もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

,

『久生十蘭短編選』で短編の超絶技巧を味わえ

精密に磨き上げられた短編小説世界

 

私はクラシックな日本文学に詳しい人間ではまったくないが、誰か好きな作家を一人挙げろと言われたら久生十蘭を挙げると思う。

1902年(明治35年)生まれのこの作家の短編を、岩波文庫久生十蘭短編選』で初めて読んだ時の衝撃は忘れがたい。

それは信じられないほどシャープだった。硬質で、磨き上げられていた。感情が通ってはいるが、短いプロットがあまりにも巧緻なので、まるで精密に作られた標本のようであり、共感しながらも異世界を眺めているような気分になる。

そして題材は、こう言ってよければスノッブで、海外、とくにヨーロッパに関する知識は並ではない。初めて読んだ時には、「日本文学」っぽくないと感じられた。

もちろんこれは無知ゆえの印象で、実際には明治の作家においてヨーロッパの影響というのは非常に大きな部分を占める。ただニュアンスはわかってもらえるだろう。素人の私が漠然と抱いていた「日本文学」のイメージと、十蘭の小説は全く違ったのだ。

例えば最初に収録されている「黄泉から」の冒頭はこうだ。

「九時二十分……」
 新橋のホームで、魚返(おがえり)光太郎が腕時計を見ながらつぶやいた。
 きょうはいそがしい日だった。十時にセザンヌの「静物」を見にくる客が二組。十一時には……夫人が名匠ルシアン・グレエヴの首飾ペンダントのコレクトを持ってくることになっている。午後二時には……家の家具の売立。四時には……。詩も音楽もわかり、美術雑誌から美術批評の寄稿を依頼されたりする光太郎のような一流の仲買人(アジヤン)にとっては、戦争が勝てば勝ったように、負ければまた負けたように、商談と商機にことを欠くことはない。
 こんどの欧州最後の引揚げには光太郎はうまくやった。みな危険な金剛石を買い漁って、益もない物換えにうき身をやつしているとき、光太郎はモネ、ルノアール、ルッソオ、フラゴナール、三つのフェルメールの作品を含むすばらしいコレクションを糶(せ)りおとし、持っていた金を安全に始末してしまった。
 仲介業者の先見と機才は、倦怠と夢想から湧きでる詩人の霊感によく似ていて、この仕事に憑かれると抜け目なく立ち廻ることだけが人生の味になり、それ以外のことはすべて色の褪せた花としか見えなくなる。(「黄泉から」)

 

舞台は終戦直後である。どうだろう、このちょっとイラっとするほど華麗で余裕綽々の感じ。私は最初から度肝を抜かれてしまった。

とはいえこの短編もいつまでも華麗なままではいない。主人公は恩師との再会、そして従妹の記憶を通して、つい先ごろ終わったばかりの戦争の結果へと導かれていく。それは悲しい物語だが、しかしその筆致は飽くまでも淡々としていて距離感がある。

 

超絶技巧の傑作「予言」

 

そして次に収録されている「予言」。これは私が最も好きな短編のひとつで、5回くらい読んだと思う。

絵ばかり描いていた安部という男が、ひょんなことから石黒という男の恨みを買い、その男によって自殺を予言される。手紙によって予言されたのは自殺だけではない。これから安部が出かける新妻との客船旅行の詳しい道行きと出来事までもがその手紙には書いてあるのだ。安部はそれを一笑に付して船に乗り込むが……

 安部は気持にひっかかりを残したままホールへ入ると、ちょうど余興のかわり目で、十二聖徒の彫刻をつけたエラールのハープがステージにおし出され、薄桃色のモンタントを着た欧州種らしい二十五六の娘が、いいようすでハープを奏きだした。うしろの椅子に正親町と松久がいたので、その間に割りこんで古雅な曲をきいていると、どうしたのか、あたりが急に森閑として、なんの物音も聞えなくなった。安部は、淋しいなとつぶやいていると、ステージの端のほうへ裃を着た福助がチョコチョコと出てきて、両手をついてお辞儀をした。安部は、
「おや、福助さんが出て来た」
 とぼんやり見ていたが、こんなところへ福助などが出てくるわけはない。きょうはよほど疲れているなと思って、しばらく息をつめていると、間もなく福助はいなくなり、へんに淋しい感じもとれた。(「予言」)

ほんの短い短編である。

その短かさの中に、一切の無駄を省いた切り詰められた文章によって、幾人かの登場人物の人生と、奇怪な人物による不気味な予言と、絢爛豪華でデカダンな欧州客船の旅と、そして想像だにしない驚くべき顛末が完璧に封じ込められている。

十蘭の超絶技巧が発揮されるミステリーにして幻想小説だ。

 

次に読みたい

 

さて、十蘭の短編の凝縮された凄みをつらつらと語ってきたが、こちらで紹介する長編『魔都』創元推理文庫)は全く趣が異なる。

舞台は昭和9年の東京、奇妙な事件とともに行方をくらました安南国皇帝の行方を刑事が追う。物語の開始から結末までの時間は三十時間。この三十時間の間に、モダン東京を舞台にした縦横無尽の活劇と華麗な謎解きが講談調で語られるのだ。

長編と短編、どちらも替えの利かない面白さである。