西洋美術の歴史に潜在するレイシズム
岡田温司は私が最もたくさん読んでいる著者の一人だ。著書が多すぎてぜんぜん追いつけないのだが。
この著者の仕事には大きく分けて、イタリア現代思想の紹介と、美術史・芸術批評のふたつのカテゴリーがある。(もちろん同時に両方にまたがるものもある)
今回は美術関係の方を紹介しよう。
安価で読みやすい新書をたくさん書いてくれるのが岡田温司のいいところだが、まずは近作の『西洋美術とレイシズム』(ちくまプリマー新書)から紹介してみる。
この本はタイトルの通り、西洋美術の歴史に潜在的に流れているレイシズムの要素を拾っていくという内容だ。
本書が扱うのは主に聖書に書かれている主題だが、様々なエピソードや人物が絵に描かれる上で、その表現に特定の人種や民族の特徴が付与されることがあるという。抑圧される立場に置かれたり、罪を問われて追放されたりする聖書の登場人物が、本来は人種や外見の描写が無いにも関わらず、例えばアラブ人、ユダヤ人、黒人などの姿で描かれるということだ。著者はそのような例を数多く紹介する。
西洋絵画の歴史はそのようにして、言葉にしないレイシズムを意識的あるいは無意識的に表現し、それが現代の人々にも潜在的に影響を及ぼしているということである。この本は図版がオールカラーなのだが、テーマを考えれば全ての図版をカラーで見せる意味は明白だろう。
イメージは、必ず政治的な力をもつ
岡田温司の本は、美術や絵画について語る時に、常にその政治的な側面を問題にする。
イメージが人々に与える政治的な影響を抜きにして芸術を語ることはできないということだ。私がこの著者の本を読み続ける理由もたぶんそこにある。(またそれは、著者が紹介するイタリア現代思想にも当てはまる。そこでは政治と宗教と美学が不可分なものとして扱われる)
(西洋美術とレイシズムは)密接につながっている、これが小著の主張するところである。とりわけ、そのつながりがさまざまな様相を見せるのは、西洋美術の根幹をなすキリスト教美術の長い伝統においてである。三つの一神教、すなわちユダヤ教とキリスト教とイスラム教は、いずれも旧約聖書を聖典と仰ぐことで一致している。が、あえて極端な言い方をするなら、そこに語られるいくつかのエピソードを、レイシズム的に読んで絵画にしてきたのは、実のところキリスト教だけである。
ほぼ二千年にもわたるキリスト教美術の歴史の中で、人々が目にしてきたものが、ほとんど無意識的な記憶となって残存し続ける、小著が、これまで抑圧されてきたその無意識に気づくためのささやかな手引きになるなら幸いである。(岡田温司『西洋美術とレイシズム』「はじめに」)
次の一冊
岡田温司の新書には他にも面白いものがたくさんある。
岩波新書の『デスマスク』は、一冊まるごとデスマスク(死に顔)の話だ。ヨーロッパの人々は死者の顔というものに人々が何を見、何を託し、何を恐れてきたのかを豊富な例とともに語る。
祖先の肖像、王や教皇の似姿、英雄や天才を描いた絵画なども含め、死者の顔というのはイメージの中でも最も強いもののひとつであり、そこには宗教と美学と政治の強い力が宿る。死のイメージ史だ。
中公新書ではキリスト教関連のイメージに関するものが何冊も出ている(品切れのものもあるが、電子版でも読める)。
そのうち一冊『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』は、マグダラのマリアという聖女が、聖なる愛と官能的な愛、苦悶と悦楽など両義的なイメージを託して描かれる様を詳しく教えてくれる。
他にも『キリストの身体』『処女懐胎』『アダムとイブ』、岩波から『黙示録』も出ている(全て新書)。
新書以外のものも挙げておこう。
人文書院から出ている『イメ-ジの根源へ 思考のイメ-ジ論的転回』は、著者の基本的なテーマをまとめた論集と言える。
一言で言えば「イメージの学」ということになると思うが、絵画を始めとした芸術論、様々なメディアの特徴を考えるメディア論、さらに人間がものをどのように感じ取るかという感性論などを横断して考える学問だろう。イメージと概念の間、「見えるもの」と「思考されるもの」の間のスリリングな関係は、芸術や表現が好きな人なら好奇心を刺激されるはず。
岡田温司のイタリア現代思想に関する仕事は、また別の記事で紹介する。(→追記:紹介しました!)
さらに追記:岡田温司の著作リストを作成したので、ぜひ合わせてご覧ください。