物語は、周囲を取り巻く世界の有様と本人たちの年齢をどんどん変化させながら進んでいく。

 

変化に対する抵抗の物語

 

そこで語られるのは一体何か? まずは大量の死。トランジの特異体質は、周囲の人間にどんどん死をもたらし、そしてその影響は世界的に広がっていく。そんな異常な事態の中で、ピエタとトランジはなるべく変わらぬ暮らしを続けようとし続ける。

では、変わらぬ暮らしとは? おそらくそれは、二人が出会ったころのままの二人でいつづけることだ。二人が出会った時、すでに二人は無敵だった。トランジと出会ったピエタは、彼女と自分がコンビを組めば無敵だと確信した。この小説は、その確信に最後まで忠実でいようとする。

しかし、人が変わらずにいることは難しい。世界は人に変化を強いる。変化を強いるのは小説ならではの異常な出来事だったりもするし、ごくありふれた世間的な常識だったりもする。人が死にまくる異常な世界も、一見平和に見える日常の世界も、どちらも二人を最初の二人のままではいさせないように変化の圧をかけてくる。

この小説は、エキセントリックで、かつ現実的な、変化に対する抵抗の物語だ。 それは成長の否定ではない。むしろ、成長の物語として押し付けられるあらゆる順応に対しての抵抗だ。この小説はそれを、単に日常的・常識的なものへの抵抗としてでも、逆に異常な世界への抵抗としてでもなく、その両方への抵抗として描く。「人並み」の日常の中にも、死と暴力の中にもゴールはない。二人はただ、あらゆる変化の圧を跳ね除けて最初の二人のままであることによってのみ無敵なのだ。

そして、あらゆる変化の圧を経験し、それを跳ね除けた後の人間は、最初と同じであって同じではなく、変わらぬまま進化した何かになれるのかもしれない。

 

ピエタとトランジ<完全版>』は、そのような、微妙なバランスの上にしか成立しない強さを描こうとした小説だと思う。そこに、我々が祈りのように思い描かずにはいられない強さのイメージ、無敵の存在であることのイメージがある。

 

高校二年生の春に、私の人生ははじまった。もちろんその前から生まれてたしいろいろあったけど、書いて残すほどのことは特にない。
私が通う地方都市の郊外の高校にトランジが転校してきたその日には、私はまだぴんと来ていなかった。退屈なこのあたりにぴったりな、地味な子だなと思っただけ。あと、これなら私のほうが断然かわいい、勝ってるな、うんうんって思ったんだった。
でも、翌日からなにもかもが変わった。
学校をサボって、当時つきあってた十歳くらい年上の男の家に遊びに行こうとして、やっぱり学校をサボってふらふらしてたトランジに偶然会って、トランジを連れて彼氏の家に行ったら彼氏が殺されてて、トランジが推理して、あとで犯人が捕まってみたらぜんぶ彼女の言うとおりで、私はトランジがすごく頭がいいってことを知った。それから、高校でもたくさん事件が起こりはじめて、人がそこそこたくさん死んで、ほとんどを二人で捜査して解決して、何回か臨時休校を挟みながらやっと卒業したときには、全校生徒数は半分以下に減っていた。トランジはものすごく頭がいい代わりに、周囲で事件を多発させる体質なのだ。
「意外と減んなかったね」と私は言った。「あーあ、全滅するかと期待してたのに」

(「1 メロンソーダ殺人事件」より)

 

 

この長編の原型となった短編小説、ピエタとトランジの出会いの物語は、ちょっと意外な形でこの長編の中に組み込まれている。その見事な配置のされ方、この長編における二人の出会いの語られ方もまた、ここに書いたようなことを鮮やかに表現しているように思う。二人は最初から無敵で、しかしそれは試練に晒され、それでも最初の地点に回帰するのだ。

 

 

次の一冊

 

上記3冊はいずれも短編集。『おはなしして子ちゃん』には、『ピエタとトランジ<完全版>』の原型となる短編ピエタとトランジ」が収録されている。どの短編集でも、日常を舞台とした小説から、SF、ホラー、ファンタジーまでの幅広い作風を楽しめる。どの作品にも独特の距離感とユーモア、同時に怖さと残酷さがあり、そこには作者の、世界に対する一貫した倫理的な態度も感じられる。

 

藤野可織の小説を読んでなんとなく連想するのがケリー・リンク。SFはSFでも「ストレンジ・フィクション」などと呼ばれることもあるリンクの小説は、藤野可織の世界観と通じる部分もある気がする。ファンタジー児童文学っぽい雰囲気も良い。

 

こちらも女性SF作家による短編集。ドキリとさせられるテーマの短編がいろいろ収録されており、油断がならない。そんな中、表題作「霧に橋を架ける」はびっくりするほどストレートな(そして繊細な)出会いと恋と成長の物語だった。

