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岡田温司『アガンベン読解』 「できるけどやらない」という能力、そして政治の存在論

イタリア現代思想の紹介者としての岡田温司

 

岡田温司の著書には大きく分けて二つの分野があり、ひとつは以前このブログでも紹介した美術史・表象文化論に関するもの。そしてもうひとつは、イタリアの哲学・現代思想に関するものである(もちろんその両者は深く関わり合ってもいる)。そして後者の中で大きな比重を占めているのが、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの翻訳および紹介である。

 

前者の仕事についてはこちらの過去記事を参照のこと

pikabia.hatenablog.com

今回は、先日めでたく平凡社ライブラリー入りしたアガンベン読解』を紹介したい。これは私が最も好きな岡田温司の本のひとつであり、アガンベンの関連書の中でもかなり読みやすいものと思われる。

 

「潜勢力」の哲学

 

さて、この本はアガンベンの各著書を紹介するというよりは、アガンベンの思想を構成する主要な要素を、キーワード別に噛み砕いて語ったものだ。ここではその中から、最初に書かれている「潜勢力」を取り上げてみる。

「潜勢力(ポテンツァ)」とは、いまだ実現していないもののことである。逆に、すでに実現し、実体として現れたものを「現勢力(エネルゲイア)」と呼ぶ。この潜勢力と現勢力の関係が、アガンベンの重要なモチーフのひとつだ。

アガンベンはこの二者のうち、特に潜勢力を重視する。彼にとって潜勢力とは、いずれ実現することがあらかじめ予定されている可能性ではない。潜勢力とは、ひょっとしたらそのまま実現しないかもしれないが、しかし潜在的には存在し続けるものである。

アガンベンは、何かを実現、実行することに必ずしも価値を置かない。潜勢力を潜勢力のままでキープする、つまり、「できるけどやらない」ことに価値を置こうとする。これを特に、「非の潜勢力」と呼ぶ。人間だけが「非の潜勢力」を持ち、潜勢力を潜勢力のままに留めおくことができるのだ。

「人間とはすぐれて潜勢力の次元、なすこともなさないこともできるという次元に存在している生きものである」「人間の潜勢力の偉大さは、その非の潜勢力の深淵によって測られる」アガンベン『思考の潜勢力』よりの引用)

この、一見「実現・実行されないことに何の意味があるのか……?」と首を傾げてしまいそうになる概念が、実は人間とその文化にとって深い意味を持っているというのが、アガンベンが繰り返し語っていることだと思う。

アガンベンによれば、潜勢力は「能力」にも関わっているという。仮に、すでに完結し、結果が出ているものである「快楽」を現勢力とすれば、潜勢力は「苦痛」である。ものごとの結果や結論が出ないままにしておくことは、時に苦しいことだからだ。しかし人間には、潜勢力をそのままに押し留めておこうとする「能力」がある。潜勢力を現勢力から分離しておく力、何かを実現せずにおく力のことを、アガンベンは「能力」と呼ぶのだ。「能力」とは苦痛を受け入れること、「受け入れる力」であり、思考はそこにおいて存在する。ものごとを簡単には実現・実行しないことによって、むしろ人は思考するということだ。

 

存在論と政治哲学

 

さて、アガンベンの哲学の特徴は、この潜勢力・現勢力のような存在論的な概念を、政治哲学に結び付けるところだ。

アガンベンによれば、「主権権力」とは「例外状態」において決定を下すものだという。これはカール・シュミットの定義を援用したものだが、例外状態とはつまり「法が宙づりになる状態」、つまり戦争や災害によって、法の適用が例外的に無効になる状態のことである。例外状態において、法の外側から、法を無視して決定を行うことができる立場が「主権権力」なのだ。

これを潜勢力・現勢力を使って言い換えるとこうなる。つまり主権権力は例外状態において、自らを法の外側に置きながら(潜勢力にとどまりながら)、自己を実現する(現勢力となる)。ということは、主権権力とは、その発生の場においては同時に潜勢力でもあり現勢力でもあるのだ。この二重の存在の仕方、存在しないことによって存在する、実現しないことによって実現するというあり方が、主権権力の秘密であり、力の源である。

「主権者は、法的秩序の外と内に同時にある」という。確かに、自分が存在しないように振る舞うことによって無上の力を振るうことができる、力を振るってはいるがその存在には干渉できない、そんな者がいれば、それは無敵の存在かもしれない。アガンベンはそのようなものとして主権権力を定義するのだ。

 

この陰鬱な見立てに対して、アガンベンが提示する希望はほんのささやかなものにすぎない。主権者は、潜勢力と現勢力の間、存在することとしないことの間、法の外側と内側の間にある、どっちつかずの不分明地帯に身を置くことによってその力を発揮する。そして、もしそのような主権者の力から逃れうるものがあるとすれば、それは同じように不分明地帯に身を置くものだけだろうと。

