もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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田中純『デヴィッド・ボウイ』を読むことは、ボウイを好きになる一番いい方法だ

この分厚い本はどんな本なの?

皆様、デヴィッド・ボウイを聴いたことがあるだろうか。少なくとも名前くらいは知っているのではないだろうか。1960年代末から、2016年に死去するまで音楽活動を続けたイギリスのアーティストである。グラム・ロックという、煌びやかなイメージを特徴としたジャンルを代表するアーティストと言われることが多い。

 

さて、そこで岩波書店から刊行されている、田中純デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』である。

この5000円を超える分厚い本を、例えばボウイのことをあまり知らない人に勧めてもまあ買わないだろうと思う。しかし、もしあなたがわりとボウイのことが好きで、何枚かアルバムを聴いたことがあり、お気に入りのアルバムもあったりするのであれば、この本を買うのは安い買い物だと言える。何故なら、この本を読むことによって、デヴィッド・ボウイはあなたにとって一生聴き続けられるアーティストになるかもしれないからだ。

もちろん大袈裟に言っているわけだが、そのくらい、この本はデヴィッド・ボウイという存在に深く分け入っていく本だ。そして読者である我々も、著者とともにボウイがどんな人間だったかを知り、録音された音を聴き、メロディーを追い、歌詞を読み、レコードジャケットやファッションを見、どんなステージだったかを読み──という体験をともにする。

この本が分厚いのは伊達ではない。この本はデヴィッド・ボウイを聴く、デヴィッド・ボウイに触れるという体験の強度を、言葉の力によって可能な限り最大化するのだ。

 

ボウイを記述するための多面的な批評

 

もしあなたが田中純の読者であれば言わなくてもわかることなのだが、この本は伝記ではないし、ディスクガイドでもない。これは批評の本である。

著者は可能な限りの多くの側面からボウイに迫り、それが何だったのかを記述しようとする。音楽、歌詞、ビジュアル、本人の行動や言動はもちろんのこと、極めつけは「英語の歌が日本人の耳にどう聴こえたか」までにこだわる。それは引用された歌詞に執拗に振られたルビとして表現される。

 

こちらトム少佐から地上管制官ディス・イズ・メイジャー・トム・トゥ・グラウンド・コントロール
ドアから踏み出ようとしているところだ
そしてぼくはとても奇妙な感じで漂っている
それに星々は今日まるで違って見えるアンド・スターズ・ルック・ヴェリー・ディファレントゥ・トゥデイ

なぜならここでフォー・ヒーア
ぼくはブリキ缶ティン・キャン のなかに座っているのだから
世界のはるか上空にいてファー・アボーヴ・ザ・ワールド
惑星地球は青くプラネット・アース・イズ・ブルー
そしてぼくにできることは何もないアンド・ゼアズ・ナシング・アイ・キャン・ドゥ

 

「それに星々は今日まるで違って見える」のフレーズに至るまで、ストリングスを背景に高揚した調子で声を張り上げていたトム少佐(ともにボウイによるメインとバッキング・ヴォーカルとの二声)は、「トゥデェエエエイ」と叫んだのち、続くコーラスで急にそのムードを変える。
なぜならここでフォー・ヒーア」の「ヒーア」、および、「世界のはるか上空にいてファー・アボーヴ・ザ・ワールド」の「ファー」でコードはF7に変わり、この曲の冒頭と同様に浮遊感を作り出している。ストリングスはいったんやや静まり、虚空を漂うようなフルートが無重力の寄る辺なさを表わす。トム少佐の独白のような「惑星地球は青くプラネット・アース・イズ・ブルーそしてぼくにできることは何もないアンド・ゼアズ・ナシング・アイ・キャン・ドゥ」というフレーズに至るまで、コーラスの進行はいずれも、高音で始まり、次第に下行する旋律で歌われている。伴奏がアコースティック・ギターのみになり、左右で打ち鳴らされる拍手によって区切られたのち、スタイロフォンの金属板上をスタイラスが一気に高音まで滑り、ストリングスやメロトロンがバックに加わったリード・ギターによる間奏が始まる。そのサウンドは最後に突如低音にまで落下して歪む。それは地球の重力圏を完全に脱出するための爆発音のように聞こえる。