 

 

 

※宣伝

2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

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こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

kakuyomu.jp

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50記事達成記念・記事別アクセスランキングベスト10

日頃のご愛顧ありがとうございます。

 

2021年12月に始めた当ブログも早いもので記事が50本に達しました。日頃読んでいただきありがとうございます。

せっかくキリのいい数に達したので、ここ記事別アクセスランキングベスト10など発表してみようかと思います。ご笑覧くださいませ。

 

ではもったいぶって第10位から順に紹介します。

 

第10位 高村峰生『接続された身体のメランコリー』 我々は何かを失ったが、何を失ったのかわからない。

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高村峰生による英米文化批評『接続された身体のメランコリ-』が10位。こんなにマニアックな本が上位に来るとは意外でした。嬉しい驚きです。

 

第9位 松浦理英子『最愛の子ども』 危うい関係を曖昧に描き切ること

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松浦理英子による実験的、かつ大変読みやすい学園小説の記事が9位に。最新作『ヒカリ文集』も最高だったのでそのうち紹介します。

 

第8位 三浦哲哉の『映画とは何か』映画そのものの感動とは何か

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三浦哲哉による本格的な映画批評『映画とは何か』が8位。これもかなり専門的な内容の本なのでこの順位は意外。すごく好きな映画批評の本なのでたくさん読まれてほしい本です。

 

第7位 佐藤猛百年戦争 中世ヨ-ロッパ最後の戦い』で読む、そもそも「国」って何なのかという話

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藤猛が中世世界から近代国家が誕生する様を詳細に書いた『百年戦争』が7位。国家というもののそもそもの成り立ちを知ることは、現在の状況を考える上でも示唆に富みます。

 

第6位 田中純デヴィッド・ボウイ』を読むことは、ボウイを好きになる一番いい方法だ

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田中純による『デヴィッド・ボウイ』が公開から1週間ほどにも関わらず6位!(まあだいたいの記事が公開直後に集中的に読まれてますが) ボウイの世界に深く没入していくのにうってつけの本です。

 

第5位 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 ミステリ小説のように読める哲学、そしてフェアプレイ感

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國分功一郎によるロングセラー哲学書『暇と退屈の倫理学』が5位。この本は本当に哲学入門に最適ですのでぜひ読んでみてください。

 

第4位 鬼舞辻無惨は都市を体現する。『鬼滅の刃』における他者としての個人主義

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吾峠呼世晴鬼滅の刃』に関する記事が4位。さすがのメガヒットコミックです。あるいは無惨様のファンが読んでくれたのでしょうか。

 

 

以上、10位から4位まででした。続いてベスト3の発表です!
(特に意味のないこういうワンクッションをやりたかった)

 

第3位 映画ファンは「コナン映画」をぜひ見てみてほしい 初心者が語る、王道娯楽スパイアクションとしての『名探偵コナン

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コナン映画の楽しみを紹介した記事が3位。これをきっかけにコナン映画未経験の方が見てくれたら嬉しいですね。

 

第2位 黒沢清『スパイの妻』「カメラに映っていない場所では、何が起きていてもおかしくない」という緊張感。

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私が一番好きな映画監督かもしれない黒沢清の魅力と最新作『スパイの妻』について書いたこちらが2位というのは大変嬉しい結果ですね。ぜひ黒沢清の映画を見てください。

 

第1位 ムアコックエルリック・サーガ」で出会う暗黒ファンタジーと葛藤するヒーロー

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そして当ブログアクセスランキング第1位は、マイクル・ムアコックによる「エルリック・サーガ」シリーズを紹介したこの記事でした! 2位~4位が映画・映画・漫画でしたので、エルリックが頑張ってくれなければ書評ブログと言いながら映画か漫画の記事が一番人気になるところでした(別にいいのですが)。このエルリックの記事はツイッターでの反響も多く、根強いファンの存在を感じました。

 

以上、アクセスランキングベスト10の発表でした。今後とも当ブログをよろしくお願いいたします。

岡田温司『アガンベン読解』 「できるけどやらない」という能力、そして政治の存在論

イタリア現代思想の紹介者としての岡田温司

 

岡田温司の著書には大きく分けて二つの分野があり、ひとつは以前このブログでも紹介した美術史・表象文化論に関するもの。そしてもうひとつは、イタリアの哲学・現代思想に関するものである(もちろんその両者は深く関わり合ってもいる)。そして後者の中で大きな比重を占めているのが、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの翻訳および紹介である。

 

前者の仕事についてはこちらの過去記事を参照のこと

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今回は、先日めでたく平凡社ライブラリー入りしたアガンベン読解』を紹介したい。これは私が最も好きな岡田温司の本のひとつであり、アガンベンの関連書の中でもかなり読みやすいものと思われる。

