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マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』 資本主義の外部はどこにあるのか?

「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」

 

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』は、2017年に自ら命を絶った批評家・ブロガーである著者の、2009年に刊行されたエッセイ集である。セバスチャン・ブロイと河南瑠莉による邦訳は著者の生前から進められていたものの、刊行されたのは死後の2018年だった。

この日本でも広く読まれた資本主義社会についての批評的エッセイ集は、非常に読みやすく軽快に書かれていながら、その内容は非常にシビアで、場合によっては絶望的な気分にもなるものだ。しかしここでは、私達が普段から漠然と感じていた生きる上での不安や理不尽さ、苦難や出口のない感覚が、驚くほど明瞭な言葉で語られており、急激に目を開かされる感覚がある。

 

著者はこの本を、題名でもありテーマでもある「資本主義リアリズム」という言葉の説明から始める。

 

フレデリック・ジェイムソンとスラヴォイ・ジジェクの言葉とされる)「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。このスローガンは、私の考える「資本主義リアリズム」の意味を的確に捉えるものだ。つまり、資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態のことだ。
(第一章より)

 

我々を取り巻く資本主義というシステムが、唯一絶対の制度であり、そこから外に出られないと感じること。資本主義を批判したくとも、その有効な手がかりが見い出せないと思えること。我々のあらゆる欲求が広告によって回収され、あらゆる行動が資本の管理下にあるということから逃れる方法がわからないこと。

そのような出口のない感覚、「この道しかない」と思わされる感覚を、フィッシャーは「資本主義リアリズム」と名付けたのだ。

 

著者によれば現在の我々は、数十年前とも違った無力感のうちにある。80年代までは社会主義階級闘争によってかすかに存在したかに見えた政治的なオルタナティヴはすでになく、また文化においても、「従来的な反逆や抵抗の身振りをひっきりなしに、しかも、まるで初めてのように繰り返し続ける「オルタナティヴ文化」「インディペンデント文化」」(第一章より)がむしろ支配的なスタイルになっている。(著者はカート・コバーンの悲劇をその困難の象徴と見なす)

 

また著者によれば我々が「反・資本主義」の立場を取ること自体は簡単だ。著者がジジェクを引きながら言うことには、我々はむしろ反・資本主義の身振りを装うことによって、罪悪感なしに消費を続けることができるのだ。

 

資本主義におけるイデオロギーの役割とは、プロパガンダのように何かに対して明示的な主張を行うことではなく、むしろ資本があらゆる主観的信念に依存しないで機能できるという実態を隠蔽することにある。プロパガンダの関与しないファシズムスターリニズムは想像できないが、資本主義は代弁者がいなくてもまったく問題なく、ある意味、より円滑に機能し続けられるのだ。
(第二章より)

 

政治的主体を取り戻すために

 

フィッシャーはこのような資本主義の姿、我々の世界を支配しながら、常に我々の先手を打ち、我々の目を巧妙に逃れ続ける資本主義の姿を、様々な映画や音楽や文学、そしてもちろん現実の出来事の中から拾い出し、並べ立てていく。

 

例えば労働について。ポスト・フォーディズム社会における労働では、「情報の流れ」自体が製造ラインとなるため、労働と生活は不可分となる。また労働者は上から管理されるのではなく、労働者自身が自らを管理することを求められる。そして労働者は長期的に技術を身につけることではなく、目まぐるしく変化する状況に柔軟に対応し、絶えず自らを再教育することが求められる。

 

あるいは健康について。鬱病に代表されるメンタルヘルスの認識は化学・生物学化されることによって脱社会化・脱政治化され、社会と政治ではなく個人の問題とされ、個人を孤立させるという資本主義の傾向を強化させる。

 

そして政治について。本来対立するかに思われた新自由主義新保守主義は、「過保護国家」とそれへの依存者に対する嫌悪において結びつき、福祉国家への対抗という形で協力しあう。(「新自由主義は実際のところ、国家そのものに反対しているのではなく、むしろ、公的資金の特定の運用に反対しているのだ」第七章より)

