ついに出た、現代思想の入門、その決定版
千葉雅也の『勉強の哲学』が出てからしばらくの間、私はいわゆる「現代思想」の本を知人に勧める際、この本を挙げていた。「勉強」についてとても平易に、読みやすく書かれたこの本は、実のところ、「現代思想」のすぐれた実践であるからだ。(これは別に私の深読みではなく、実際に本書の「補論」では、本文で書かれた内容に対する現代思想的な裏付けが逐一挙げられている)
しかし、今後はそのような迂遠な方法をとる必要はなくなった。同じ著者による、同じくらいかあるいはそれ以上に読みやすい、その名も『現代思想入門』が刊行されたからだ。今後は「現代思想が気になる」という人に、爽やかかつ明快に、「はい、『現代思想入門』!」と渡せるようになったのだ。素晴らしいことである。
実際、多くの声が讃えるように(そして現時点ですでに発行部数が10万部を突破していることが示すように)、この本はとても読みやすい。それは単に文章が平易で内容が噛み砕かれているというだけでない。この本の書かれ方には、登場する多くの思想家、様々なテーマ、そして抽象的な議論を扱うこの本をスムーズに通読するための、多くの工夫がなされているのだ。
読みやすさの工夫
その工夫をいくつか挙げてみよう。まず著者は、この本の主人公を三人に限定する。フランスの現代思想、あるいはポスト構造主義を代表する、デリダ、ドゥルーズ、フーコーの三人だ。
実際にはこの本の中でその三人を扱う章は前半部であり、後半も含めると十人以上の思想家・哲学者が紹介されるのだが、それでも著者は最初のページで、「この本の目的はこの三人の思想を紹介することだ」と明言するのである。読者はここで、「あ、とりあえずその三人の話を読めばいいのね」という見通しが得られるわけだ。ゴールが見えていると、人は前に進みやすい。
そして、著者はこの三人の思想を、ひとつの統一されたテーマに沿って紹介する。そのテーマとは、「秩序と逸脱」である。このテーマはこの三人の思想を紹介する際にとどまらず、本書全体を貫くメインテーマともなっている。
言うまでもなく、デリダ、ドゥルーズ、フーコーといった、フランス現代思想を代表する人物たちの考えたことは非常に多岐にわたり、複雑だ。しかし著者は彼らの考えを紹介するにあたって、「秩序と逸脱」という大きな話の芯を作り、その芯に沿って説明をしていく。このことにより、読者はこの本の主人公である三人の思想を、それぞれに関連した、ひとつながりの物語のように読むことができるのだ。(そしてその手つきは、他の思想家を紹介する後半部にも引き継がれる)
このように、複雑な思想をわかりやすく解説する工夫を凝らした本書ではあるが、しかし著者の本意は、複雑な思想を単純なものとして伝えることではない。そのこともまた、本の冒頭で名言される。
現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。
──と言うと、「いや、複雑なことを単純化できるのが知性なんじゃないのか?」とツッコミがはいるかもしれません。ですが、それに対しては、「世の中には、単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを尊重する必要がある」という価値観あるいは倫理を、まず提示しておきたいと思います。(「はじめに 今なぜ現代思想か」より 太字も本文のまま)
この『現代思想入門』の本当のすごさは、単に平易であることではなく、「複雑なことを単純化しないで」、しかし平易に語る、という点にあるのだ。
秩序と逸脱のバランス、そして「脱構築」
そしてこれも強調したい点なのだが、この本のメインテーマは「秩序と逸脱」ではあるものの、これは必ずしも「逸脱すること」だけを勧めるものではない。本書は逸脱の価値や快楽をシンプルに語るものではない。秩序を作ることは当然必要とした上で、そこからの逸脱の道を常に用意しておくような、そのようなバランスについて現代思想から学ぼうとするのだ。