 

「潜勢力」の哲学

 

さて、この本はアガンベンの各著書を紹介するというよりは、アガンベンの思想を構成する主要な要素を、キーワード別に噛み砕いて語ったものだ。ここではその中から、最初に書かれている「潜勢力」を取り上げてみる。

「潜勢力(ポテンツァ)」とは、いまだ実現していないもののことである。逆に、すでに実現し、実体として現れたものを「現勢力(エネルゲイア)」と呼ぶ。この潜勢力と現勢力の関係が、アガンベンの重要なモチーフのひとつだ。

アガンベンはこの二者のうち、特に潜勢力を重視する。彼にとって潜勢力とは、いずれ実現することがあらかじめ予定されている可能性ではない。潜勢力とは、ひょっとしたらそのまま実現しないかもしれないが、しかし潜在的には存在し続けるものである。

アガンベンは、何かを実現、実行することに必ずしも価値を置かない。潜勢力を潜勢力のままでキープする、つまり、「できるけどやらない」ことに価値を置こうとする。これを特に、「非の潜勢力」と呼ぶ。人間だけが「非の潜勢力」を持ち、潜勢力を潜勢力のままに留めおくことができるのだ。

「人間とはすぐれて潜勢力の次元、なすこともなさないこともできるという次元に存在している生きものである」「人間の潜勢力の偉大さは、その非の潜勢力の深淵によって測られる」アガンベン『思考の潜勢力』よりの引用)

この、一見「実現・実行されないことに何の意味があるのか……?」と首を傾げてしまいそうになる概念が、実は人間とその文化にとって深い意味を持っているというのが、アガンベンが繰り返し語っていることだと思う。

アガンベンによれば、潜勢力は「能力」にも関わっているという。仮に、すでに完結し、結果が出ているものである「快楽」を現勢力とすれば、潜勢力は「苦痛」である。ものごとの結果や結論が出ないままにしておくことは、時に苦しいことだからだ。しかし人間には、潜勢力をそのままに押し留めておこうとする「能力」がある。潜勢力を現勢力から分離しておく力、何かを実現せずにおく力のことを、アガンベンは「能力」と呼ぶのだ。「能力」とは苦痛を受け入れること、「受け入れる力」であり、思考はそこにおいて存在する。ものごとを簡単には実現・実行しないことによって、むしろ人は思考するということだ。

 

存在論と政治哲学

 

さて、アガンベンの哲学の特徴は、この潜勢力・現勢力のような存在論的な概念を、政治哲学に結び付けるところだ。

アガンベンによれば、「主権権力」とは「例外状態」において決定を下すものだという。これはカール・シュミットの定義を援用したものだが、例外状態とはつまり「法が宙づりになる状態」、つまり戦争や災害によって、法の適用が例外的に無効になる状態のことである。例外状態において、法の外側から、法を無視して決定を行うことができる立場が「主権権力」なのだ。

これを潜勢力・現勢力を使って言い換えるとこうなる。つまり主権権力は例外状態において、自らを法の外側に置きながら(潜勢力にとどまりながら)、自己を実現する(現勢力となる)。ということは、主権権力とは、その発生の場においては同時に潜勢力でもあり現勢力でもあるのだ。この二重の存在の仕方、存在しないことによって存在する、実現しないことによって実現するというあり方が、主権権力の秘密であり、力の源である。

「主権者は、法的秩序の外と内に同時にある」という。確かに、自分が存在しないように振る舞うことによって無上の力を振るうことができる、力を振るってはいるがその存在には干渉できない、そんな者がいれば、それは無敵の存在かもしれない。アガンベンはそのようなものとして主権権力を定義するのだ。

 

この陰鬱な見立てに対して、アガンベンが提示する希望はほんのささやかなものにすぎない。主権者は、潜勢力と現勢力の間、存在することとしないことの間、法の外側と内側の間にある、どっちつかずの不分明地帯に身を置くことによってその力を発揮する。そして、もしそのような主権者の力から逃れうるものがあるとすれば、それは同じように不分明地帯に身を置くものだけだろうと。

先に述べた「非の潜勢力」、つまり「できるけどやらない」力もまた、ここに関わってくるのだろう。アガンベンは例えば、メルヴィルの著名な小説に登場する、あの何もしないキャラクター、バートルビーを好んで取り上げる。何を命じられても「I would prefer not to(しないほうがいいのですが)」と返答し、やがて食事すらせずに死んでしまうこの代書人が、アガンベンにとっての、希望とも言えないような希望の象徴なのだろうか。

 