 

これはまさに、逃れることが不可能に思えるシステムだ。このような状況に対し、著者が提示できるビジョンはそう力強いものではない。ただ著者はこの状況を認識し、そこから新たな政治的な主体が立ち上がることをわずかに希望しているだけだ。

 

真の政治的主体性を取り戻すとはまず、欲望のレベルにおいて資本という容赦なき肉挽きマシンによって翻弄されている私たちの関与のあり方を認めることから始まる。悪や無知を幻影的な「他者」へと振り払うことで否認されるのは、私たち自身の、地球規模にわたる圧制のネットワークへの加担である。心にとめておかなければならないのは、資本主義が超抽象的かつ非人称的な構造であること、かつ、私たちの協力を無くしては、資本主義も皆無になること、この両方である。
(第二章より)

 

真の新しい左派の目標は政権を握ることではなく、政府を一般意志に従属させることだということを理解しなければならない。当然ながらこれは、「一般意志」という概念そのものものを再興させ、また、個人とその利害の集合体には還元できない「公共圏」といった概念を復活、および改良することを伴う。
(第九章より)

 

決して楽しい本ではないし、読みながら「一体どうしろというんだ……」と途方に暮れてしまうが、私たちの現在位置を確かめるためにぜひ読んでみてほしいと思う。

(記事の末尾に、他に印象的な部分の引用をまとめてあります。お時間ある方はそちらもご覧ください)

 

次の一冊 

 

2022年に邦訳が刊行された、マーク・フィッシャーによる最後の講義録。『資本主義リアリズム』の続編と言っていい内容だ。

この未完に終わった講義のシリーズで、著者は様々な課題書を学生とともに読みながら、資本主義に対抗するための新たな階級の形成は可能なのかということを模索する。これは全く理路整然とした思索ではなく、まさに行きつ戻りつの暗中模索である。著者の人生の最後まで続いた試行錯誤の記録だ。

 

pikabia.hatenablog.com

資本主義における「消費」の問題を大きなテーマとして論じているのが、当ブログでも紹介した國分功一郎によるこの哲学書のベストセラーだ。
この本では実体のない差異を求め続ける「消費」と、ある特定のものを味わい尽くす「浪費」の違いについて論じられている。

 

 

ところでこの『資本主義リアリズム』の印象的な表紙はスタンリー・ドンウッドによるもの。レディオヘッドのアートワークで知られるアーティストです。

 

 

その他『資本主義リアリズム』本文より引用

 

この記事を書くために『資本主義リアリズム』を再読していたところ、引用したい部分のメモが大量になってしまったので、せっかくなので貼っておきます。カッコ内はページ数。

 

いわゆる対テロ戦争は、私たちがこのような発展を受け入れるための準備段階になった。つまり、危機の常態化によって、緊急対応として導入されたはずの政策を撤廃することなど想像もできないような状況が発生するのである(「いつになれば戦争は終わるのだろう?」)。(9)

 

資本主義とは、さまざまな信仰が儀礼的象徴的な次元において崩壊した後に残るものであり、そこにはもう、その廃墟と残骸の間を彷徨う消費者=鑑賞者しかいない。
しかし、信仰から美学へ、そして参与から鑑賞へのこの転換は、資本主義リアリズムの美徳のひとつとされている。バディウの言葉で述べるのなら、「過去のイデオロギー』によってひき起される『宿命的な抽象観念』から私たちを解放したと主張する資本主義リアリズムは、「信じる」ということ自体の危険性から私たちを守る「盾」のように振舞おうとする。ポストモダン資本主義に固有のアイロニカルな距離感は、私たちに原理主義の誘惑に対す免疫力をつけてくれるものだという。期待値を下げることくらい、テロや全体主義から身を守るためには、さほど大きくない代償だろうと、私たちは言いきかされている。(16-17)

 

