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多木浩二『肖像写真』 ナダール、ザンダー、アヴェドンから読み解く、歴史の無意識

三人の肖像写真家


今回は、以前当ブログでベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を紹介した多木浩二の本をもう一冊紹介しよう。

pikabia.hatenablog.com

 

今回取り上げる『肖像写真』岩波新書)は、美術、写真、映画、建築など多彩な分野の批評を残した著者の晩年の新書で、理論的な著作というよりは批評的エッセイという感じで読みやすい一冊だ。

この本ではナダール、アウグスト・ザンダー、リチャード・アヴェドンという三人の著名な肖像写真家を取り上げ、それぞれの写真の違いを通じて、写真の発明からおよそ一世紀にわたる、写真のありかたと社会そのものの変化を読み取っていく。

まずはそれぞれの写真家の概要を簡単に紹介しよう。

  • ナダール(1820~1910)
    フランスの写真家。風刺画家として出発し、後に写真家に。パリに写真館を開き、多くのブルジョワジーの肖像写真を撮影した。
  • アウグスト・ザンダー(1876~1964)
    ドイツの写真家。ドイツの様々な職業・階層の人々の肖像写真を撮影し、それらをまとめてドイツ社会を表現しようとした。
  • リチャード・アヴェドン(1923~2004)
    アメリカの写真家。ファッション写真で成功し、後に多くの肖像写真を撮影した。


多木浩二はこの三人における肖像写真の変遷から、被写体を撮影する写真家の視線そのものの変化を読み取る。

まずナダールは写真館で有名無名の多くのパリ市民を撮影したが、際立つ作品は当時の著名人たちだという。ナダールは風刺画家時代に「パンテオン・ナダール」という大作を発表したが、それは当時のパリを代表する著名人たちの似顔絵を並べたものだった。ナダールは彼らの顔の個々の特徴を捉えて表現し、それを並べることでその時代のパリを表現したのだ。

同じように彼は肖像写真においても、著名人たちの内面を引き出し、かつての写真館で使われていたような装飾的な背景を使わず、灰色の背景の上に彼らの姿を浮かび上がらせた。

ナダールは、その抜きんでた人々の肖像写真の数々によって、エリート主義的なブルジョワジーの時代ブルジョワジーの神話を伝えている。

 

一方、それに続くザンダーが撮影したのは著名人ではなかった。ザンダーはドイツの農村や都市に住む普通の人々を、その職業や階層を強く表現するような形で撮った。どの人物も、その生活や立場を力強く表現し、そしてそのような肖像写真が集まることによって、当時の社会の全体像が現れてくる。

ザンダーによれば、「個人はおのれを歴史に刻印し、同時に歴史の意味を体現する」という。ザンダーの写真は20世紀初頭のドイツの一地方を写したものだが、それは写真のイメージでしか触れえない歴史へと我々を導く。

 

最後のアヴェドンは、真っ白い背景の上で肖像写真を撮った。アヴェドンによれば暗い背景は何らかの存在を感じさせて充実しているが、白い背景は空虚である。白い背景は、被写体を撮影場所や環境などの偶然から隔てて、その人そのものとする。アヴェドンは多くの著名人を撮ったが、その社会的地位ではなく、彼ら個人の中から自分が読み取るものを撮影した。

ナダール、ザンダーの時代を経て、アヴェドンの時代には写真家個人の視点が重要になった。アヴェドンは白い背景の力を借りて被写体個人に迫っていくが、それは写真家自身を見ることでもあった。20世紀後半に至り、写真は被写体と同時に写真家個人を表現するものとなっていく。

やがてアヴェドンはアメリカの無名の人々を撮影して写真集にまとめ、また父親の死期に際してはその写真を撮り続けた。晩年にはボルヘスベケットフランシス・ベーコンといった彼の敬愛する芸術家たちを撮った。アヴェドンは優れた技巧によってその肖像写真を撮影したが、そこに現れるのは生々しさと同時に空虚さでもあった。それは20世紀後半に徐々に現れてくる、非人間的な歴史を表現するものでもある。

 

肖像写真と歴史

 

ナダールはボードレールを始めとする19世紀の芸術家や著名人たちの生き生きとした姿を撮影しながら、しかしその写真はブルジョワジーの世界に閉じていた。

ザンダーの写真は世界に開かれ、ドイツの一地方のあらゆる階層の人々を撮ることにより、世界全体を表現しようと目論んだ。

そしてアヴェドンはニューヨークのファッション写真家としてスノビズムから現れ、著名人から無名の人々まで多くの人々を進歩した撮影技法で写したが、そこで表現されたのは世界の空虚さでもあった。

 

多木浩二は、写真は言説としては記述されない、歴史の無意識を表現するという。三人の肖像写真家を辿って語られたのは、近代という歴史の無意識なのだ。

普通、歴史は言語によって記述されねばならない。そのことに強い関心を向けた人びとが、叙述の比喩的性格にまで立ち入ろうとしたことがあった。しかし写真におけるまなざしは、記述的な歴史の構成される以前の状態で働いている。これはまなざしだけではなく、日常の習俗としか思われないものも、いつのまにか歴史を変えていく新しい力になっていくことと同様である。同時代の歴史とは、記述されうる歴史と、まだ言説にはならないマイナーな実践の二重の関係のなかで進んでいくものである。だからまなざしもこの関係のなかに巻き込まれ、写真は論証しないから、記述しえない歴史を語るようになるのである。言葉を換えれば、それは「記述される歴史」の無意識をなしているのである。(「終章 肖像写真と歴史」より)

写真や建築などの形で現れる芸術と技術、それが「歴史」と切り結んでいる関係を、多木浩二の本はいつもスリリングに取り出してくる。

 

次の一冊

 

このモダニズムの神話』はもともと1985年に刊行されたものだが、現在はオンデマンド版が手に入るようだ。20世紀初頭のモダニズムの諸文化を広範に取り上げて分析を加え、資本主義と文化の関係の根源を探る濃密な論集。80年代における日本の批評の盛り上がりも感じられる。

 

こちらもオンデマンド版。未来派ロシア・アヴァンギャルドなどやはりモダニズムの芸術を扱った本だが、『進歩とカタストロフィ』というタイトルがその問題意識をコンパクトに表現している。エル・リシツキーをあしらった表紙もとてもよい。

 

そのうち読みたい

 

文庫で買えるこの二冊、『眼の隠喩』天皇の肖像』多木浩二の代表的な仕事として挙げられることが多い。どちらも面白いことはわかりきっているので読みたいです。