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諏訪部浩一『薄れゆく境界線 現代アメリカ小説探訪』 驚くべき多様性を伝える全26ジャンルの文学地図

現代アメリカ小説の全体像をジャンル別に紹介

 

諏訪部浩一『薄れゆく境界線 現代アメリカ小説探訪』は、講談社の月刊誌『群像』に掲載された、現代のアメリカ小説を広範に紹介する連載を一冊にまとめたものだ。著者はもともとはモダニズム期のアメリカ小説を専門としており、フォークナーやヴォネガットノワール小説などに関する研究書を刊行するほか、フォークナーの翻訳も手掛けている。

この本では、各章ごとにひとつの小説のジャンルが取り上げられ、それに沿って作家と作品が紹介され、読み解かれていく。多くのジャンルに分けて紹介することで、アメリカ小説が持つ多様性が現れてくるというわけだ。

さて、いま簡単に「多様性」と書いたが、一体どの程度「多様」なのか、想像がつくだろうか。

この本が取り扱うアメリカ小説の「多様性」がどれほどのものかを窺い知るには、とりあえずはこの本の目次を見てみるのがいいと思う。一体どのくらい多様なのか、少し想像してみた上で、以下の目次に目を通してほしい。

 

はじめに
第1章 「知らない世界」はどこに──風俗小説
第2章 「場所の感覚」──リージョナリズム/南部小説
第3章 「貧乏白人」という表象──「ラフ・サウス」の文学
第4章 「普通」の地域に住む「普通」の人々──郊外小説
第5章 階級問題の再導入──ノワール小説
第6章 駆逐される「闇」──ゴシック小説
第7章 一回かぎりのプロジェクト──ロード・ノヴェル
第8章 したたかなサバイバル──ドロップアウト小説
第9章 アメリカの「お家芸」──戦争小説
第10章 ポストモダン的認識の向こうに──メタフィクション
第11章 なぜアメリカはこうなってしまったのか──歴史小説(1)
第12章 混沌とした「現実」への不安──歴史小説(2)
第13章 フェミニズムとの距離──女性文学
第14章 脱特権化のなかで──ゲイ/レズビアン小説
第15章 受苦への批評的まなざし──ユダヤ系文学
第16章 「抗議小説」をこえて──黒人文学
第17章 「個」と「全体」──先住民文学
第18章 差異への感受性──アジア系文学(1)
第19章 強制収容の体験/記憶──アジア系文学(2)
第20章 祖国、そしてアメリカ──アジア系文学(3)
第21章 葛藤なき成熟?──アジア系文学(4)
第22章 境界を意識させる「越境」──チカーノ文学
第23章 「裏庭」の視線──カリブ系文学
第24章 外部などどこにもありはしない──異境小説
第25章 「自然」と「共同体」──エコフィクション
第26章 フォークナーからモリスンへ──反近代小説

 

以上、なんと全部で26のジャンルに分かれている。一口に「アメリカ小説」と言っても、その全体像を紹介しようと思ったらこれだけの分類が必要なのだ。

後半の「アジア系文学」の章などは全4章に分かれており、それぞれ出自の違ったアジア系住民(中国系・日系・東南アジア系・南アジア系)の文学が扱われる。

目次を見るだけで、自分が持っていた「アメリカ」のイメージがいかに狭いものだったかを思い知らされる。

 

人種系文学と、小説におけるアイデンティティ

 

この本が取り扱う主な時代は第二次世界大戦後なのだが、その時代は冷戦期とそれ以後に分けられる。様々なジャンルを扱ったそれぞれの章においても、冷戦期に活躍した作家と冷戦後に活躍した作家の両方が取り上げられ、それぞれのジャンルにおける時代の推移が描かれている。

またそのような時代の推移は、全体の構成にも見られる。この本の前半では比較的古くからある様々なジャンルを、主に白人作家の作品を取り上げながら解説するのだが、後半で主に取り上げられるのは「人種系文学」であり、それは特に冷戦後のアメリカで興隆したものなのだ。

