もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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近藤信輔『忍者と極道』が暗示する私たちの見えない戦争

笑いのリアリティとモラル

 

近藤信輔『忍者と極道』(コミックDAYSコミックス)は例えば喋る生首や面白いフリガナで有名で、実際にすごく笑えるんだけど、同時にシリアスな漫画でもあるところは衆目が一致するところだと思う。

シリアスにやろうと思えば、ものすごくシリアスにもできる話だろう。それでもあえてこういうギャグを大量に入れてくるあたりに、私はなんとなく作者のモラルを感じる。

プリキュア風のアニメが重要な小道具になっているところも含めて、このギャグの入り方こそが作者にとっての現実感なのであり、倫理観なのだと思う。シリアスな漫画を単にシリアスに描いても駄目なのだ。この人にとっては。

そして多くの読者がそれに共感しているのだと思う。

 

昭和の戦争と、現代の見えない戦争

 

『忍者と極道』という漫画の基本的なフォーマットは昔ながらの暴力アクション漫画だ。初めて読んだ時はとても懐かしく感じたが、しかしクラシックな日本の不良暴力漫画のフォーマットを継承しながら、すごく新しいものを描いている感じがある。

この漫画と比べると、やはり昭和の暴力漫画にはどこか戦争の匂いがあった。本宮ひろ志でも永井豪でも、下って原哲夫でもいいが、1970年代から80年代、そこにはまだ戦争の記憶が感じられた。

『忍者と極道』にはそれはない。ないのだが、しかしこの漫画の中には、姿を変えた、潜在的な、ある意味ではかつての戦争と同じように残酷でもあるかもしれない、見えない戦争の影がつきまとっている。

プリキュア風アニメを見ながら行われる、「忍者」と「極道」という空想的な存在たちの戦いの中に、私たちがそのただ中に置かれている戦争の姿がある、気がする。

 

『忍者と極道』のキャラクターは全員すごい悪事を働き、全員すごく魅力的で、そして全員死ぬ。

それに私たちが感情移入するのは、彼らが私たちと同じ世界から生まれたものだと感じるからだろう。そしてその姿が、私たちが心の奥底で望んでいる姿だからなのだろう。潜在的に。

私たちは極道技巧ゴクドウスキルブッ殺したいし、暗刃アンジンブッ殺されたい。私たちの生きる世界はそのようであると、近藤信輔は言っているような気がする。

 

「ブッ殺した」(近藤信輔『忍者と極道』)

 

次の一冊

 

漫画ではないが、昭和における『忍者と極道』の先祖としては山田風太郎を誰でも思い浮かべるだろう。

忍法帖シリーズに出てくる忍者たちは『忍者と極道』に引けを取らない異常能力者たちであり、やはり死ぬまで殺し合いを続ける。山田風太郎は1922年生まれの、もちろん戦中派である。

 

これはほとんど妄想の領域かもしれないが、私が最近の『忍者と極道』を読んで思い出すのは、CLAMP東京BABYLONのことだ。私は、輝村極道は桜坂星史郎だと思っている。

(もちろんキャラクターとしての内実は全然違うし、そして『忍者と極道』の結末は『東京BABYLON』とは違うものになってほしいと思っているのだが)