もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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フィッツジェラルド『若者はみな悲しい』 消費社会の魅惑と呪い

グレート・ギャツビー』と同時期の短編集

 

今回は光文社古典新訳文庫から出ている、フランシス・スコット・フィッツジェラルドの短編集『若者はみな悲しい』を紹介しよう。翻訳は、以前の記事で紹介した同文庫のポーも翻訳している小川高義

 

フィッツジェラルドは特に1920年代に活躍したアメリカの小説家で、「狂乱の20年代」「ローリング・トウェンティーズ」「ジャズ・エイジなどと呼ばれる、ヨーロッパとアメリカが好景気に湧いた時代を象徴する作家と言われる。代表作はもちろん、かの有名なグレート・ギャツビー偉大なるギャツビー)』だ。

 

今回紹介する『若者はみな悲しい』は『グレート・ギャツビー』の翌年、1926年に刊行された自選短編集の全訳である。ゆえにこの本には『ギャツビー』にわりと近い雰囲気の短編が収録されており、『ギャツビー』を好きな人が次に読むのにもいいし、『ギャツビー』を読んだことのない人が試しに読んでみるのにも最適である。

特に冒頭に収録されている二作、「お坊ちゃん(The Rich Boy)」「冬の夢(Winter Dreams)」は、かなり『ギャツビー』と共通する内容を持っており、言ってみれば『ギャツビー』のプロトタイプ、あるいは別バージョンという感じがある。

どちらの短編も『ギャツビー』と同じように、金持ちの子弟の、華麗できらびやかで、そして悲しい恋と人生の物語である。「お坊ちゃん」については、金持ちの主人公について、その友人の視点で語られる点まで同じだ。(「冬の夢」は主人公を中心とした三人称視点) これらどの作品にも、空前の好景気を迎えた時代のありあまる富、それを得た人びとの優雅な暮らし、力と富と誇りを持つ男たち、女性が社会に進出し始めた時代の、優雅で強気な女たち、そして──これがとても重要な部分だが──それら全てのものを取り巻く、虚栄と虚無が描かれている。

 

身なりが整うようになったデクスターには、アメリカでも有数の仕立屋がわかっていた。今夜もそのような名店の品を着ている。出身大学の伝統としては他校にない格調が、デクスターの身にもついていた。伝統を重んじ、型に合わせることが大事なのだと心得ている。気軽な服装で心安い態度をとるのは、よほどに自信がなければできないことだ。そんなのは次の世代になってから。デクスターの母親は旧姓をクリムズリックといって、もとはボヘミアの農民の娘だった。しゃべる英語は最後までおかしかった。その息子では、まだまだ形式にこだわる必要がある。
七時をまわってジュディ・ジョーンズが降りてきた。青いシルクのアフタヌーンドレスだ。もっと装いをこらしてくれてもよいのにという心地がした。まず挨拶をかわしてから、その思いは強まった。配膳室のドアを押したジュディが、「じゃ、マーサ、そろそろお願い」と声をかけたのだ。なんとなく執事でも現れて食事の開始を告げ、カクテルでも出るのではないかと思っていた。とはいえ、二人でゆったりと長椅子に坐って見つめ合うにおよんで、そんなことはどうでもよくなった。
「今夜、うちの親は留守なのよ」と、ジュディは考えた末のように言う。
(「冬の夢」より)

 

大衆消費社会の2つの面

 

『ギャツビー』を含めたフィッツジェラルドの小説のいいところは、単に裕福な生活の素晴らしさを書くだけではなく、かといって裕福であることを批判するだけでもないことだ。彼の小説に描かれる世界は、どんなにキラキラと輝いて見えても裏側に深い虚無と脆さを抱えているし、そしてまた、それがどんなに虚無的で脆いものであっても、圧倒的にきらびやかに輝いているのだ。読者はその輝きに魅了され、同時にその虚無を感じ取る。例えばこのような両義性が、フィッツジェラルドの小説を、単純ではない重層的なものにしているのだと思う。

おそらく、フィッツジェラルドの生きた時代こそが、いま我々が生きているような大衆消費社会の始まりの時代であり、彼はその輝きと呪いの両方を正面から受け止めた作家なのだ。言ってみれば彼の小説は大衆消費社会の神話なのであり、彼はその新しい世界の本質的なものを鮮やかに抽出して描いたからこそ、現在の読者にとってもリアルに感じられるのだと思う。

おそらく現在の日本の読者の大半は、フィッツジェラルドの登場人物たちの裕福な生き様に共感はできないだろう。しかしフィッツジェラルドがその作品に閉じ込めた、1920年代に彼が経験したことは、決して私たちと無縁ではない。加速する経済に突き動かされる社会、次々に現れる魅惑的な新商品と終わりのない消費、より効率的に、より大きな利益を求める仕事、そして、そういったものと決して切り離すことのできない、輝かしくも脆い恋愛──

このような事柄、大衆消費社会の到来によってもたらされた世界は、現在の私たちにとっても逃れることができないものだ。現在の私たちが感じる魅惑と、現在の私たちを取り巻く悲劇、その両方の原型を、フィッツジェラルドは100年前に書いていたのである。

 

小川高義による翻訳は、100年前の小説を、かなり現代的な言葉遣いで日本語に訳している。クラシックな、いわゆる「古典文学!」という雰囲気よりも、書かれた時代における「新しさ」を現在の読者も感じられるような訳だと思う。またフィッツジェラルドと言えば村上春樹が有名だが、村上訳と比べるとこの小川訳はよりザックリと突き放した感じというか、村上訳よりもクールでドライな感じがする。(完全に印象の話ですいません)

小川高義が翻訳したエドガー・アラン・ポーについてはこちらの記事をどうぞ。

pikabia.hatenablog.com

 

次の一冊

 

もしあなたが『ギャツビー』を未読で、この短編集を読んで面白いと感じたのであれば、やっぱり『ギャツビー』を読んでほしいですね。「アメリカ文学の最高傑作」とまで言われることもある超定番ですが、これも同じく小川訳で出ています。(タイトルは小さい「ッ」が入って『ギャッツビー』)

(追記:グレート・ギャツビーの翻訳比較記事を書きました!)

pikabia.hatenablog.com

 

フィッツジェラルドと共通するファンが多いアメリカ文学の作家と言えばJ.D.サリンジャーかと思います。サリンジャーに関しては、初めて読んだのがクラシックな野崎孝訳なのでやっぱりこちらを。この短編集にもいくつか収録されている、謎めいた連作シリーズグラース・サーガが好きです。

 

そのうち読みたい

 

消費社会と言えばやっぱりこれですよね! 積んでるので読みます。


 

 

 

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ポストコロニアル/熱帯クィアSF

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