批判されるアガンベン


岡田温司は繰り返し、アガンベンの書物が厳しい批判に晒されていることを強調する。

いわく、「政治的ニヒリズム」「政治的使命がない」「過剰なレトリックや詭弁」「政治を美学化する」などなど。著者自身、この本でこのように言ってしまう。「これらの疑問に答えるのは容易ではないし、またそれぞれの批判にも一理はある。白状するなら、このわたしもまた、アガンベンを読みながら「それでどうすればいいんだ」と心のなかで呟いていることが少なくない」(「はじめに」より)

実際に、アガンベンがコロナウィルスの流行についての発言によって激しい批判にさらされていることは、事情に詳しい人ならとうに知っていることだろう。

※詳細は岡田温司による下記記事を参照

アガンベンは間違っているのか? | PRE・face | Vol.39 | REPRE

 

アガンベンにとって、政治と詩学、あるいは政治と言語の問題はけっして分離されえないもので、たがいに交差し合っているのである。このことを否定的に捉えるなら、アガンベン政治学はレトリックを弄しているばかりでいかなる実効性も欠くと判断されるだろうし、他方、その詩学はいたずらに政治に侵食されている、ということになるのかもしれない。この批判を全面的に否定することは不可能であるし、またその必要もない。重要なのは、政治と言語が絡み合う場、あるいは場なき場であり、メビウスの帯のような両者の絡み合いの様態である。アガンベンの思考の照準は、ほかでもなくその不可能な空間に向けられているのである。
人間をして政治的存在たらしめているのは、まさしく言語にほかならない。このことはまた、アガンベンが幾度も立ち返ることになる思想家たち、古くはアリストテレス、そして近いところではハナ・アーレントヴァルター・ベンヤミンらがはっきりと気づいていたことであった。(「はじめに」より)

 

岡田温司アガンベンに対する様々な立場からの批判を紹介し、それを受け入れながら、それでもなぜアガンベンの本を読むのかについて語る。

この本で岡田温司アガンベンの哲学のキーワードをひとつひとつ取り上げ、その思考の形を辿っていく。哲学の本というのは答えを示すものではなく、何かについて考える方法を示すものだ。そしてもちろんアガンベンが取り上げるのは政治だけではない。そこには芸術、文学、宗教、歴史、経済、言語など、人間の文化に関するほとんどあらゆるテーマが現れ、そしてそれらは決して互いに切り離すことができず、全てが連関している。政治の話だけ、芸術の話だけ、言語の話だけを取り出すことはできないのだ。アガンベンはこれらの絡まり合ったテーマを、例えば潜勢力・現勢力のような独特の概念と方法を使って、意外で魅力的な角度から考えていく。その思考の形を追うのはとても楽しい体験だし、岡田温司の『アガンベン読解』はその最良のガイドである。

 

アガンベンの代表的なテーゼであるホモ・サケルについてはこちらの記事を参照。

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次の一冊

 

同じく平凡社ライブラリーから出ているこの『開かれ』は、アガンベンの著書の中では手に取りやすいものの一つだろう。アガンベンは常に、例えば潜勢力/現勢力のような二項の間にある不分明地帯、「もはやAではないが、まだBでもない」という閾を問題とする。この本で取り上げられるのは「人間/動物」という二項だ。

人間と動物の境界線は、常に人間の内部に引かれて来た。その担い手をアガンベン「人類学機械」と呼ぶ。著者は人間と動物がどう区別されて来たかという事例を美術、宗教、自然科学、哲学史の中から拾い出し、そこに必ず発生してしまう名付けられないグレーゾーンの存在を示す。そしてこの、常に人間の中に見出される、人間でも動物でもない領域が、例えば強制収容所で全面化すると言うのである。

 

岡田温司のイタリア現代思想に関する仕事ではこちらの『イタリアン・セオリー』(中公叢書)もお勧め。アガンベンをはじめ、アントニオ・ネグリマッシモ・カッチャーリロベルト・エスポジトなどイタリアの思想家の仕事を紹介した論文集である。それぞれの章は独立しているので読みやすい。(価格は高騰しているようですが……)

 

このアガンベンの身振り』岡田温司によるアガンベン本だが、こちらの方がアガンベン読解』に比べてコンパクトではあるものの、内容はやや専門的かもしれない。この本ではアガンベンの壮大なプロジェクトであったホモ・サケル計画」の全9冊での完結を受け、その全貌を振り返りつつ、改めてアガンベンの思想を概観している。

 

 

追記:岡田温司の著作リストを作成したので、ぜひ合わせてご覧ください。

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ネトフリドラマ化原作、ニール・ゲイマン『サンドマン』を読んでみたら最高の現代ファンタジーだった

ニール・ゲイマンとは?