秩序をつくることはそれはそれで必要です。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要というダブルシステムで考えてもらいたいのです。
秩序からの逸脱というと、暴走する人を褒め称えているみたいに聞こえるかもしれませんが、ちょっとイメージを変えていただきたいのです。それは自分の秩序に従わない他者を迎え入れることを意味します。(「はじめに 今なぜ現代思想か」より)
そしてこのような、二つの相反する概念(「二項対立」)があった際にそれを単純に対立させ優劣をつけるのではなく、二項が互いに依存しあい、優劣をつけられない「宙づり」状態を敢えて見出すことを、ジャック・デリダは「脱構築」と呼んだ。この脱構築もまた、本書の大きなテーマである。
著者はこの脱構築の例を、多くのキーワードで挙げていく。
- 白黒はっきりしない状態の「グレーゾーン」をあえて保っておく。
- 物事は絶えず変化していくという前提の上で、変化していないように(同一的に)見える状態が一時的に現れることを指す「仮固定」。
- 人は仕方なく決断をするものの、その際「完全に正しい決断は原理的に不可能だということを念頭におく」という倫理観を示す「未練込みでの決断」。
- あらゆる方向に広がり繋がっていく関係性や連想を、しかしある時点でなんとなく、根拠なく断ち切る「非意味的切断」。
- 秩序の維持のためにあらゆる逸脱を取り締まるのではなく、時に迷惑でもあるような「多様性を泳がせておく」こと……などなど
これらの概念、キーワードは、前述のデリダ、ドゥルーズ、フーコーといった思想家たちの考えの中から取り出されたものだが、しかし同時に著者の、そして読者である我々の人生そのものに深くかかわってくる考えであり、価値であり、倫理である。
「秩序と逸脱」の関係とバランス、二項対立に優劣をつけるのではなく「脱構築」することを、かつてないほどに平易に、しかし単純化することなく伝えようとした『現代思想入門』だが、現在におけるその試みには切実な動機と、それが必要だというリアリティがある。今、これを書かなければならなかったのだ。
これ以上ないほどに親切に、丁寧に書かれた現代思想の入門であるこの本で、現代思想の面白さをぜひ味わってほしいと思うし、そして何より、この本に込められた切実さとそのリアリティを味わってほしいと思う。
次の一冊
冒頭でも紹介した、千葉雅也の現代思想入門・実践編と言うべき本。「勉強」という行為によって人は不可避的に変化し、「キモくなる」ということ、そしてキモくなった後に、「来たるべきバカ」として戻ってくることを説く、原理的「勉強」論。
『現代思想入門』が面白かったらぜひ手に取ってもらいたいのがこちら。様々な媒体に書かれた批評的文章を集めた単行本で、現代思想や哲学、文学や芸術、そしてプロレス、ギャル男にクリスチャン・ラッセンまで、多彩なテーマに関する硬軟とりまぜた文章が集まっている。自分の興味に合ったものが見つかるだろう。
そしてこの本が千葉雅也の出発点であり、ドゥルーズを論じた博士論文を書籍化したものである。簡単に読み通せる本ではないが、『現代思想入門』を読んだ後であれば、同様のテーマと問題意識が全編を貫いているのがわかるだろう。全体の論旨をまとめた「序 切断論」だけでも読んでほしい。
こちらは過去の記事で紹介した、千葉雅也を含む四名による共著。この本もまた、「仮固定」や「未練込みの決断」によって執筆の悩みを切り抜ける、という試みについて語っており、執筆・制作における『現代思想入門』・実践編と言えるだろう。
千葉雅也には他にも小説やエッセイなど多彩な著作があり、どれも面白いので改めて紹介したい。
※この記事で紹介した、檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』も、『現代思想入門』でお勧めのドゥルーズ入門書として挙げられていました。
※『現代思想入門』の終盤で紹介されている、カンタン・メイヤスーについてはこちら。千葉雅也はこの本の翻訳者のひとりでもあります。