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カンタン・メイヤスー『有限性の後で』 思弁的実在論のやばい魅力

現代思想界の新星・メイヤスー

 

カンタン・メイヤスーの名前が「思弁的実在論というジャンル名とともに聞こえてきたのがいつだったかあまり覚えていないが、2016年に人文書院から『有限性の後で 偶然性の必然性についての試論』が千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳で刊行された時には「ついに登場!!」という雰囲気だったと思う。

後に「新しい実在論などと呼ばれることになる、日本では2010年代後半に特に盛り上がった新潮流が徐々に伝わって来ており、その代表選手として翻訳されたような感じだった。

そもそも哲学や現代思想みたいなジャンルにはあまり目立ったブームみたいなものが無いので、「思弁的実在論」や「新しい実在論」みたいな新ジャンルが盛り上がり、実在論ブーム」だなどと言われるとわくわくしてしまった。

同時期に、これらの動きとの関連もある文化人類学の新潮流(「人類学の存在論的転回」などと呼ばれる)もどんどん紹介されており、そちらも実に楽しそうな感じがした。

 

何だって!?「ものは実在する」!?


さてメイヤスーだが、可能な限りざっくり説明してみよう。ポイントは「ものは実在する」「世界の法則が明日変わるかも」の2点だ。
実は哲学の世界では、18世紀のカント以来「ものが実在するとは限らない」という考えが本流だったらしい。例えば目の前にテーブルが置いてあったとして、我々はそのテーブルがあるという情報は確かに受け取っているものの、そのテーブルの存在そのもにには到達できない、本当にテーブルがあるかどうかは断言できない、ということだ。

ところが!このカンタン・メイヤスーはそれに反旗を翻し、こう断言したのである……「このテーブルは実在する!」と。

このようにまとめると、哲学になじみのない方は「何を言ってるんだこいつらは」となること必至ですが、哲学というのはこういう話を大真面目にするから面白いのであります。

他にも、例えばこれまで主流だった「人間が認識できないものについては思考することもできないので、人類が発生する前の世界についても実在するとかしないとか言えない」という考えに対し、「いや、人類が発生する前も世界は実在した!(祖先以前性)」と断言したりする。

こういう話はがっつり読むととても面白いので、ぜひ実際の文章を読んでみてほしい。

 

世界の法則は、明日変わるかもしれない。


そしてさらにダイナミックなのは次の点、「世界の法則が明日変わるかも」の方である。

かつてヒュームという18世紀の哲学者は「懐疑論」というのを唱えてなんでも疑ってみたのだが、「明日も太陽が昇ると本当に言えるのだろうか?」という問いを立てた。

彼は、実際に明日も太陽が昇るという根拠を挙げることができなかった。ひょっとしたら太陽は昇らないかもしれない。しかし、最終的には太陽は昇るだろうと結論づけた。

なぜなら、これまでずっと太陽は昇り続けてきたからだ。(これを「経験論」と言う。反対は「超越論」)

ところが!ここでもメイヤスーは反論する。確かにこれまでずっと日は昇って来た。しかし、明日もそうであると何故言えるのか?

彼はカントール集合論などを引いていろいろ語るのだが、ここではすごく単純に言う。

確率から言えば、確かに今までずっと日が昇って来た以上、明日も昇る可能性は確かに高い。しかし、巨大な宇宙サイコロがそれを決めるとして、我々はそのサイコロが何面あるかを知ることができないではないか。何億何兆という面のうちのたった一面が、「日が昇らない」かもしれないのだ。

ここからメイヤスーは、本書の最大のクライマックスを導き出す。つまり、「世界の法則は明日変わるかもしれない」

事実性は、あらゆる事物そして世界全体が理由なしであり、かつ、この資格において実際に何の理由もなく他のあり方に変化しうるという、あらゆる事物そして世界全体の実在的な特性として理解されなければならないのである。いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる。木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則も、である。(カンタン・メイヤスー『有限性の後で』)


メイヤスーは以下の3つを否定する。

  1. 存在の必然性(必ず存在するものがある)
  2. 存在の理由律(存在には理由がある)
  3. カント以来の相関主義(人間が感知できないものは思考不可能)


つまり、何ものも必ず存在するということはなく、仮に存在したとしてもそのことには特に理由がなく、そして我々は自分で感知できないものについても考えてよい。

メイヤスーの議論はとてもマニアックなものかもしれないが、私はこの本を読んでとても開放的な気持ちになった。爽快感があった。それはたぶん、自分を抑圧する何かを、この哲学がひっくり返すような気がしたんだと思う。こういうことが、哲学を読む醍醐味のような気がする。

 

次の一冊


メイヤスーの邦訳書は今のところ2冊。もう一冊は論文集である『亡霊のジレンマ』青土社・千葉雅也序文・岡嶋隆佑、熊谷謙介、黒木萬代、神保夏子訳)だ。

こちらは短い論文が6本収録されており、この本から読んでみるのもいいと思う。(上記『有限性の後で』もわりと短い本だが)こちらの論文集も、メイヤスーのマジかよと目を疑う議論がたくさん繰り出されて楽しい。

特に表題論文は、「もし神が存在するとすれば、こんなに不幸なことが起こるのは納得いかない。かといって神が存在しなければ、死後の救済はありえない。以上から導き出される結論はひとつ。『神はまだ存在しない』」という衝撃の議論が展開され、必読。

 

 


メイヤスーに関して日本語で解説してくれる本はいくつかあるが、上記2冊ともに関わっている哲学者・批評家・小説家である千葉雅也の対談集『思弁的実在論と現代について』を紹介しておこう。

計4つの対談が、メイヤスーを始めとする思弁的実在論について語っている。他にも文学、芸術、精神分析、イケメンなどについての対談がありどれも面白い。

 

 

 

実在論ブーム」を構成する他の著者や、「文化人類学存在論的転回」についてもいずれ紹介したい。

 

追記:関連する著者グレアム・ハーマンの『四方対象』を紹介しました!

pikabia.hatenablog.com

 

 

 

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ポストコロニアル/熱帯クィアSF

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