ニール・ゲイマンという作家は英米と日本で知名度にかなり差のある作家だと思う。日本ではまだそんなに知られていない気がするが、英米では絶大な評価と人気を持っている作家という感じだ。SF・ファンタジーの分野から出発しつつ、現在は児童向けも含む広い分野の作品を発表している。日本では、2019年のドラマグッド・オーメンズや2009年のストップモーションアニメコララインとボタンの魔女の原作者として知られているかもしれない。

ニール・ゲイマンはもともとコミック/グラフィック・ノベルの原作者としてキャリアをスタートさせたのだが、その初期の代表作サンドマンNetflixでドラマ化されるということになり、前々から興味があったので原書の第1巻を読んでみたところ、辞書を引きながら読んでいるにも関わらずあまりの面白さにページをめくる手が止まらず、(英語で読んでいるにしては)あっという間に読み終わってしまった。すぐにでも第2巻を買いに行きたいのだが、まずはとりあえずこの第1巻をブログで紹介しておこうと思った次第である。

なお日本語版も90年代に刊行されているが、現在は古本でしか手に入らない模様。ドラマが人気出たら復刊されてほしい。

(2023年8月追記:第1巻の日本語版が再刊されました!上記にリンクを追加。ドラマ版シーズン1の前半にあたります)

www.youtube.com

 

傑作現代ダーク・ファンタジーサンドマン

 

ジャンル的に言うなら、『サンドマン』は現代を舞台にしたダーク・ファンタジーだ。主人公は不死の超越的存在で、夢の世界を統べる王である。彼は単に「ドリーム」と呼ばれたり、ギリシア神話の眠りの神モルフェウスの名で呼ばれたりする。

ドリームは1916年にあるイギリスの魔術師によって現世に召喚され、その後70年間にわたって幽閉される。居眠りした見張り番の夢に侵入してようやく脱出に成功したドリームは、自分を閉じ込めたものたちに復讐した後、奪われて散逸した3つの道具をひとつずつ捜索して取り戻していく、というのが第1巻の内容だ。3つの道具とは、砂袋、ヘルメット、そしてルビー。これらはドリームがその力を封じ込めたアイテムで、それらを取り戻すことによって彼は本来の力をも取り戻すのである。

第1巻に収録されたドリームの遍歴は、それぞれ登場人物も舞台も違う、独立した短編のようになっている。その多くには怪奇的なムードがあり、ホラー短編の趣がある(もともとは月刊で1話ずつ刊行されたそうだ)。ドリームは現実世界で、あるいは地獄で、あるいは彼が統べる夢の王国で、様々な人物や存在と出会う。ドリームを召喚した魔術師。夢の王国のしもべたちと、道具の所在を教える3人の魔女。ルシファーを始めとした地獄の公子たち。たまたま道具を手に入れ、そして運命を狂わされたごく一般の人々。

ドリームが出会うものたちはそれぞれの形でそれぞれの存在を生き、ドリームは己の道具を取り戻す過程で、彼らの突端の部分と触れ合い、争い、影響し合う。『サンドマン』が描くのは、現実と幻想の双方にまたがった、様々なものたちの存在のしかただ。そこでは現実と幻想がいずれも劣らぬ価値と重みを持っている。我々は現実世界で、現実とは言い切れない様々な観念や存在、何の意味も付与できない不可解な事象や出来事に取り囲まれて生きている。そのような我々の存在の諸相、現実的な物語だけでは描くことのできない人間の多面的な成り立ちを、『サンドマン』は奇想天外なストーリーと高密度に詰め込まれた言葉そして現実と幻想を自在に行き来する美しいグラフィックによって描き出す。それは最良のファンタジーの手応えだ。

第1巻の結末において、ついに3つの道具を奪還したドリームはその無尽蔵の力を取り戻すが、しかし彼はかつてのような全能感をもはや感じることができない。幽閉と喪失の期間を経て、何かがこの不死の存在に変化をもたらしたようだ。物語はこの後、彼のこの変化を追っていくことになるのだろうと思う。

サンドマン』は1991年に、コミックとしては初めて世界幻想文学大賞の短編賞を受賞したという。その短編は第3巻に収められているらしいが、この第1巻に収められた8篇も深い余韻を残す傑作だと思う。とりあえず第2巻買ってきます。

 

次の一冊

 

ニール・ゲイマンヤングアダルト(若者向け文学)の分野でも高い評価を得ている。このコララインとボタンの魔女ストップモーションアニメ映画化もされている傑作だ。

両親とともに古い屋敷に住む少女コララインだったが、ある時両親が消えてしまう。コララインは屋敷の中で秘密の通路を発見し、そこからもうひとつの世界に入り込む。そこは目玉がボタンになった魔女の支配する世界だった。古い屋敷の存在感が際立つ古典的なホラー・ファンタジーの形式と、物語の視点となる主人公の強く柔軟な感覚がぐっとくる。(書籍は高騰しているようですが……)

 

 