「ブリキ缶」に似た玩具じみた宇宙船はトム少佐を隔離し、地球のあらゆる人びとから遠ざけて断絶させる人工空間である。彼のもとには地上管制官からこんな質問が届けられる──「新聞屋たちはきみの着ているシャツのブランドを知りたがっている」。トム少佐は宇宙船のなかに閉じ込められ、宇宙空間にひとり放り出されて孤独に晒されることとひきかえに、あるいはまさにそのことによって、メディアの注目を集める「スター」になっている。(第一部第一章「そしてぼくにできることは何もないアンド・ゼアズ・ナシング・アイ・キャン・ドゥ──『デヴィッド・ボウイ』」より)

 

引用部分は最初のヒット曲「スペース・オディティ」に関する文章だが、この本は万事がこの調子である。この密度でボウイの全キャリアを分析しようというのだから、総ページ数が600を超えるのも当然だ。

 

ボウイのキャリアの、濃密な追体験

 

正直に告白すると、実は私はこの本をまだ読了していない。

私はボウイのアルバムを最初から順番に聴き、歌詞を読みながら、該当する章を読み進めていった。そしてアルバムが10枚以上発表される怒涛の1970年代が終わり、83年の「レッツ・ダンス」まで進んだ時点で、もうダメだ!と思っていったん本を閉じた。

なにしろ、ほとんど毎年傑作アルバムが発表される10数年を、一気に追体験させられたのだ。どう考えても情報量が多すぎる。こんなスピードでボウイの全キャリアを追うのは無理だし、何よりもったいない。

というわけで私は、もうしばらく70年代のボウイを堪能することに決めたのだ。ちなみにこの時期のアルバムではハンキー・ドリー」「ジギー・スターダスト」「ダイヤモンドの犬」「ステイション・トゥ・ステイション」「ロウ」が特に好きだ。「特に」と言ってるのに6枚も挙げてしまっているあたりに、この時期のボウイのヤバさを感じてほしい。

さて、私の前には、84年の「トゥナイト」以降、ボウイのアルバムがあと12枚ほど残っている。私はこれらのアルバムを、ボウイに深く潜入し、その考えや企み、詩や音像、そして才能の浮き沈みや身に纏う政治性までを読み解いていく著者とともに、これから楽しんでいくことができる。

なんという贅沢だろうか。やはり安い買い物なのだ、この本は。

 

次の一冊

 

デヴィッド・ボウイに興味はある、わりと好きだ、しかしいきなり5000円超えの本を買うのは……というあなたも安心してほしい。ずっと手に取りやすいものも紹介しよう。野中モモによる新書デヴィッド・ボウイ 変幻するカルト・スター』ちくま新書)だ。

著者はサイモン・レイノルズ『ポストパンク・ジェネレーション 1978-1984』、キム・ゴードンの自伝『GIRL IN A BAND』、ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』、ヴィヴィエン・ゴールドマン『女パンクの逆襲──フェミニスト音楽史』などの錚々たる訳業のある翻訳者であり、英米カルチャーの紹介者だ。この新書ではボウイの全キャリアをコンパクトにまとめつつ、その魅力を十分に語ってくれている。日本で少女漫画に与えた影響などもフォーカスされており楽しい。

 

 

田中純表象文化論、政治思想史、文化史などを専門とする著者で、実を言うとこのボウイ本は著書の中では異色のものかもしれない。この『政治の美学―権力と表象』東京大学出版会)は、政治権力がその身に纏う美学、あるいは美しいものが必然的に帯びる権力について、様々な作品や出来事に深く入り込んで論じた書物だ。芸術と政治、美と権力の不可分の関係は、著者の基本的なテーマであり、『デヴィッド・ボウイ』にももちろん継承されている。(なおこの本の冒頭にも濃密なボウイ論が収録されている)

 

『過去に触れる 歴史経験・写真・サスペンス』羽鳥書店)は、特に写真というメディアを取り上げて、我々が作品やメディアを通じて「過去」に出会うというのはどういうことかを論じた本だ。例えば、時に写真を見て「逆撫で」されるような体験があり、そのような体験が我々に歴史を経験させるのだという。単に歴史的な出来事を知るという以上に、何かしらの形で歴史そのものに触れる、つまり「過去に触れる」という経験がいかにしてありうるか、ということについて書かれた重厚な本である。表紙に使われた写真の由来を知った時の衝撃は忘れがたい。

 

 

表象文化論については、下記記事などもご一緒にどうぞ。

pikabia.hatenablog.com

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