この人種系文学という概念について、著者はこう述べる。

 

「ジャンル」と「人種」を考えることで、現代アメリカ文学シーンを縦横に、あるいは立体的にとらえることができれば理想的だが、この序文ではむしろ、そうした構成がもたらすかもしれない懸念について述べておく──このような配列には「ねじれ」があると感じられるかもしれない、ということである。「人種系文学」は(誰にでも選択可能な)「ジャンル」ではない以上、例えば「風俗小説」と「アジア系文学」を同レヴェルのカテゴリーとして並べるのはおかしい(アジア系作家が風俗小説を書くこともあるのだから)と思われるのではないかということだ。だが、繰り返していえば、冷戦後のアメリカ小説を特徴づける最も際立った現象は、人種系文学の隆盛なのであり、少なくとも現時点においては、人種性より他の「カテゴリー」を優先させることは難しいだろう。別言すれば、戦後文学を俯瞰してみると、アイデンティティの問題が、文学ジャンルより優先される(ようになっていった)ように思えてくるのだ。

このような総括には、どこか倒錯があるだろうか──ともすれば、「誰が」書いたかが、「何を」書いたかよりも重視されるように見えかねないからである。だが、近代のジャンルである「小説」の歴史に鑑みると、アイデンティティ重視という姿勢自体は、まったく普通のことであるともいい得る。

(略)

19世紀の末まで──アメリカが強国として国際社会ではっきり認知されるまで──アメリカ人(=白人)が小説を書くとき、「アメリカ人」というアイデンティティは、ずっと重要なものであり続けていたのである。そうした歴史との類推で考えてみれば、公民権運動を経て、さまざまな「マイノリティ」の作家がアメリカの内部で声をあげられるようになった時代に、アイデンティティ重視の文学観が優勢になっていったのは自然なことと思えるのではないだろうか。

(「はじめに」より)

 

著者によれば、「小説」というものは歴史上常に、「誰が」書いたかということと無縁ではなく、そして現代のアメリカ小説においてはその「誰が」の内実が非常に多様だということが、先に挙げた目次が示すものなのだ。

 

もともと現代小説の専門家というわけではない著者は、この連載のために600冊ほどの現代小説を読んだという。それらの小説のかなりの部分は日本語に翻訳されていないものだ。多くの読者は、大量に紹介される、知らない作家と知らない小説の奔流を浴びることになるだろう。

あまりの物量と、それらが持つであろう密度に目まいがしてくるが、それでも各章を順に読んでいくことによって、アメリカを形作ってきた歴史と、そして現代のアメリカにある諸問題、そして様々なマイノリティの姿が浮かび上がってくる。

 

「境界線」とは何か

 

なおタイトルになっている「薄れゆく境界線」とは、著者にとっての、現代という時代そのもののイメージである。

ポストモダン」と呼ばれる第二次世界大戦後の世界を、著者は「「境界線」が薄れては引かれることが繰り返されてきた時代」と表現する。グローバル化する世界は様々な境界線を薄れさせるが、しかし自己を主張するためには境界線が必要だ。作家たちにとっては、小説を書くこと自体もまた境界線を引くことである。そして著者によれば「境界線」は、「自己の主張と他者の抑圧に、ともに関わる」ものでもある

この本で書かれているのは、現代のアメリカにおいてどのように境界線が薄れ、また様々な主体がどのような境界線と戦い、どのような境界線を自ら引いてきたのかという物語でもあるのだ。

 

次の一冊

pikabia.hatenablog.com

過去に取り上げたこちらはだいぶジャンルの違う本ではあるが、現代アメリカの文化を多く扱っている本ということで合わせて紹介しておこう。

 

そのうち読みたい

 

同著者の本いろいろ。どれも面白そうです。

 

 

2022年末に刊行されて気になっていた、翻訳家の鴻巣友季子による文学論集。これも読みたいです。