ニール・ゲイマンがコミック原作者となる上で大きな影響を受け、のちに親交も結んだのが同じくイギリス出身の、ウォッチメンで知られるアラン・ムーアだという。またゲイマンに『サンドマン』の執筆を依頼し、アラン・ムーアとも仕事をしていた米国DCコミックの編集者カレン・バーガーは、英語圏のコミックにおいて大人向けの文学的・芸術的な分野を開拓した人物として知られる。

ゲイマンやムーア、『サンドマン』や『ウォッチメン』は、従来の「コミックブック」とは一線を画した、より大人向けでアーティスティックな「グラフィック・ノベル」と呼ばれる分野の定着に貢献したとのこと(もちろんその両者はそれぞれに影響を与え合っており、はっきり分類できるものではないだろうが)。

ここに挙げたウォッチメンは冷戦下を舞台にした、黙示録的で批評的で恐ろしいヒーロー・コミック。そしてフロム・ヘル切り裂きジャックの謎をめぐる、これも非常に恐ろしいオカルティック・ダーク・ファンタジーである。どちらもあまりに重厚な手応え。

ウォッチメン (字幕版)

ウォッチメン (字幕版)

  • ローラ・メンネル
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ザック・スナイダー監督による映画もあります。

 

 

ニール・ゲイマンは同じくイギリスの先達としてマイケル・ムアコックにも影響を受けているそうです。ムアコックの代表作エルリック・サーガについては下記ブログをどうぞ。

pikabia.hatenablog.com

 

 

 

 

※宣伝

2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

pikabia.hatenablog.com

こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

kakuyomu.jp

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田中純『デヴィッド・ボウイ』を読むことは、ボウイを好きになる一番いい方法だ

この分厚い本はどんな本なの?

皆様、デヴィッド・ボウイを聴いたことがあるだろうか。少なくとも名前くらいは知っているのではないだろうか。1960年代末から、2016年に死去するまで音楽活動を続けたイギリスのアーティストである。グラム・ロックという、煌びやかなイメージを特徴としたジャンルを代表するアーティストと言われることが多い。

 

さて、そこで岩波書店から刊行されている、田中純デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』である。

この5000円を超える分厚い本を、例えばボウイのことをあまり知らない人に勧めてもまあ買わないだろうと思う。しかし、もしあなたがわりとボウイのことが好きで、何枚かアルバムを聴いたことがあり、お気に入りのアルバムもあったりするのであれば、この本を買うのは安い買い物だと言える。何故なら、この本を読むことによって、デヴィッド・ボウイはあなたにとって一生聴き続けられるアーティストになるかもしれないからだ。

もちろん大袈裟に言っているわけだが、そのくらい、この本はデヴィッド・ボウイという存在に深く分け入っていく本だ。そして読者である我々も、著者とともにボウイがどんな人間だったかを知り、録音された音を聴き、メロディーを追い、歌詞を読み、レコードジャケットやファッションを見、どんなステージだったかを読み──という体験をともにする。

この本が分厚いのは伊達ではない。この本はデヴィッド・ボウイを聴く、デヴィッド・ボウイに触れるという体験の強度を、言葉の力によって可能な限り最大化するのだ。

 

ボウイを記述するための多面的な批評

 

もしあなたが田中純の読者であれば言わなくてもわかることなのだが、この本は伝記ではないし、ディスクガイドでもない。これは批評の本である。

著者は可能な限りの多くの側面からボウイに迫り、それが何だったのかを記述しようとする。音楽、歌詞、ビジュアル、本人の行動や言動はもちろんのこと、極めつけは「英語の歌が日本人の耳にどう聴こえたか」までにこだわる。それは引用された歌詞に執拗に振られたルビとして表現される。

 

こちらトム少佐から地上管制官ディス・イズ・メイジャー・トム・トゥ・グラウンド・コントロール
ドアから踏み出ようとしているところだ
そしてぼくはとても奇妙な感じで漂っている
それに星々は今日まるで違って見えるアンド・スターズ・ルック・ヴェリー・ディファレントゥ・トゥデイ

なぜならここでフォー・ヒーア
ぼくはブリキ缶ティン・キャン のなかに座っているのだから
世界のはるか上空にいてファー・アボーヴ・ザ・ワールド
惑星地球は青くプラネット・アース・イズ・ブルー
そしてぼくにできることは何もないアンド・ゼアズ・ナシング・アイ・キャン・ドゥ

 

