もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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雑談:漫画を途中から読むのが苦手という話(そしてMCU)

大人になって失われた能力

 

今回は、私が失ってしまった能力について書きたいと思う。「漫画を途中から読む能力」である。

 

かつて、私が子供だった頃、あるいは漫画雑誌を買っていた頃、漫画を途中から読むことは普通だった。

雑誌に載っている漫画や、たまたま途中の巻を手に取った漫画など、キャラクターやストーリーがわからなくても気にせず読んでいた。

しかし現在──いったいつ頃からだろうか──漫画を途中から読むことが苦手になってしまったのだ。別にキャラクターやストーリーがわからなくても読めはする。しかし、もし漫画を読むなら、最初からちゃんと読むべきだ……最初から読んだ方が面白いはず……途中から読むなんてもったいない……そんな観念が頭をもたげ、途中から読むくらいなら読まなくていいや、と結局読まずじまいになってしまうのだ。

これは損失である。現に私は少年ジャンプとジャンプSQの電子版を購読しているが、上記の理由により、最初から読んでいた漫画しか読んでいない。途中からでも読めばいいではないか!せっかく買っているのだから! あるいはウェブやアプリの漫画だって、気になったら無料公開してる最新話から読めばいいではないか。しかし、どうにも手が伸びないのだ……

こちらはインド料理のプラータ。カレーにつけて食べると美味しい。

 

途中から読んでもいいはずだ!いやむしろ途中から読むべき?

 

理性ではわかっているのである。必ずしも、わざわざ最初から読む必要はないと。

それは確かに、作者たちが計画し、緻密に構築したであろう話の運びや、キャラの登場のさせ方や、張られた伏線などを十全に味わうことはできないであろう。しかしそれが何だというのか。作品が提供するものを十全に味わう、などというのは作品と読者の理想化された関係にすぎないではないか。そもそも最初から読んだ場合に、そういったものを十全に読み取っていると言えるのか。もっと適当に読んでいるではないか。だったら途中から読んでも同じだし、面白い漫画なら途中からでも読んだ方が作者にとってもいいではないか。そもそも、漫画の単行本についてるキャラ紹介や「これまでのあらすじ」ページは、途中から読む人のためにあるのではないのか?

そう、そうなのだ。書けば書くほど、途中からでも読んだ方がいいと思えてくる。

しかも、漫画を途中から読むという行為には、ちょっとノスタルジックで甘美な趣もある。それは幼年期の記憶と結びついた感情であろう。幼い頃、私はいろんな漫画を途中から読んだ。そこでは誰だかよくわからないキャラクターが、なんだかよくわからない事情で活躍していた。私はおそらく、そういうよくわからなさが好きだった。

今にして思えば、それはむしろよりリアルな世界の手触りかもしれない。そもそも我々は世界の全容を知ることなどできない。であれば、読んでいるフィクションによくわからない部分があるのは当然ではないか。だいたい、作者が作品の全てをコントロールしているという観念自体が眉唾なのだ。もちろんみんな頑張ってコントロールしようとしているのだろうが、しょせん人間の考えることである。無意識まではコントロールできないし、思考に枷のように嵌められた形式に逆らうことすら容易ではない。であれば、むしろ途中から読むくらいがちょうどいいのではないか? 作者の計算の効果が発揮されない状態にあえて身を置いた方が、より作者の根源にあるものが現れるのではないか──?

 

まあ最後の方は半分冗談だが、だいたいこういう感じで、「途中からでも漫画を読んだ方がいいよな~」と考えているのである。この文章を書くことで、その目標に一歩近づけるかもしれない。読めるような気がしてきた。私は、「漫画を途中から読む能力」を取り戻したいのだ。

(そもそも昔の漫画は、「読者が最初から全部読んでくれること」を現在ほど期待せずに描かれていた気もする。この辺は「漫画雑誌を読む」という習慣の変遷にも関わって来るだろう)

 

救世主となったMCU

 

さて、実は近年、漫画とは別のところで、「物語を途中から追う」という体験をさせてくれたものがある。

アベンジャーズでおなじみ、マーベル・シネマティック・ユニヴァース(MCUである。

台湾に住んでいた頃、なんとなく映画館に行く余裕ができ、最初のアイアンマンくらいしか見たことがなかった私はいきなりマイティ・ソーの三作目『ソー・ラグナロクを見に行った。楽しかった。そもそもソーが誰なのかわからないし、ロキとの関係もわからないし、サプライズ登場するハルクもわからない。しかしそんなことは問題なく、私は大いに映画を楽しんだ。

その後も私は公開されるシリーズを見続けたが、その時点ですでに膨大だった過去作を全部見るつもりはさらさらなく、何本かつまみ食いしただけでアベンジャーズ・エンドゲーム』まで駆け抜けた。過去作を全部見るのは無理だな、と自然に思える物量が、それを可能にしてくれたのだろう。(なおこのつまみ食いの段階でバッキーにハマり、バッキー登場作は全部見る、というような楽しい寄り道もあった)

それは久方ぶりの、「よくわからないキャラが、よくわからない事情で活躍しているのを特に気にせず楽しむ」という体験だった。

様々なヒーローやヴィランが登場する度に、「なんかいるんだな~、そういうキャラが」と思いながら見たものである。それは前述のように、ある意味では失われた幼年期を取り戻す体験だった。マーベル映画に感謝したい。

 

 

当時こういうのを読んで、「なんかそういうキャラがいるんだな~」とぼんやり把握して映画を見てましたね。

 

この過程でキャプテン・マーベルにはまってこの日本語版も読んだんですが、そういえばアメコミもだいたい「なんかこの話の前にいろいろあったんだろうな……」という読み方になりますよね。