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『ザ・バットマン』はゴシック・クラシックになり損ねたのか?

 


映画のネタバレを含みます!

マット・リーヴス監督「ザ・バットマンは、一見本格的なゴシック・ノワールとして始まる。 ゴッサムシティはかつてないほどにゴシックな建築の立ち並ぶ都市となった。天を突き刺す摩天楼の下、深く暗い夜の中で怪しげな覆面の者たちが暗躍し、そしてほとんど光を通さない暗闇の中からバットマンが現れる。物語は陰鬱なトーンで進み、モノクロームな画面が現代都市に中世的あるいは世紀末(ゴシック・リヴァイヴァルの時代)的な趣を与える。

このゴシックはしかし、古色蒼然たるゴシックではない。印象的なシーンで流れるニルヴァーナのギターの音色からも感じられる通り、これはスタイリッシュに作られた現代的なゴシックである。 ゴスと呼んだ方がしっくりくるかもしれない。それは現代の技術で撮影されたことによる解像度の高さからも感じられる。 古典的なゴシックはどこかぼやけているものだ。これはとても贅沢に作られた、スタイリッシュな高解像度ゴシックである。

 

映画の「様式」と「古典」

 

さて、これが現在どの程度受け入れられている考え方なのかよくわからないのだが、映画というのは観客の記憶の中で成立する芸術である。 観客が直接的あるいは間接的に見聞きしてきた映画の記憶を呼び起こすことによって、映画は映画となる。 例えばティム・バートンによるバットマンはまさにそういう映画だった。 映画の終盤、バットマンとジョーカーが時計塔の階段を駆け上るシーンに召喚されたヒッチコック『めまい』のシーン。それは単にオマージュを捧げているということではなく、かつての偉大なる映画のアクションを反復するということこそが、ティム・バートンにとっては映画そのものなのだ。そして後世の映画によってその様式を模倣される作品が「古典」と呼ばれる。

ティム・バートンは黄金期ハリウッドの映画を反復したが、今回のバットマンは70年代アメリカのノワール映画、ハードボイルドな探偵映画やギャング映画の記憶を召喚する。ゴシックの王道を往く舞台装置と、暴力を孕んだ都市映画のスタイルを真摯に再現することによって、ザ・バットマンは新たな古典となることを目指すかのように見えた。(「古典」「クラシック」とは、つまり様式への意志だ)

 

様式を裏切る結末

 

しかし物語の終盤で、映画は奇妙な転回を見せる。悪役リドラーの正体と、それに続く展開によってだ。それまでは荘厳な舞台装置の中で、隠された崇高なものを暗示するようなゴシックの美学に彩られてきたこの映画が、リドラーの正体を明かすことにより、一転して散文的な凡庸さの世界に引き摺り出される。そして、それはリドラーが蒔いた種に呼応した者たちの蜂起によって完成する。

そこにはもう、ゴシックの美学に耽溺していた世界はない。世界の残酷な凡庸さが明るみに出され、バットマンはまるで身を守る闇を失ったかのように寄る辺なく戦うだけだ。この映画の結末の苦さは物語の苦さだけではない。深い闇の中に隠されていたはずの神聖なる悪が、より逃げ場のない凡庸さの中にあることを知ってしまった苦さだ。そこにはゴシックの美学も、古典としてのノワールの様式もない。我々が幻想を遊ばせる魅力的な闇はなく、ただ距離も深さもない灰色の現実を示して映画は終わる。

 

これは、美学と様式の不徹底なのだろうか? この映画はクラシック映画になろうとして失敗したのだろうか?

その判断は各々に任せるしかないが、私はこの結末に制作者たちの、美学に溺れることへの躊躇が現れているような気がする。 ゴシックでノワールな美しいバットマン映画を生み出そうとしながら、果たしてそれだけでいいのだろうかというためらいが、この映画にいびつなリアリティを与えているような気がする。

 

 

 

jp.ign.com

IGNの英国版からの翻訳であるこの記事、内容が濃くて面白いのだが、前述した終盤の展開に関しては失敗と断じている。映画にとって必要のない展開だったとまで言われているのだが、そこまで言われると「いや、確かにあの終盤が無かったら綺麗に終わってたかもしれないけど、あの終盤があるからなーんか気になる不思議な映画になってるんだよね……」と思うのである。

 

 

次の一本

どちらも大変いい映画ですよね。

 

 

そのうち読みたい

文中ではかなり適当にゴシックの話をしていますが、そのうちちゃんと勉強したいなとは思っております。