「それに星々は今日まるで違って見える」のフレーズに至るまで、ストリングスを背景に高揚した調子で声を張り上げていたトム少佐(ともにボウイによるメインとバッキング・ヴォーカルとの二声)は、「トゥデェエエエイ」と叫んだのち、続くコーラスで急にそのムードを変える。
なぜならここでフォー・ヒーア」の「ヒーア」、および、「世界のはるか上空にいてファー・アボーヴ・ザ・ワールド」の「ファー」でコードはF7に変わり、この曲の冒頭と同様に浮遊感を作り出している。ストリングスはいったんやや静まり、虚空を漂うようなフルートが無重力の寄る辺なさを表わす。トム少佐の独白のような「惑星地球は青くプラネット・アース・イズ・ブルーそしてぼくにできることは何もないアンド・ゼアズ・ナシング・アイ・キャン・ドゥ」というフレーズに至るまで、コーラスの進行はいずれも、高音で始まり、次第に下行する旋律で歌われている。伴奏がアコースティック・ギターのみになり、左右で打ち鳴らされる拍手によって区切られたのち、スタイロフォンの金属板上をスタイラスが一気に高音まで滑り、ストリングスやメロトロンがバックに加わったリード・ギターによる間奏が始まる。そのサウンドは最後に突如低音にまで落下して歪む。それは地球の重力圏を完全に脱出するための爆発音のように聞こえる。

「ブリキ缶」に似た玩具じみた宇宙船はトム少佐を隔離し、地球のあらゆる人びとから遠ざけて断絶させる人工空間である。彼のもとには地上管制官からこんな質問が届けられる──「新聞屋たちはきみの着ているシャツのブランドを知りたがっている」。トム少佐は宇宙船のなかに閉じ込められ、宇宙空間にひとり放り出されて孤独に晒されることとひきかえに、あるいはまさにそのことによって、メディアの注目を集める「スター」になっている。(第一部第一章「そしてぼくにできることは何もないアンド・ゼアズ・ナシング・アイ・キャン・ドゥ──『デヴィッド・ボウイ』」より)

 

引用部分は最初のヒット曲「スペース・オディティ」に関する文章だが、この本は万事がこの調子である。この密度でボウイの全キャリアを分析しようというのだから、総ページ数が600を超えるのも当然だ。

 

ボウイのキャリアの、濃密な追体験

 

正直に告白すると、実は私はこの本をまだ読了していない。

私はボウイのアルバムを最初から順番に聴き、歌詞を読みながら、該当する章を読み進めていった。そしてアルバムが10枚以上発表される怒涛の1970年代が終わり、83年の「レッツ・ダンス」まで進んだ時点で、もうダメだ!と思っていったん本を閉じた。

なにしろ、ほとんど毎年傑作アルバムが発表される10数年を、一気に追体験させられたのだ。どう考えても情報量が多すぎる。こんなスピードでボウイの全キャリアを追うのは無理だし、何よりもったいない。

というわけで私は、もうしばらく70年代のボウイを堪能することに決めたのだ。ちなみにこの時期のアルバムではハンキー・ドリー」「ジギー・スターダスト」「ダイヤモンドの犬」「ステイション・トゥ・ステイション」「ロウ」が特に好きだ。「特に」と言ってるのに6枚も挙げてしまっているあたりに、この時期のボウイのヤバさを感じてほしい。

さて、私の前には、84年の「トゥナイト」以降、ボウイのアルバムがあと12枚ほど残っている。私はこれらのアルバムを、ボウイに深く潜入し、その考えや企み、詩や音像、そして才能の浮き沈みや身に纏う政治性までを読み解いていく著者とともに、これから楽しんでいくことができる。

なんという贅沢だろうか。やはり安い買い物なのだ、この本は。

 

次の一冊

 

デヴィッド・ボウイに興味はある、わりと好きだ、しかしいきなり5000円超えの本を買うのは……というあなたも安心してほしい。ずっと手に取りやすいものも紹介しよう。野中モモによる新書デヴィッド・ボウイ 変幻するカルト・スター』ちくま新書)だ。

著者はサイモン・レイノルズ『ポストパンク・ジェネレーション 1978-1984』、キム・ゴードンの自伝『GIRL IN A BAND』、ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』、ヴィヴィエン・ゴールドマン『女パンクの逆襲──フェミニスト音楽史』などの錚々たる訳業のある翻訳者であり、英米カルチャーの紹介者だ。この新書ではボウイの全キャリアをコンパクトにまとめつつ、その魅力を十分に語ってくれている。日本で少女漫画に与えた影響などもフォーカスされており楽しい。

 

 

田中純表象文化論、政治思想史、文化史などを専門とする著者で、実を言うとこのボウイ本は著書の中では異色のものかもしれない。この『政治の美学―権力と表象』東京大学出版会)は、政治権力がその身に纏う美学、あるいは美しいものが必然的に帯びる権力について、様々な作品や出来事に深く入り込んで論じた書物だ。芸術と政治、美と権力の不可分の関係は、著者の基本的なテーマであり、『デヴィッド・ボウイ』にももちろん継承されている。(なおこの本の冒頭にも濃密なボウイ論が収録されている)

