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波戸岡景太『スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』 知性とバッシングが衝突する地点で考える

一味違うソンタグの入門書

波戸岡景太スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』は、ソンタグの著書『ラディカルな意志のスタイルズ』の翻訳も手がけた著者による、ソンタグ入門として書かれた新書だ。

スーザン・ソンタグは1933年に生まれ、2004年に没したアメリカの批評家にして作家である。『反解釈』『写真論』などの著書で特に知られ、またベトナム戦争から9・11に至るまで、社会問題についても積極的な発言を行っていたという。また60年代のデビュー時にはスター的な存在となり、さらにその私生活は波乱万丈で、世間のゴシップ的な興味を常に掻き立てるものだった。

私はソンタグの本を数冊読んだことがあり、この著者の書いたものについてもっと知りたいと思って本書を手に取ったのだが、しかし実際にはこの本は、私が期待していた「入門書」とは少し違うものだった。

多くの読者は、有名な著者についての入門書を読む際に、その著者の人生や代表作の内容についての過不足ない要約を期待するのではないだろうか。しかし本書はまず、ソンタグという著者に向けられていた「誤解と偏見」についての話から始まる。

 

知性とバッシングが衝突する地点

 

本書の著者はまず、ソンタグという人物が、いかに大きなバッシングに遭ってきたかという点に触れる。

その最大のものは、晩年である2001年、9・11の直後に起こった。その時ソンタグは、事件から一週間と経たないタイミングで、テロリストではなくアメリカを批判したのだ。

またその死後においても、ソンタグの伝記的事実や私生活のゴシップがたびたび掘り起こされ、その度にバッシングが起こっているという。近年にはソンタグ──その生涯と仕事』と題された評伝がベストセラーとなり、その話題は尽きることがない。

著者はソンタグという人物の「知性」のあり方について考える際に、これらの出来事を無視することはできないという立場をとる。私生活が死後にもゴシップ化する一方で、鋭敏な警句に満ちたソンタグの文章は、今も多くの場で引用され続けている。著者はそのことを、ソンタグの文章がもともとの文脈から外れ、機械の部品のように利用されている(マシーン化している)とする。

 

かくして、ゴシップ化する私生活と、マシーン化するその知性は、ソンタグの意志や感情や苦痛や快楽といった、まさしく生身の人間の抱える限界と責任を置き去りにするかたちで、世の中におけるスーザン・ソンタグ像を作り出してしまった。
もちろん、こうした身体性と知性の分離は、なにもソンタグに限ったことではなく、およそ偉人と呼ばれる存在を語り継ぐ際には、避けて通れないことではあるのかもしれない。
だが、本書がここにあえて語ってみたいのは、知性とバッシングが絶えず衝突する地点に立ち続けたソンタグが、その虚実のあわいでいったいどのようなことを考え、どのような人生の指針を打ち立ててきたかということ──すなわち、その「挑発する知性」の成り立ちについてなのである。
(「第一章 誰がソンタグを叩くのか」より)

 

つまり、「ソンタグの思想の、面白いところをかいつまんで知りたい」という私のような読者をも、本書は挑発しているのである。そのような態度は、ソンタグという人間が苦闘とともに練り上げた「知性」を、評価の定まった、安全な知識として活用したいという都合のいい態度にすぎないのだと。

このように本書は読者を、ソンタグが立っていた「知性とバッシングが絶えず衝突する地点」に巻き込もうとする。そのような方法によってしか、ソンタグの「知性」の姿はとらえられないというのが著者の態度なのだ。

 

「脆さ」と「苦痛」にまつわる思考

 

本書は、ソンタグの代表作の数々を読み解きながら、同時にソンタグ自身の人生、そしてそれに対する世間の反応を語っていく。

それはとても平易な言葉で書いてはあるものの、とても複雑な行程だ。著者はソンタグの思想をいくつかのキーワードに代表させつつ、それがどのように成立しているのかを、著作の中の記述と現実世界での出来事の間を行きつ戻りつしながら語る。

ソンタグを一躍有名にした、「キャンプ」という価値についての分析。写真や映像の役割や効果についての鋭利な批評。癌に冒されたことをきっかけとする、病の隠喩への批判。レニ・リーフェンシュタール三島由紀夫にまつわるファシズムの美学の分析。

このようなソンタグの著名な仕事の数々が、本人の人生と、その世間における語られ方と常に関連付けられる。読者はソンタグの「知性」の産物を落ち着いて楽しむことを許されず、むしろ常にその危うさと直面させられるかのようだ。

 

本書の大きなキーワードのひとつが、副題にもある「脆さ(ヴァルネラビリティ)」である。

 

ソンタグがその生涯をかけて探求してきたテーマは、端的に言って、人間存在が抱える「脆さ」(ヴァルネラビリティ)と、それが表出する際に身体と精神を襲う「苦痛」(ペイン、サファリング)であった。そしてそれは、機械と人間という二項対立が揺らぎを見せる場所──たとえば写真や映画──においてはっきりと観察されるものであり、だからこそソンタグは、時代を何歩も先取りするかたちで、メディア空間を生きる私たちの「生」を論じてきたのである。
(「第二章 「キャンプ」と利己的な批評家」より)

 

そしてそのテーマは、前述のような長い紆余曲折を経て、より繊細な言葉で語られる。

 

「人間の脆さとはなにか」であるとか、「それを暴き立てる暴力の本質とは何か」といった問題設定も、ソンタグによっては魅力的なものではあったのかもしれない。だが、そうした真理の探求めいた議論よりも、ソンタグはむしろ、「死すべき運命にあるもの同士は、芸術のどのような表現活動を通じて、いかにして互いの存在にアプローチしているのか」といった、不可逆的な時の流れに身をさらしている者たちの関係性を明らかにする議論を好んだ。
つまり、たとえば写真を撮る者と撮られる者がいたとして、そこには確かに非対称な関係があるのだろう。しかし、その関係性をただ問題視すればよいかといえば、そうではないはずだ、というのがソンタグの立場なのである。もちろん、一度ならず、二度三度その関係性を転倒させてみることは大事だろう。だが、そうやって「関係性」というものそれ自体をためつすがめつ眺めてみたならば、私たちはきっとそのどちらが本当に強いのか、分からなくなるはずなのだ。
(「終章 脆さへの思想」より)

 

一足飛びに終章を引用してしまったが、この本にとって(あるいはソンタグにとって)重要なのは、この終章にたどり着くまでの過程だと思う。危うく、落ち着かない知性の遍歴に戸惑いながら、ぜひその過程を体験してみてほしい。

 

次の一冊

pikabia.hatenablog.com

ソンタグの代表作のひとつについて、内容を紹介した過去記事。この本では、新聞やテレビで流通する、戦争や災害の写真・映像とどのように向き合えばいいのかという問題が扱われている。

 

pikabia.hatenablog.com

この記事で紹介した本も、ある批評家の仕事を、単純な紹介ではない形で記述した本と言える。今回紹介した本と通じる部分があると思う。

 

そのうち読みたい

 

著者の近著いろいろ。