大人気!ジョルジョ・アガンベン
イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンはいま最も邦訳がたくさん出ている海外の哲学者の一人だと思うが、最近また一冊入門書が出たので紹介しよう。
最近絶好調な感じがする講談社選書メチエから出た『アガンベン《ホモ・サケル》の思想』だ。
著者はイタリア哲学と言えばこの人、そしてアガンベンの翻訳も多く手掛けている上村忠男。この本は著者が今までにアガンベンの本に書いた解説などに書き下ろしを加えたもので、アガンベンの仕事の全体像をざっくり知ることができる。(そしてわりと突っ込んだことまで書いてあるので読み応えもある)
「ホモ・サケル」って何?
さて、アガンベンを読んだことがなくても「ホモ・サケル」という言葉はなんとなく聞いたことがあるかもしれない。この言葉はアガンベンのキモなので軽く解説してみる。
ホモ・サケルのホモはホモ・サピエンスのホモなので「人間」、サケルは英語だとsacredなので「聖なる」、つまり「聖なる人間」である。これは古代ローマ法が定める特殊な罪人だそうだ。例えば親を傷つけるなどの特殊な罪を犯した者が、「聖なる人間」として普通の罪人とは違う扱いをされる。いわく、殺しても罪に問われず、そして、犠牲として神に捧げることもできないらしい。殺しても良いなら神に捧げようかなと思ってもそれはダメ。しかし殺すこと自体は問題なし。
この「神に捧げてもいけない」の部分のニュアンスは難しいのだが、こちらの部分はその後もあまり語られない。どうも重要なのは「殺しても罪に問われない」ことの方らしい。
つまりホモ・サケルは法の中の例外である。ある種の罪を犯した罪人が、通常の法の適用外とされる。そしてここからがアガンベンの決め台詞なのだが、ホモ・サケルは「共同体から例外として排除されながら、同時に共同体の中に取り込まれる」存在なのだ。
排除しながら囲い込み、囲い込みながら排除すること
つまり例外だからといって追放されるのではなく、例外という形で、共同体の内部と外部の境界線上に拘束されるのである。
私はこれは、身近な物事に例えるならいじめの話だと思う。いじめというのは対象を追放することではなく、共同体の中に囲い込んだままで排除することだ。追い出してしまっては意味がない。
そしてそのホモ・サケルが一体何なのかというと、つまりアガンベンはこれが「政治」そのものの起源だと言っているのである。
共同体の中で、何者かを囲い込んだままで排除することが、政治の始まりだというのだ。陰鬱な考え方だと思うが、私はこの考えに強い印象を与えられ、気になってこの哲学者の本を何冊も読んでしまっている。
アガンベンは、ホモ・サケルのような存在を「剥き出しの生」と呼ぶ。
なかでも真摯に受けとめて省察に付されてしかるべきだと思われるのは、主権と「剥き出しの生」の〈排除をつうじての包含〉関係についての「生政治」論的問題視点に立ったところでつかみとられた、近代のデモクラシーと現代の全体主義的支配体制のあいだに存在する緊密な連関性にかんして、同書(アガンベン『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』のこと)の序論でなされている指摘である。
「近代のデモクラシー」と「現代の全体主義的支配体制」という、相反するかと思っていたものの間には、実は共通のルーツがあるのではないか、というのがアガンベンの指摘なのだ。
次の一冊
上記のホモ・サケルについて書かれたアガンベンの一番有名な本が、その名も『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』である。
イタリアの哲学者が書いた本なのでサクサク読めるというわけにはいかないが、ページ数が意外と少ないので挑戦してみてほしい。第二部「ホモ・サケル」だけ読んでも面白いと思う。
アガンベンの本で私が読みやすいと思っているのはこの『涜神』。短めの文章が集められており、それぞれ単独で読める。
芸術や文学に関する文章も多いので、政治哲学の話よりもとっつきやすいかもしれない。それでいてこの哲学者の入り組んでいて魅力的な文章の妙も楽しめる。
なお、私が一番好きなアガンベンの入門書は岡田温司『アガンベン読解』なのだが、これはもうすぐ平凡社ライブラリーに入るらしいのでまた別途紹介します。
追記:ブログで紹介しました!
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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。