 

『過去に触れる 歴史経験・写真・サスペンス』羽鳥書店)は、特に写真というメディアを取り上げて、我々が作品やメディアを通じて「過去」に出会うというのはどういうことかを論じた本だ。例えば、時に写真を見て「逆撫で」されるような体験があり、そのような体験が我々に歴史を経験させるのだという。単に歴史的な出来事を知るという以上に、何かしらの形で歴史そのものに触れる、つまり「過去に触れる」という経験がいかにしてありうるか、ということについて書かれた重厚な本である。表紙に使われた写真の由来を知った時の衝撃は忘れがたい。

 

 

表象文化論については、下記記事などもご一緒にどうぞ。

pikabia.hatenablog.com

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台湾日記:早飯店で台湾朝ごはんを食べる

台湾には早飯店ザオファンディエンと呼ばれる朝ごはん屋さんがたくさんある。とにかく台湾は外食文化なので、多くの人が朝から外で食べたり、外帯ワイダイ(持ち帰り)して職場で食べたりする。出勤すると、わりとみんな自分の席で何かしら食べていた。

そして朝ごはん屋にもいろいろな種類があるのだが、ここではまず豆漿ドウジァンの店について書きたい。豆漿とはつまり豆乳のことである。台湾ではすごく豆乳を飲んだり料理に使ったりする。心なしか、日本のものより臭みが少ない気がした。

そのまま飲むことも多いが、朝ごはん屋で目立つのは何と言っても鹹豆漿シェンドウジァンだ。これはいってみれば豆乳スープである。少し酢の入った熱い豆乳スープに、ザーサイと桜えびが入っていることが多い。台湾では何でも持ち帰りできるが、こればかりは時間が経つと酢の酸で豆乳が固形化してしまうので、できればその場で飲みたいところ。

そして鹹豆漿には基本的に油条ヨウティアオ燒餅シィアオビンを合わせる。油条はいわゆる揚げパン、燒餅はザクザクのパイ生地のように小麦粉を焼いたものである(小麦粉を焼いたものを総称して「ビン」と呼ぶ)。これらのプレーンな小麦食と、とろりと熱い鹹豆漿の組み合わせで食べる。

もっとも鹹豆漿を出す店には他にも米で具を巻いた飯糰ファントゥアンや各種の卵料理、それに点心など多くのメニューがあるので、みなそれぞれ組み合わせにはうるさそうだ。

三合一(後述)と豆漿のセット

 

近所にあったチェーン店では、三合一サンハーイー咖啡豆漿カーフェイドウジァン(コーヒー豆乳)のセットを推していた。三合一というのは「三位一体」みたいな意味で、サンドイッチ的な形状をしているのだが、その内容はというと前述の燒餅の中に、卵焼きと、これも前述の油条を挟んだものだ。いや……卵についてはわかる。蛋白質だ。卵はいいとして、一体なぜパイ生地の中に揚げパンを挟んだのか。私は何度かこれに挑戦したことがあるが、まさに炭水化物の暴力といった食物であり、いつも膨らみ切った腹をかかえて店を出ることになる。

 

 

他の種類の朝ごはん屋としては、ハンバーガー屋もよく行った。漢堡店ハンバオディエンと呼ばれる種類の店なのだが、この種の店で出されるハンバーガーはいわゆるハンバーガーチェーンのそれとはかなり違う。

いや、基本的な構成要素は同じなのだが、なんというか目指すものがだいぶ違う。うまく説明できないが、強いて言えばお惣菜っぽい。パンもハンバーグも香ばしく焼くというよりは、水分が多くて柔らかめな感じだ。食べている感じがマクドナルドのようなチェーンのハンバーガーとも、カフェやレストランの高級なハンバーガーとも違う、しっとりとした独特の味わいである。

 

漢堡(ハンバーガー)の店。

 

他にも妙に甘いサンドイッチや各種の粉もの、そしてお粥など、台湾の朝ごはんは多彩だ。でも実を言うとそんなに頻繁に食べたわけではない。なぜならどれを食べても、けっこう量が多い。私などは朝はわりと少食なので、朝ごはん屋で食べるとお腹がいっぱいになってしまう。なので休日のブランチにしたり、ちょっと早めのお昼として食べることも多かった。

なおほとんどの朝ごはん屋は、昼前には店を閉めてしまう。本当に朝食専門なのであった。このあたりにも、台湾では多くの人が出勤前に朝ごはんを買って食べるということがわかる。私が習った中国語の先生は、朝ごはん屋は学校の近くに多いと言っていた。親が子供を送り、朝食を食べさせてから学校へ行かせるためだという。

 

 

数年前の台湾ブームはすごかったので台湾朝ごはんの本も出ている。レシピも載っているので挑戦してみようか……