もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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『チェンソーマン』 デンジの欲望はどこへ行ったのか

性欲と大量死

 

藤本タツキチェンソーマン』について、あの漫画は一体なんだったんだろう、とたまにぼんやり思い出す。

私にとって、この漫画の内容は、乱暴に言えば以下のようになる。すなわち、前半は性欲の話。そして後半は大量死の話だ。

序盤の展開では、とにかくデンジの性欲の問題が重要だった。それは特に、デンジというキャラクターが、衣食住もままならない貧困の中にいるキャラクターだったからだ。デンジは広い意味での資本となるものを何も持たない立場の少年である。親も兄弟も友人も財産も、さらには趣味も無い彼にとって資本と呼べるのは戦闘能力だけだし、その能力ですら戦時において搾取の対象となっているように描かれる。資本を持たぬ者の性欲、というテーマを、私は少年ジャンプで見ることになるとは思わなかった。このようなデンジが性欲に翻弄されるという物語を、私は痛ましく見守っていた。

 

しかし、後半になると様相が変わって来る。シンプルに言って、性欲どころではなくなるのだ。悪魔との戦いは指数関数的に規模と深刻さを増し、チェンソーマンという漫画は大量死を描く漫画となる。

かつて大塚英志は、1200件の密室殺人が起こる清涼院流水のミステリ小説『コズミック』に関して、ここには大量死をいかに表象するかという問題があるという旨のことを述べていたと思う(すみません、出典はわかりません)。

チェンソーマンにもまた同様の問題意識があると思える。後半のチェンソーマンが生と死、現実と非現実の境界をほぼ喪失し、登場人物たちの能力や戦闘がどんどん異様な次元に突入していったのも、大量死を描くことの不可能性に結び付けて考えられるのではないかと思う。

 

そしてこの局面において、もはや性欲のテーマは登場しないと言っていい。実際それどころではない。そしてそのまま物語は終わる。

 

消えた性欲


物語の中盤に重要なシーンがある。デンジが、かつて性欲の対象としていたパワーと同衾しながら、特に性的な気分になることもなく眠りに落ちるというシーンだ。この時デンジもパワーも深い悲しみのうちにあり、その中で二人が支え合うという展開だった。私はこのシーンがあって非常に救われたと思ったし、作品にとっても大切な場面だと思う。

しかし、それはそれとして、これ以降デンジの性欲はどこかへ行ってしまった。一体どこへ行ってしまったのだろう。それは消えてしまったのだろうか、とよく考える。

単純に世界の危機においてそれどころではなくなったという読み方はできるが、単にそういうことではない意味も感じる。なぜなら性欲というテーマは、前半の物語においてとても強い存在感を主張していたからだ。それが消え去ったということには何か意味があると思う。意味があると言っても、それは演出上・作劇上の意図であるとは限らない。もっと別の、意図せざる意味、意図するつもりはなかった意味、あるいは秘めやかな意図のようなものかもしれない。

仮にこの漫画が「性欲から自由になる」という内容の物語なのであれば、それはそれで大変素晴らしいことだとも思うのだが、そこまで明示的には描かれていないと思う(それを読み取ることもまた許されているが)。


チェンソーマンはデンジの、生存そのものと密接に結びついた性欲の物語として始まり、やがてそれどころではなくなり、大量死を表象不可能性のうちに描く漫画になった、というのが私の印象だ。デンジの性欲は、さりげない形で物語の前面から消えた。

このこと、この「さりげなさ」を、私はとてもリアルだと感じる。現在において、チェンソーマンが非常にリアルな漫画だということの要素のひとつが、上記のようなことだと思っている。そして、それが何なのか、それをどのように考えるべきか、いまだによくわからないでいる。

(この7月から、ジャンプ+でチェンソーマンの第二部が始まった。ジャンプ+という媒体は少年ジャンプ本誌と違い、年齢制限(15歳以上)がある。第二部でデンジの性欲がどうなったかわかるのだろうか。単純に、藤本タツキが描きたかった内容が少年ジャンプ本誌では描けないものになっていたという可能性もある)

 

次の一冊

 

本文中にあるように私はチェンソーマンの後半を読んで清涼院流水を連想したのですが、万が一実際に読んでしまう方がいると申し訳ないので断っておくと特に似てはいないです!

 

全然関係ないのですが、私は藤本タツキはこの押井守原作・藤原カムイ作画犬狼伝説の絵柄に非常に影響を受けていると思うのですが、どうでしょう。