もう本でも読むしかない

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『グレート・ギャツビー』冒頭の翻訳3種類を比べてみた 野崎孝・小川高義・村上春樹訳

『ギャツビー』の書き出しを読み比べてみる

 

フランシス・スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビーと言えば、アメリカ文学を代表するとまで言われる小説だ。1925年に刊行され、アメリカの「狂乱の20年代を象徴する作品とも言われる。語り手であるニック・キャラウェイから見た、ゴージャスで繊細で哀しい成金青年、ジェイ・ギャツビーの物語である。

そんなギャツビーだが、いざ読んでみようと思った時に、どの訳で読むか迷ってしまうのではないだろうか。

というわけで、今回は現在手に入りやすい三つの翻訳である、野崎孝(2010年 新潮文庫改版 初出は1974年)・小川高義(2009年 光文社古典新訳文庫)・村上春樹(2006年 中央公論新社 村上春樹翻訳ライブラリー)を比べてみようと思う。

 

先に私の結論を言うと、三者の特徴は以下の通り。

  • 野崎訳:古典文学感
  • 小川訳:現代小説感
  • 村上訳:ハルキ感

 

では順に、かの有名な書き出し部分を見ていこう。

まずは参考までに原文を載せておく。
 

In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I’ve been turning over in my mind ever since.
“Whenever you feel like criticizing anyone,” he told me, “just remember that all the people in this world haven’t had the advantages that you’ve had.”
He didn’t say any more, but we’ve always been unusually communicative in a reserved way, and I understood that he meant a great deal more than that. In consequence, I’m inclined to reserve all judgements, a habit that has opened up many curious natures to me and also made me the victim of not a few veteran bores. The abnormal mind is quick to detect and attach itself to this quality when it appears in a normal person, and so it came about that in college I was unjustly accused of being a politician, because I was privy to the secret griefs of wild, unknown men.

(The Great Gatsby, F. Scott Fitzgerald)

 

野崎孝

ぼくがまだ年若く、いまよりもっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれたけれど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。
「ひとを批判したいような気持が起きた場合にはだな」と、父は言うのである「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみるのだ」

父はこれ以上多くを語らなかった。しかし、父とぼくとは、多くを語らずして人なみ以上に意を通じ合うのが常だったから、この父のことばにもいろいろ言外の意味がこめられていることがぼくにはわかっていた。このためぼくは、物事を断定的に割り切ってしまわぬ傾向を持つようになったけれど、この習慣のおかげで、いろいろと珍しい性格にお目にかかりもし、同時にまた、厄介至極なくだらぬ連中のお相手をさせられる破目にもたちいった。異常な精神の持ち主というものは、ぼくのような性格が尋常な人間に現れると、すぐそれと見抜いて、これに対し強い愛着を示すものである。それで、大学のころ、得体のしれぬ無法者も、そのひそかな嘆きをぼくには打ち明けたものなのだが、それを理由にぼくは、なかなかの策士だと不当な非難を浴びることにもなった。

(『グレート・ギャツビー野崎孝訳 新潮文庫

 

約50年前の訳なわけだが、たいへん格調高い感じで、いかにも「海外の古典文学を読むぞ!」という気分になれる。「年若く」「時分に」「爾来」「厄介至極」みたいな語彙もクラシックでよい。次の小川訳と比べるとよくわかるが、かなり原文の記述に近い形で訳されており、そのことが「翻訳文体」のようなものを発生させているのだと思う。(もともと日本語の小説の文体そのものが、二葉亭四迷らによって外国文学の翻訳から生まれたという歴史もありますね)

 

小川高義

まだ大人になりきれていなかった私が父に言われて、ずっと心の中で思い返していることがある。

「人のことをあれこれ言いたくなったら、ちょっと考えてみるがいい。この世の中、みんながみんな恵まれてるわけじゃなかろう」

父はそれしか言わなかったが、もともと黙っていても通じるような親子なので、父が口数以上にものを言ったことはわかっていた。その結果が尾を引いて、いまでも私は何かにつけ判断を差し控えるところがある。そうなると、おかしな人間がやって来て自身をさらけ出そうとする、ありきたりの内緒話に延々とつきあわされたことも一度や二度ではない。普通の人間が態度を保留していると、普通でない人間がめざとく寄りついてくるということだ。おかげで大学時代などには、とんでもない連中の内面の悲しみまで知ってしまい、なかなか食えない策士だと評されもした。

