もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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高村峰生『接続された身体のメランコリー』 我々は何かを失ったが、何を失ったのかわからない。

批評を読む楽しみ

 

英米文学や表象文化論を専門とする高村峰生による、英米の小説・映画・音楽についての批評集がこの『接続された身体のメランコリー 〈フェイク〉と〈喪失〉の21世紀英米文化』青土社)だ。

映画ならノーランインセプションタランティーノ『ジャンゴ 繋がれざる者』、音楽ならデヴィッド・ボウイルー・リード、そして小説はドン・デリーロカズオ・イシグロトニ・モリソンなどが取り上げられている。

ここで取り扱われている作品を見聞きしたことがなくても、読むには問題ない(私も大半は知らない作品だ)。批評というジャンルは著者の「技」を読むものなので、面白い批評は元の作品を知らなくても面白いのだ。

この本では様々な形式の作品が語られているが、それぞれの作品に関してキモになる点を鋭く選び、そこから、読者である我々にとって新しい視点が開かれるような何かが取り出されてくる。その「注目」と「抽出」の技術の冴えを味わうのが批評の醍醐味だと思う。

批評という行いには常に牽強付会になったり我田引水になったりする危険もあるわけだが、それをいかに避けて説得力を持たせるかというのも「技」の見せどころである。

 

 

本書のラストに収録され、全体のタイトルにもなっている「接続された身体のメランコリー」ドン・デリーロの小説『ボディ・アーティスト』を論じた文章だが、このタイトルは本書全体を貫くテーマを表してもいる。

「接続された身体」とは、おそらく誰もが予想する通り、ネットワークに常時接続された現在の我々のことだ。そして「メランコリー」とは、フロイトのいう「喪とメランコリー」という概念から来ている。

フロイトによれば「喪」とは我々が失ったものを追想して惜しむことなのだが、対して「メランコリー」とは、何かを喪失したのだが、一体何を喪失したのかがわからない、という状態なのだという。著者は、ネットワークに覆われた世界に住む我々は何かを失っているとしながら、一体何を失ったのかは意識化できないままなのだ、と言っている。

また著者は、その「喪失」に対応して現れるものとして、「フェイク」というキーワードを挙げている。我々は意識化できない「喪失」の中で、それゆえに「フェイク」を生み出しながら生きている、その考えを通奏低音にしながら、著者は様々な現代の英米文化を論じていくのだ。

かけがえのないものを喪失したときに、それを疑似的な何かによって代替するということはきわめて人間的な反応であり、また創作というものは、〈喪失〉に対処するための〈フェイク〉への意志と切り離すことは出来ない。本書において扱う作品の多くが、〈フェイク〉であることを暴き批判するよりは生の条件として受け入れる過程を描き出しているのは、現代文化の重要な特徴を浮き彫りにしている。
(中略)
ここでは、〈フェイク〉が〈本物〉を駆逐するポスト・トゥルース社会への批判的介入を行いたいというわけではない。また、二〇世紀後半のポストモダン批評にしばしば見られたような両者の境界の消失を主張しようというわけでもない。むしろ、〈喪失〉に対するメランコリックな文化的生産性の一端としての〈フェイク〉のあり方を見ようとしている。
(『接続された身体のメランコリー』「序論 自宅への流刑、 あるいは思い出すことすら不穏当なことを思い出すこと――コロナの時代にカミュアルトーを読む」より)

「ネットワーク社会において、我々は○○を失った」と断言する言説も多い中で、著者のこの「何かを失ったのだが、何を失ったのかわからない」という態度は繊細なものだと思う。

 

次の一冊


本書のタイトルからどうしても連想するのは、やっぱりジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『愛はさだめ、さだめは死』伊藤典夫訳・ハヤカワ文庫SF)に収録された名作短編接続された女ですよね。

主人公の女性が機械の中に入ってスーパースターを遠隔操作するという、ある意味アバターものの先駆けのような話。1974年発表で、サイバーパンクの前触れと言われたりもします。

 

そのうち読みたい

 

『触れることのモダニティ ロレンス、スティ-グリッツ、ベンヤミンメルロ=ポンティ以文社

『接続された身体のメランコリー』を読んでがぜん読みたくなったのが、著者の前著であるこの本。西洋では古来より視覚よりも下位に置かれていた触覚という感覚が、20世紀の様々な試みによっていかに重要視されたかという話らしい。大変面白そうだ。