真の政治的主体性を取り戻すとはまず、欲望のレベルにおいて資本という容赦なき肉挽きマシンによって翻弄されている私たちの関与のあり方を認めることから始まる。悪や無知を幻影的な「他者」へと振り払うことで否認されるのは、私たち自身の、地球規模にわたる圧制のネットワークへの加担である。心にとめておかなければならないのは、資本主義が超抽象的かつ非人称的な構造であること、かつ、私たちの協力を無くしては、資本主義も皆無になること、この両方である。もっとも怪奇(ゴシック)な描き方はつまり、資本のもっとも正確な描写なのだ。資本とは抽象的なパラサイト、貪欲な吸血鬼、ゾンビを生み出す機械である。けれども、それが死んだ労働に変えていく生きた肉体は私たちのものであり、それが生み出すゾンビは、私たち自身なのだ。ある意味では、政界のエリートたちは私たちの単なる使用人に過ぎない。彼らによって提供されるのは、私たちのリビドーを浄化するという哀れなサービスだ。あたかも私たちと無関係であるかのように、彼らは私たちの否認された欲望を愛想よく代理=表象してくれるということである。(43)

 

一九六〇年代や一九七〇年代の学生とは対照的に、今日のイギリスの学生は政治的に無関心だという印象がある。フランスでは学生がいまだ街頭で新自由主義に対する抗議デモを行っているなかで、それと比較にならないほど過酷な状況におかれているイギリスの学生は、その運命を諦めて受け入れてしまっているかのように思われる。しかし、これは無関心でも冷笑主義シニシズム)でもなく、再帰的無能感の問題であると私は主張したい。彼らは事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっているのだ。けれども、この「了解」、この再帰性とは、既成の状況に対する受け身の認識ではない。それは、自己達成的な予言なのだ。(60)

 

このマッコーリー(引用者注:マイケル・マン監督『ヒート』の登場人物)の生活態度は、リチャード・セネットが、ポスト・フォーディズムにおける労働の再編がもたらした情動の変化についての重要な研究である著書『人格の腐食』で分析したものと一致している。この新しい条件を要約するのは「非長期」(no long term)という合言葉だ。かつての労働者は一定の技能を習得し、厳格な組織的ヒエラルキーを上昇していくことを期待できた。ところが今、彼らには組織から組織へと、役割から役割へと所属を変えながら、定期的に再学習することが要求されている。労働の体系が脱中心化されるなかで、ピラミッド型組織は横つながりのネットワークにとって代わられ、そこでは「柔軟性」が重視されることになる。ハナに対するマッコーリーの揶揄(「どうやって結婚生活なんか維持するつもりなんだ?」と響き合うように、セネットは、この不安定性の常態が家族生活にもたらす耐え難いストレスを強調する。家族生活が基づいている価値観、つまり義務、信頼、責任は、まさに新しい資本主義においては時代遅れとされているものだ。にもかかわらず、公共圏が脅かされ、かつての「過保護国家(ナニー・ステイト)」が提供していたセーフティ・ネットが解体されるさなか、家族とは、つねに不安定である世の中の様々な圧力に対する安らぎの場としてますます重要になる。(87-88)

 

マラッツィはセネットと同様、この新しい状況が労働環境のサイバネティクス化のさらなる発展から現れ、かつそこから要請されたことを認めている。フォーディズム的な工場において、労働はブルーカラーとホワイトカラーに大別され、それらの職種は、建物の構造そのものによって物理的に区切られていた。騒音の多い環境で働きながら、経営者と管理人に監視されていた労働者は、休憩、トイレの際、就業時間後、もしくはサボタージュに関わるときに限って、言語へのアクセスを許されていた。なぜならコミュニケーションは生産を中断させるからだ。一方、製造ラインが「情報の流れ」となるポスト・フォーディズムにおいては、人々はコミュニケーションをとることが仕事である。ノーバート・ウィーナーが説いたように、情報通信(コミュニケーション)と制御(コントロール)は相互に含意しあうものだ。
労働と生活は不可分となる。資本はあなたを夢の中まで追いかける。時間は線状であることをやめ、混沌となり、点状の区分に分解される。生産と分配が再編成されながら、人間の脳神経もまた再構成される。ジャストインタイム型生産の構成員として効率よく働けるためには、予測不可能な出来事に対応する能力を身につけ、完全なる不安定さ、あるいは気味の悪い新語を使えば「プレカリティー」という状態の中で生きることを学ばなければならない。労働期間と失業期間が交互に入れ替わる。概ね、将来の見通しを立てられないまま、数々の短期の仕事を繰り返すことになる。(90-91)

