かつて、映画は「動くこと」そのものだった
三浦哲哉の『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)は、タイトルが示すとおり、映画と言ってもフランス映画の本である。 アメリカ映画の話は載っていない。
ではこの本はフランス映画という狭いジャンルについての本なのかと言うとそうではない。 この本はつまり、伝統的にフランス映画が追求してきたようなタイプの、映画の本質的なものについて書かれた本なのだ。
映画が発明された時、人々は映像が動くことそのものに感動した。駅に入って来る列車や、風にそよぐ草の動きが映画そのものだったのだ。
映画批評家アンドレ・バザンは、映画というメディアはカメラという機械の動きによって、私たちの目で見るよりもさらにリアルなイメージ、「現実よりも現実的な」イメージを表現できるとして、それを映画の本質とした。
映画の直接性を再定義する
とはいえ、現在の私たちがその話をそのまま受け取るのは難しい。さすがに映像が動くだけで感動するのは無理だ。映像はそこら中にあるし、CGで加工もできる。
では原初の映画にあったような、「映像が動いていることそのものに対する感動」は映画から失われてしまったのか? いやそんなことはないだろう、というのがこの本のテーマだ。
映画には、映像が動くというただそれだけの感動がある。ただ、何か「自然で純粋な映像」みたいなものを目指しているわけではない。それは映画を過度に神秘化する態度だし、現在の映画に対しては通用しない。
ではどのようにすれば、それを語ることができるのか? それをこの本はいくつかの例を挙げて探っていく。
本書の目指すところは映画の再神秘化ではない。言葉にならないものを言葉にならないと言祝ぎたいだけではないし、価値判断の宙吊りをただ肯定したいわけでもない。超越的なものの幻想を強化したいわけではなおさらない。それはリアリズムの悪しき側面だった。そうではなく、リアリズムがかつて名指そうとし、いまもなおその価値を失っていないものを、有限な「かたち」の問題において捉え直したいと思うのである。無際限なものや永遠のもの、超越的なものへの憧憬を、おそらく映画は観客に与えてきた。そうした過度の形而上化に陥ることなく、もう一度、その実質に消極的でない言葉を与えることが本書の目的である。もっとシンプルに言い換えよう。映画を通して世界を単純に愛することが可能であるという当然の事実をいま、もう一度肯定したいのだ。(三浦哲哉の『映画とは何か』序)
ブレッソンの映画神学
私がこの本ですごく好きなところが第三章、ロベール・ブレッソンの映画の分析だ。少しマニアックな話になるが、簡単にまとめてみる。
著者は『パンセ』で有名な17世紀の哲学者パスカルを引用しながら、フランス映画の中に流れるカトリックの伝統についてついて述べる。パスカルは宗教における正しいイメージのあり方として「受肉」ということを言った。受肉とは目に見えないものが見えるものの形をとることだそうだ。 そして重要なことは、受肉は時間の中で行われると言う。つまりあるイメージがすぐに意味を持つのでなく、時間が経過する中でそのイメージに宗教的な意味が与えられるということだ。
ブレッソンは撮影の際、役者に何度も同じ演技を繰り返させるという。 そして役者が何も考えずに体を動かし話すようになった時に初めて、その役者のイメージが宗教的なものの受け皿となる可能性をもつのだという。
受肉という概念は、「予型説」という考え方に基づいているらしい。これは、あるイメージが後に来る別のものを予告しているということである。例えは「方舟」は、のちに現れる「教会」の予型である。そして「預言者ヨハネ」は、のちに現れる「キリスト」の予型なのだ。
このように、あるイメージが時間の中で別のものになりうる、その可能性をパスカルは「受肉」と呼び、その可能性こそが宗教的なものなのである。絵画や映画などのイメージが、何か単なるイメージ以上の力を持つように感じることがあると思うが、特に西洋芸術の分野では、それがカトリックとの関わりで論じられることが多い。
この本は他にもいくつかの論点から、映画の根源的な力に迫っていく。とても好きな映画の本のひとつだ。
次の一冊
三浦哲哉が、もう一人の映画批評家・石岡良治とタッグを組み、現代の映画についてより広範な視点から議論したのがこの『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議 』(フィルムアート社)だ。後半の対談ではゲストも参加し、現代の映画について論じる上での論点を総ざらいしているかのような本。こちらはアメリカ映画の話もたくさん出てきます。
上記の対談相手である石岡良治の単著がこちら、『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)。こちらは映画だけではなく、アニメやゲームも含めた現代の「視覚文化」全般について、膨大な関連書籍を紹介しながら基本的な論点を網羅してくれる。辞書的に持っておきたい。
イメージの持つ力とカトリック性の関連について何冊も本を書いているのが、別の記事でも紹介した岡田温司である。中公新書『キリストの身体』では、西洋絵画で最も多く描かれているかもしれないイメージであるキリストの像に何か託されてきたのかを詳細に拾い上げてくれる。
(追記:紹介しました!)
岡田温司についてはこちらの記事も参照されたし。
追記:記事中で触れているロベール・ブレッソンの映画についてブログで紹介しました。ぜひごらんください。