もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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太宰治『斜陽』 没落貴族として、変わりゆく世界を生きる

社会の後戻りできない変化を描いた世界的ベストセラー

 

昨年あたりから、英語圏太宰治人間失格(英題『No Longer Human』)がベストセラーになっているというニュースをよく見聞きするわけだが、これと並んでよく売れているというのが『斜陽』(英題『The Setting Sun』)ということで、読んだことがないので読んでみた。

このブログでも、たまには日本の王道の古典文学でも取り上げてみようかな……というわけである。

(こちらはニューヨークタイムズの、「太宰治TikTokでも大人気」という今月の記事)

Osamu Dazai, With Help From TikTok, Keeps Finding New Fans - The New York Times

 

 

『斜陽』は戦後まもなくの1947年に刊行された小説で、没落していく元華族の一家を描いた物語だ。当時この小説はベストセラーになり、「斜陽族」という言葉が生まれたというのは知っていたものの、斜陽族というからにはこの小説のファンの集団のことなのかなと思っていたらそうではなく、この小説に書かれたような没落貴族たち当人のことを指すらしい。(意外と気の毒な言葉だったが、ひょっとしてかつての特権階級に対してざまあみろ的なニュアンスもあったのだろうか?)

小説は主人公であるかず子の視点で語られる。かず子は父を失い、家を売って、と二人で伊豆の山荘に落ちのびる。そこに、戦争中に行方不明となっていた。阿片中毒の弟・直治が帰って来る。しかし直治は家のなけなしの金を持ち出し、私淑する小説家・上原のもとに入り浸る。小説はこの4人の登場人物をめぐって展開する。

 

最後の貴族

 

冒頭にある印象的なエピソードが、かず子の母のスープの飲み方に関する部分だ。背筋をまっすぐに伸ばし、スプーンをまっすぐに口にあてがう独特の動作について、かず子はとても真似ができないと感じる。それは礼儀作法に則った振る舞いではないが、しかしそこには独特の優雅さがある。

弟の直治もまた、一族の中で母だけが「ほんものの貴族」であると言っていた。かず子と直治の母は、日本で最後に残った貴族の一人であり、そしてそれは今後、もう継承されることがないのだ。

この小説は、このような家族の、時代の変わり目における姿を描いたものだ。正真正銘の貴族であった彼らは、敗戦によってその地位と財産を失い、しかしまだ仕事をするわけでもなく、残った持物を売って暮らしている。やがて生活が破綻する予感が、じわじわとかず子に迫ってくる。しかし登場人物たちは、時代の変化を疎み、そして失われた過去に執着するというふうではない。彼らはどこか透徹した態度で自分たちの没落を受け入れ、しかしかといって新時代の生き方を見つけることもできず、時代の狭間を漂っている。かず子の母は、高貴な落ち着きを保ったまま、山荘で静かに暮らしている。

その場所における葛藤を最も激しく表現するのは、阿片中毒者の直治だ。彼は貴族である自分たちの文化を憎み、しかし、かといって民衆の中に入っていくこともできず、自暴自棄になってデカダンな生活に溺れている。

 

恋と革命

 

そして語り手のかず子は、ささやかな畑仕事をし、母を支えて暮らしていこうとするが、いくつのきっかけによって、その秘められていた情熱をあらわにしていく。

抑制されていた語り口の中から、徐々に彼女の秘密が顔を見せ始め、そしてついに彼女は「恋と革命」のために生きると高らかに宣言する。それは彼女にとって、世間の道徳への挑戦でもある。しかし、そこで挑戦される世間とは何だろうか。

敗戦によりかつての社会は失われ、しかしまだ新たな価値は生まれていない。もはや貴族ではないが、しかし底まで落ちたわけでもなく、中途半端な場所で彼女は「恋と革命」を目指す。マルクス主義の書物を読み、聖書の言葉について考え、そして確信と熱情に突き動かされた恋文を書く。

 

あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更級日記から一歩も進んでいなかった。いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。

太宰治『斜陽』)

 

恋と革命は、かつて大人たちによって否定されてきたものであり、敗戦によってその大人たちの権威が潰えたために、かず子は恋と革命こそが素晴らしいものなのではないかと考える。かず子が挑戦している世間とは、戦前の日本のことだろうか。それだけではない気がする。かず子らのいる場所はもっと曖昧で、もっと複雑な場所だろう。彼らはそこで、何に抵抗すべきかもわからぬままに抵抗の意志だけをくずぶるように燃やしているはずだ。

なにしろ太宰治なので、この『斜陽』についても無数の優れた解釈や批評があることだろう。ここに書かれている物語がどのように読まれて来たのかは、ぜひ先人の言葉を調べてもらいたい。ひとまずここでは、この小説の登場人物たちが置かれているような、変わっていく時代の狭間、価値の失われた空白、何に従い何に抗うべきかわからないような宙づりの状態は、我々にとっても(そしてたぶん、世界中の読者にとっても)よく知ったものだと思える、とだけ言っておこう。

 

犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。
革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。すくなくとも、私たちの身のまわりに於いては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変らず、私たちの行く手をさえぎっています。海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、革命どころか、みじろぎもせず、狸寝入で寝そべっているんですもの。

太宰治『斜陽』)

 

(ちなみにこの小説の語り手であるかず子にはモデルがいるらしく、そしてこの小説はある程度そのモデルが書いた手紙を下敷きにしているらしく、その辺を調べると案の定エグい話が出てきます)

 

次の一冊
 

太宰治が女性の一人称で書いた小説と言えば、この短編「女生徒」が有名だと思う。強烈なラストの一文は忘れがたい。それにしてもこの英語版カバーよ。


 

 

 

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