もう本でも読むしかない

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高原英理『ゴシックハート』 抑えた筆致で語る、反逆の美意識

ゴシック/ゴス・カルチャーの基本図書が文庫化

 

高原英理による『ゴシックハート』は2004年に講談社より単行本として刊行され、2017年に立冬舎文庫として文庫化、そして2022年にちくま文庫として二度目の文庫化となった。本書は日本においてもゴシック/ゴス・カルチャーが存在感を増してきた頃に発表された最初期の本であり、今でも最も基本的な概説書ではないかと思う。

 

最初の刊行から20年が経とうとしており、その間、新たなゴシック作品が多く生み出されているわけだが、しかしゴシック/ゴスが参照し規範とする基本的な作品群は常に過去のものだというのは、ゴシック好きにとっては当然のことだろう。(もちろん、今回の版には適宜、2022年時点での補足や追記が付されている)

著者の高原英理は1999年に森茉莉尾崎翠倉橋由美子などについて書いた『少女領域』でデビューした批評家で、他に小説家やアンソロジストとしても活躍している。

 

著者によれば、「ゴシック」とはひとつの感受性、好みの名前である。しかし、ゴシックという感受性を構成する要素は一言ではまとめられない。それは列挙することしかできないという。

 

ゴシックな意識と言ってはみたが、これは最も「形」に依存して示される精神のひとつである。初めから抽象的に語ることはできない。具体的な様式の特異性が内実の特異性を決めている。
色ならば黒。時間なら夜か夕暮れ。場所は文字どおりゴシック建築の中か、それに準ずるような荒涼感と薄暗さを持つ廃墟や古い建築物のあるところ。現代より過去。ヨーロッパの中世。古めかしい装い。温かみより冷たさ。怪物・異形・異端・悪・苦痛・死の表現。損なわれたものや損なわれた身体。身体の改変・変容。物語として描かれる場合には暴力と惨劇。怪奇と恐怖。猟奇的なもの。頽廃的なもの。あるいは一転して無垢なものへの憧憬。その表現としての人形。少女趣味。様式美の尊重。両性具有、天使、悪魔など、西洋由来の神秘的イメージ。驚異。崇高さへの傾倒。終末観。装飾的・儀式的・呪術的なしぐさや振る舞い。夢と幻想への耽溺。別世界の夢想。アンチ・キリスト。アンチ・ヒューマン。
(「1 ゴシックの精神/1 ゴシックハート」より)

 

このようなものによって構成される、多分に様式的な感受性がゴシックというスタイルだ。これらの要素は歴史的に構成されてきたものだが、しかし、ゴシックの起源である18世紀の中世志向そのものが、そもそも架空の中世についての幻想だったという。ゴシックとは架空の過去を目指す、形式主義的なスタイルなのだ。

ヨーロッパの18世紀とは合理主義と進歩主義の時代であり、ゴシックの過去志向はそれに対する反発として生まれた面がある。現在においても、ゴシックという感受性を支えるのは、そのような反発や反逆の気持ちだ。

著者は「明日は今日より幸せであるとか、人間精神は改良できるとか、人は平等であるとか、努力すれば必ず報われるといった言葉を信じられなくなったとき、すなわち近代的民主的価値観が力を失ったとき、ゴシックはその魅力を発揮する」と語り、それに続けて、我々が住む現実の世界における様々な残酷さ、不条理さを挙げていく。著者にとってゴシックとは、そのような世界に対する反抗の意志でもあるのだ。

 

こういう場で単純に明るい未来と人類の善性を信じられる人がどれだけいるだろう。現実の制度の多くが優位者のためのものであることは既に見透かされている。
そして実のところ、現実社会という「誰かのための制度」を憎み、飽くまでも孤立したまま偏奇な個であろうとするゴシックは、そういうクズな世界での抵抗のひとつなのである。
(同上)

 

このような前提の上で、著者はゴシックを構成する様々な要素とその起源について、文学を中心に映画や漫画、アニメなどの映像表現も含めた様々なジャンルを行き来しながら語っていくわけだ。

中井英夫江戸川乱歩の描く人外、吸血鬼やフランケンシュタイン怪物ポー怪奇マルキ・ド・サド残酷、肉体からの解放を夢見るサイボーグ楳図かずお異形デビルマン終末、そして両性具有、人形、廃墟などなど。

ゴシックな意識と感受性について語る著者の筆致は、時おりめらめらと燃えるような情熱を覗かせながら、しかし全体としては非常に抑制されており、落ち着いて読むことができる。

決して怒りに我を忘れることも、あるいは頽廃的な美にただ耽ることもなく、ゴシックという極端だが多様な美学が淡々と静かに語られる。この『ゴシックハート』自体が、美しく寂寥感のあるゴシックの廃墟のようなたたずまいの本だと思う。

 

「差別の美的な配置」

 

さて、このちくま文庫版に関してとても重要だと思うのは、最後に「差別の美的な配置」という章が追加収録されている点だ。これは雑誌「夜想」のヴィクトリアン特集(2008年)に掲載された文章を採録したものなのだが、その内容は現代のゴシック好きにとって非常に切実なものとなっている。

ここで著者が語るのは、ゴシックを愛する者は、なぜフィクションの中において差別的な状況や道具立てを愛するのかということだ。

 

「ゴシックハート」とそれに続く「ゴシックスピリット」を執筆中、最も意識させられたのは、たとえば聖なるものと邪悪の対立といった、ゴシックの世界を支える大きなテーマより、そうした世界観のもと常に栄光と悲惨の極端な乖離を夢見てしまう、我々自身のどうしようもない差別好きということだった。いや、ゴスを望む人が差別主義者だというのではない。ゴスに心傾ける人々はむしろ損なわれ差別される側の意識の方に肩入れし易いように思う。ただその人々の思い描く、非現実的な物語の成立条件として差別的状況が好んで用いられるという意味である。

 

社会全体に仕組まれた差別の構造、人種差別、性差別、身障者差別、貧困者差別、容貌差別をはじめとして、限りなく光のあたる存在とどこまでも救われず忌まれ捨て去られる層との対比が、問答無用な無残として描かれるとき、それがいかに不条理で悪辣極まりない物語だとしても、ともすればその不条理と悪辣を歓迎しそうになる心の動きが、表現の悪質ゆえに価値を認めてしまいがちな何かが、ありはしないか。ならばそれをも私はゴシックハートと呼ぶ。
(いずれも「13 差別の美的な配置/1 差別」より)

 
もちろん著者は差別そのものを肯定することは決してなく、また差別の表現を好むことを「正しい」とも考えないが、しかしゴシックな意識の中に避けがたくそのような志向があることをはっきりと認める。そしてそのイメージの源泉をヴィクトリア朝という差別社会の文化にもとめ、そして日本においてその美学を引き継ぐものとして、1930年代の探偵小説、そして1960年代の前衛芸術を挙げていく。

著者の倫理観とゴシックの感性が緊張のうちに対峙し合う一章であり、その内容は私たちの多くにとっても切実なものだと思う。

 

次の一冊

 

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ゴシックな作品をひとつ挙げろと言われればやっぱり「アッシャー家の崩壊」でしょうか。アッシャー家の館は永遠のゴシック・アイコンですね。

 

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 ゴシック/ゴス関係の過去記事もいろいろありますのでぜひご覧ください。

 

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好きなゴス系コンテンツはこちらでもいろいろ挙げております。というかこのマガジン記事は毎回ゴス系特集と言っても過言ではないです。

 

そのうち読みたい

 

観念結晶大系

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高原英理の著書は批評、小説、アンソロジーと多岐にわたるのでいろいろ読みたいです。