(『グレート・ギャッツビー』小川高義訳 光文社古典新訳文庫

 

野崎訳と比べて、かなり現代的な言葉遣いになっているのがわかるだろう。また文章がだいぶ短くなっている。原文と比べるとよくわかるが、言い方を変えたり、複数の文章を繋げたりしてなるべくスムーズに読めるようにしてある。特に後半の「普通の人間が態度を保留していると~」の一文については、因果関係がわかりやすくなるようかなりアレンジされている。

もともと光文社古典新訳文庫というのは古典文学を読みやすい新訳で刊行するというレーベルなので、このような特徴はレーベル全体の特徴でもありそう。

 

村上春樹

僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。

「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」

父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているのだろうという察しはついた。おかげで僕は、何ごとによらずものごとをすぐに決めつけないという傾向を身につけてしまった。そのような習性は僕のまわりに、一風変わった性格の人々を数多く招き寄せることになったし、また往々にして、僕を退屈きわまりない人々のかっこうの餌食にもした。このような資質があたりまえの人間に見受けられると、あたりまえとは言いがたい魂の持ち主はすかさず嗅ぎつけて寄ってくるのである。

そんなこんなで大学時代には、食えないやつだといういわれのない非難を浴びることになった。それというのも僕は、取り乱した、そしてろくに面識のない人々から、切実な内緒話を再三にわたって打ち明けられたからだ。

(『グレート・ギャツビー村上春樹訳 中央公論新社 村上春樹翻訳ライブラリー)

 

うーん、春樹だ。なんというか……そう……春樹ですよね。この、「~た。」「~だった。」「~した。」と短い文章を続けていくところや、「こう考えるようにするんだよ」「おかげで僕は」「そんなこんなで」みたいな言葉遣いになんとも言えない春樹っぽさが現れているような気がする。

こうして続けて読むと、原文にかなり忠実でありながら、口語的な表現を織り交ぜつつ、文章は短く切って読みやすくするのが春樹訳の特徴のようだ。

 

 

では最後に、同じフレーズをどう訳しているかをわかりやすく並べてみよう。

    younger and more vulnerable
  • 野崎:年若く、いまよりもっと傷つきやすい心を持っていた
  • 小川:大人になりきれていなかった
  • 村上:年若く、心に傷を負いやすかった

    unusually communicative in a reserved way
  • 野崎:多くを語らずして人なみ以上に意を通じ合う
  • 小川:黙っていても通じる
  • 村上:多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえる

    wild, unknown men
  • 野崎:得体のしれぬ無法者
  • 小川:とんでもない連中
  • 村上:取り乱した、そしてろくに面識のない人々

 

文語調の野崎、短くまとめる小川、原文に忠実だが口語的な村上、という特徴がよくわかるだろう。

このように三者三様に違った翻訳があるギャツビーなので、ぜひ気に入ったバージョンで読んでみてほしい。 

 

もう一冊ありました

記事を書いてから気づいたのだが、去年の6月に角川文庫からこの大貫三郎訳が出ていた。おそらく1957年に刊行されていたものの新装復刊で、今回紹介した中で最も古い訳のようだ。タマラ・ド・レンピツカの表紙がかっこいい。

 

 

こちらはバズ・ラーマンによる2013年の映画版。ディカプリオ演じるギャツビーが、さんざん観客を焦らせた後に、夜空に打ち上がる花火とガーシュインをバックに初登場するシーンは必見。

 

 

フィッツジェラルドの小説の内容については、短編集を紹介したこちらの記事で少し書いています。

pikabia.hatenablog.com

追記:フィッツジェラルドの短編集の収録作をまとめました! こちらの記事もぜひご覧ください。

pikabia.hatenablog.com

 

 

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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

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こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

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