先に述べた「非の潜勢力」、つまり「できるけどやらない」力もまた、ここに関わってくるのだろう。アガンベンは例えば、メルヴィルの著名な小説に登場する、あの何もしないキャラクター、バートルビーを好んで取り上げる。何を命じられても「I would prefer not to(しないほうがいいのですが)」と返答し、やがて食事すらせずに死んでしまうこの代書人が、アガンベンにとっての、希望とも言えないような希望の象徴なのだろうか。

 

批判されるアガンベン


岡田温司は繰り返し、アガンベンの書物が厳しい批判に晒されていることを強調する。

いわく、「政治的ニヒリズム」「政治的使命がない」「過剰なレトリックや詭弁」「政治を美学化する」などなど。著者自身、この本でこのように言ってしまう。「これらの疑問に答えるのは容易ではないし、またそれぞれの批判にも一理はある。白状するなら、このわたしもまた、アガンベンを読みながら「それでどうすればいいんだ」と心のなかで呟いていることが少なくない」(「はじめに」より)

実際に、アガンベンがコロナウィルスの流行についての発言によって激しい批判にさらされていることは、事情に詳しい人ならとうに知っていることだろう。

※詳細は岡田温司による下記記事を参照

アガンベンは間違っているのか? | PRE・face | Vol.39 | REPRE

 

アガンベンにとって、政治と詩学、あるいは政治と言語の問題はけっして分離されえないもので、たがいに交差し合っているのである。このことを否定的に捉えるなら、アガンベン政治学はレトリックを弄しているばかりでいかなる実効性も欠くと判断されるだろうし、他方、その詩学はいたずらに政治に侵食されている、ということになるのかもしれない。この批判を全面的に否定することは不可能であるし、またその必要もない。重要なのは、政治と言語が絡み合う場、あるいは場なき場であり、メビウスの帯のような両者の絡み合いの様態である。アガンベンの思考の照準は、ほかでもなくその不可能な空間に向けられているのである。
人間をして政治的存在たらしめているのは、まさしく言語にほかならない。このことはまた、アガンベンが幾度も立ち返ることになる思想家たち、古くはアリストテレス、そして近いところではハナ・アーレントヴァルター・ベンヤミンらがはっきりと気づいていたことであった。(「はじめに」より)

 

岡田温司アガンベンに対する様々な立場からの批判を紹介し、それを受け入れながら、それでもなぜアガンベンの本を読むのかについて語る。

この本で岡田温司アガンベンの哲学のキーワードをひとつひとつ取り上げ、その思考の形を辿っていく。哲学の本というのは答えを示すものではなく、何かについて考える方法を示すものだ。そしてもちろんアガンベンが取り上げるのは政治だけではない。そこには芸術、文学、宗教、歴史、経済、言語など、人間の文化に関するほとんどあらゆるテーマが現れ、そしてそれらは決して互いに切り離すことができず、全てが連関している。政治の話だけ、芸術の話だけ、言語の話だけを取り出すことはできないのだ。アガンベンはこれらの絡まり合ったテーマを、例えば潜勢力・現勢力のような独特の概念と方法を使って、意外で魅力的な角度から考えていく。その思考の形を追うのはとても楽しい体験だし、岡田温司の『アガンベン読解』はその最良のガイドである。

 

アガンベンの代表的なテーゼであるホモ・サケルについてはこちらの記事を参照。

pikabia.hatenablog.com

 

次の一冊

 

同じく平凡社ライブラリーから出ているこの『開かれ』は、アガンベンの著書の中では手に取りやすいものの一つだろう。アガンベンは常に、例えば潜勢力/現勢力のような二項の間にある不分明地帯、「もはやAではないが、まだBでもない」という閾を問題とする。この本で取り上げられるのは「人間/動物」という二項だ。

人間と動物の境界線は、常に人間の内部に引かれて来た。その担い手をアガンベン「人類学機械」と呼ぶ。著者は人間と動物がどう区別されて来たかという事例を美術、宗教、自然科学、哲学史の中から拾い出し、そこに必ず発生してしまう名付けられないグレーゾーンの存在を示す。そしてこの、常に人間の中に見出される、人間でも動物でもない領域が、例えば強制収容所で全面化すると言うのである。

 

岡田温司のイタリア現代思想に関する仕事ではこちらの『イタリアン・セオリー』(中公叢書)もお勧め。アガンベンをはじめ、アントニオ・ネグリマッシモ・カッチャーリロベルト・エスポジトなどイタリアの思想家の仕事を紹介した論文集である。それぞれの章は独立しているので読みやすい。(価格は高騰しているようですが……)

 

このアガンベンの身振り』岡田温司によるアガンベン本だが、こちらの方がアガンベン読解』に比べてコンパクトではあるものの、内容はやや専門的かもしれない。この本ではアガンベンの壮大なプロジェクトであったホモ・サケル計画」の全9冊での完結を受け、その全貌を振り返りつつ、改めてアガンベンの思想を概観している。

 

 

追記:岡田温司の著作リストを作成したので、ぜひ合わせてご覧ください。

pikabia.hatenablog.com