 

現在において支配的な存在論では、精神障害に社会的な原因を見出すあらゆる可能性が否定される。この精神障害(にまつわる認識)を化学・生物学化(chemico-biologization)していく潮流はもちろん、精神障害の脱政治化と厳密に相関している。精神障害を個人の化学的・生物学的問題とみなすことで、資本主義は莫大な利点を得るのだ。第一にそれは、個人を孤立化させようとする資本の傾向を強化させる(あなたが病気なのはあなたの脳内にある化学物質のせいです)。第二にそれは、大手の多国籍製薬企業が薬剤を売りさばくことのできる、極めて利益性の高い市場を提供する(私たちの抗鬱薬SSRIはあなたを治療することができます)。全ての精神障害が神経学的な仕組みによって発生することは論を俟たないが、だからといってこのことはその原因について解明するものではない。例えば、鬱病セロトニン濃度の低下によって引き起こされるという主張が正しいとすれば、なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されなければならない。そのためには社会的・政治的な説明が求められるのである。そしてもし左派が資本主義リアリズムに異議申し立てを試みたいのでのれば、精神障害を再政治化していくことが緊急の課題になるだろう。(98-99)

 

すでに指摘したように、「賢く働く」こと(being smart)と管理・規制の強化にはなんら矛盾するものはない。両者はむしろ、管理社会における労働の表裏一体をなしている。リチャード・セネットは、ピラミッド型組織のフラット化は実際のところ、労働者の監視を増加させることになったと指摘している。「新しい労働体系が権力を脱中心化させる、つまり、組織の中の地位が低い人々にも、自分の仕事に対して裁量が与えられる、といった主張もなされている」とセネットは述べる。(105)

 

労働者のパフォーマンスを査定し、また本質的に数量化に対し抵抗性をもつ労働様式を測定しようとする欲求によって、マネージメントと官僚主義のさらなる重層化が否応なく必要とされてきた。そこでは、労働者間のパフォーマンスやその成果が直接的に比較されるのではなく、むしろ、監査されたパフォーマンスやその成果の表象が比較されるのだ。このやり方では必然的に回路にショートが発生し、実際の仕事内容は、仕事の公式な目標の達成ではなく、それらしき表象を生み出しそして操作していくことへ変容する。実際、とある英国の地方自治体に関する人類学的な研究によると、「地方自治体が提供するサービスの向上よりも、それらのサービスがきちんと表象されていることの保証により多くの労力が費やされる」のだ。こうした優先順位の逆転は、掛け値なしに「市場型スターリニズム」といえる体制の大きな特徴のひとつである。後期資本主義がスターリニズムから引き継いでいるものはまさに、実際の成功よりも、成功の象徴に価値を認めることにほかならない。(109-110)

 

株式市場で価値が生成される仕組みはもちろん、ある企業が「実際に何をしているか」というよりも、その企業が(将来)いかなる実績を示すかに対する見通しや意見によるところが大きい。つまり資本主義では、形あるものみな広報へと消えゆくのであり、そして後期資本主義は少なくとも市場原理の導入と同程度に、この広報的生産の偏在化という傾向によって特徴づけられるのだ。(113-114)

 

「現実主義的である」ことはかつて、確かで不動的なものとして経験される現実を受け入れるという意味だったのかもしれない。しかし資本主義リアリズムは、限りなく変幻自在でいかなる瞬間にもその姿を変えることのできる現実に服従するよう、私たちに要求する。(136)