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アリエル・ドルフマン『死と乙女』 独裁政権下の苦しみを描く凄惨な戯曲

軍政が終わったばかりのチリを題材にした戯曲

アルゼンチンに生まれチリで育った作家アリエル・ドルフマン(ドーフマン)の『死と乙女』は、1991年にロンドンで初演され、後にロマン・ポランスキーによって映画化もされた戯曲である。題名はシューベルト弦楽四重奏曲の通称から取られている。

チリにおいては、1973年のクーデターに続くピノチェト独裁政権が1989年まで続いたが、この戯曲はその時代における過酷な状況を題材としている。このほど刊行された岩波文庫版は、チリ・クーデターからちょうど50年後の新訳ということだ。

なおチリのクーデターは9月11日に勃発しており、南米では9・11という日付はこのクーデターを指すことも多いという。

 

復讐と正義

 

最初に断っておくべきだと思うが、この戯曲は登場人物が非常に凄惨な記憶を語るシーンを含んでおり、フィクションとはいえかなりショッキングな内容である。不安に感じる方は、十分に注意して手にとってもらいたい。

物語の登場人物は3名のみ。海辺の家に住むパウリナとその夫であるヘラルド、そしてその家を訪れる医師ロベルト

パウリナの夫ヘラルドは、彼らが住む国の、かつての独裁政権が行った犯罪行為を調査する「委員会」のメンバーに選出されたところだ。(チリにおける実在の「レティグ委員会」に由来) しかし重大な仕事に臨もうとする局面において、夫妻の会話はどこか落ち着かない緊張感に満ちている。

そんな折、車がパンクして立ち往生したヘラルドを助けた縁で、医師であるロベルトが二人の家を訪れる。独裁政権の罪を暴くという委員会の仕事に大きな期待を見せるロベルト。しかし、パウリナは彼を不意打ちして拘束する。驚くヘラルドに対し、彼女はこの医師こそが15年前、独裁の時代において彼女を拉致し、シューベルトを聴かせながら拷問を加えた人物だと言うのだ。

 

当時パウリナは相手の顔を見ていなかったが、声や話し方、そしてカーステレオにあったシューベルトのテープなどから、ロベルトがその人物だと確信し、復讐を望む。ヘラルドはそれをすぐには信じることができず、また信じたとしても、正当な手続きによる裁きに委ねるべきだと主張する。

この戯曲の大半は、パウリナとヘラルドの、このような苦しい議論によって成り立っている。彼らは互いを大切に思いながら、しかし自分が生き延びるため、あるいは自分が信じるもののために、相手に同意することができない。

この戯曲で交わされる言葉は、最初から最後まで、あけすけで容赦のないものだ。読んでいて苦しくなるようなこれらの言葉、その直接的な表現が舞台上で演じられた時には、きっとさらに心をえぐるものになるのだと思う。

 

パウリナ なるほどヘラルド、じゃあここで言質を取らせてもらうのはどう?
ヘラルド おいおい何の話をしてるんだ?
パウリナ 言質は、取り引きといってもいいわ。この国の体制移行とかいうものも、その伝じゃないの? あたしたちが民主主義を手にすることは許す、その代わり彼らは経済と軍とを握り続ける、とこうでしょ? 委員会は犯罪行為を調査してよろしい、ただし犯罪者たちが罰を受けることはない、これもそうよね? ありとあらゆるすべてを語る自由がある、ただし何もかもすべてを語るのでないときに限って。(短い間)しっかり目を開けて見てほしいんだけど、このあたしはそれほど無責任でもなければそれほど……病んでもいないわ、だからあなたとあたしの間で合意を取り結んではどうかと提案してるのよ。あなたが望んでいるのはあたしがあの野郎に危害を加えず自由にすること、一方あたしが何をしたいかというと……ちなみにあなた、あたしがどうしたいか知りたいかしら?
ヘラルド もちろん喜んで知りたいよ。
(第二幕第一場より)

 

この戯曲の題材になったような無差別な拉致や監禁、そして殺害は、ピノチェト政権下のチリにおいては無数に行われていたという。民政へ以降したチリにおいて、前述のレティグ委員会がそのような出来事の数々を明らかにした。

作者のドルフマンは17年の間国外に亡命しており、帰国後間もなくこの戯曲を書き上げたが、最初にこの作品が上演され受け入れられたのは海外でのことだったという。この戯曲が、軍政を脱したばかりのチリにとってはあまりにも「見たくないもの」だったということが、作者によるあとがきに詳しく書かれている。

 

この政治的暴力が残すものを生々しく表現した作品の、新たな「日本語版あとがき」の冒頭に、作者はこう書きつけている。

「それは昨日の出来事、だが今日の出来事であっても何らおかしくはない。」

 

 

そのうち読みたい

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チリの反政府派映画監督が、危険を犯して軍政下のチリに潜入した体験を、かのノーベル賞作家ガルシア=マルケスが書き残したもの。