もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

,

樋口陽一『リベラル・デモクラシーの現在』 重鎮が語る、立憲主義の普遍性

戦後を代表する憲法学者の最新講演集

 

改めて憲法に関する本が読みたいなと思い、そしてどうせならやはり定番著者の、しかも最近のものを……ということで手にとってみたのが、今回紹介する樋口陽一岩波新書『リベラル・デモクラシーの現在』だ。

1934年生まれの樋口陽一は素人の私でも知っているくらいの代表的な憲法学者で、日本のいわゆる戦後民主主義を理論的に支えてきた人物の一人かと思う。(この辺りの歴史に詳しいわけではないのでこれから勉強します)

本書の冒頭で語られているが、著者はこれまで4冊の岩波新書を刊行している。順に比較のなかの日本国憲法(1979年)、自由と国家―いま「憲法」のもつ意味(1989年)、憲法と国家―同時代を問う(1999年)と、最初の3冊はそれぞれ10年おきに刊行されており、今回の『リベラル・デモクラシーの現在』はかなり間が空いて2020年に出たものだ。大部分が講演をもとに構成された本書では、戦後社会に並走するように憲法について語ってきた著者の、現在の問題を踏まえた上での言葉が綴られている。
(ある意味では、この4冊の岩波新書は戦後日本における岩波書店という出版社の立ち位置の一端を示しているようでもある)

以上のような成り立ちなので、本書の内容は時に過去の3冊の内容も振り返りながら語られる。それゆえとても密度が高く、最初はところどころ説明不足に感じる部分もあるかもしれないが、濃密だがきっぱりとした語りを読んでいくうちにだんだん全体像が見えてくるはずだ。

 

簡単に構成を紹介すると、「Ⅰ リベラル・デモクラシーの展開、そしてその現在」では、戦後の西側社会の基準となった「リベラル・デモクラシー」の概要と、その21世紀に入ってからの展開について語られる。(後述します)

続く「Ⅱ 戦後民主主義をどう引き継ぐか」は1917年生まれの社会学者・日高六郎についての講演をもとにしたもの。やや唐突に登場するこの人物だが、戦時中に海軍の研究機関に所属しながら植民地の解放を進言する文書を提出し、戦後にはエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を翻訳したというこの社会学者の思考を追体験することで、戦中から現代へと至る、日本社会への鋭い視線の一端を知ることができる。

最後の「Ⅲ 近代化モデルとしての日本」では、日本の近代化を振り返りつつ、非西洋世界における近代化のあり方や、西洋の立憲主義がどのように日本に取り入れられたのか、そして西洋という地域性を超えた立憲主義の普遍的な価値について語られる。そしてその後、自由民主党が2012年に発表した改憲草案が詳細に検討され、その問題点がとても冷静な筆致で指摘される。

 

このように、複数の講演から書き起こされた本書はかなり多くの話題を扱っており、一見バラバラに見えるかもしれないが、通読してみれば、そこには一本の強い芯が太い背骨のように通っているのを感じるはずだ。

それはおそらく、憲法そして立憲主義について長く語り続けてきた著者が守る、原理や原則のようなものだと思う。それは決して大上段に構えたものや権威的なものではなく、もっと静かで力強いもののように感じられる。

 

リベラル・デモクラシーとは何か

 

具体的な内容についてもいくらか触れておこう。

そもそもの題名となっている「リベラル・デモクラシー」という言葉だが、この言葉についてだけでもかなりの説明が必要となる。

(なお本書における「リベラル」という言葉は、現在俗語として流通している、ある種の政治的立場を指す言葉とはだいぶ違う意味であることに注意してほしい)

 

「リベラル」の論理と「デモクラシー」の論理についての私の理解を、確認しておきましょう。言葉の使い方の争いで不毛な議論になるのは人文社会分野の世界では常なものですから、私はこういう意味で使うのだ、ということです。
私の言葉づかいからすると、リベラルとデモクラシー──片方が形容詞で片方が名詞ということは別にして──は、論理上は別次元の話です。リベラルは権力からの自由、権力からの解放という点がエッセンスです。
(中略)
それに対しデモクラシーは、そのもともとのギリシャ語の語源通りデモス=人民に関連します。権力構成の原理として、デモスの名による決定ということです。
「コンスティテューショナリズム」に対応するものとして「立憲主義」という日本語があります。「憲法」=constitutionの本質的役割を権力への制限と考える普通の理解を前提とするならば、「リベラル・デモクラシー」は「立憲デモクラシー」と重なります。

(Ⅰー0 「前提:「リベラル」の論理と「デモクラシー」の論理」より)

 

 このように別々の概念である「リベラル」と「デモクラシー」は、両立することもあれば、時に衝突することもある。それが両立した状態を著者は「リベラル・デモクラシー」と呼び、それを「おおまかに言えば、ポスト1945年の西側諸国の世界基準(同書より)」とし、基本的には擁護していく。

では「リベラル」と「デモクラシー」の衝突とはどんな状況か。それを理論化したのが戦間期ドイツの法学者、カール・シュミットだ。シュミットは近代議会制とはリベラルの制度化だったはずが、戦間期においてはその前提が失われているとし、リベラルとデモクラシーの衝突こそが本質的なことだとする。そしてナチスが政権を獲得すると、途端にデモクラシーを理由にリベラルの全否定に転ずるという。批判勢力を一掃し、大量宣伝手段によって圧倒的な支持を得たヒトラーの出現は、リベラルとデモクラシーが衝突した典型例であり、そのような衝突はまたいつでも起こりうると著者は注意を促す。

 

ここで登場するのが、本書の副題にもある「イリベラル」・デモクラシーという言葉だ。イリベラルとはもともと「狭量な」「偏狭な」「卑劣な」などの意味を持つ言葉のようだが、ここではやはりリベラルを否定する言葉として使われている。デモクラシーの形式を取りつつも、リベラルつまり「権力からの自由」を否定する方向性と言えるだろう。

前述のナチス政権に代表されるようなイリベラル・デモクラシーの要素が、1980年代のレーガンサッチャー体制から始まるネオリベラルと呼応するようにして再び高まりつつあるというのが本書の問題意識であり、そのような観点からイギリスのEU離脱、トランプ現象を始めとした西欧各国、そして日本の状況が言及される。前述した2012年の自由民主党による改憲草案は、ここでは「イリベラル・デモクラシーを他国に先駆けて憲法規範化したい、という意味を読み取ることができる」とまで言われている。

 

大日本帝国憲法の解釈の変遷

 

本書では他にも多くの問題や、それについての歴史が語られるが、中でも興味深いと感じたのは大日本帝国憲法についての部分だ。

大日本帝国憲法というと、どうしても現在の憲法との対比によって、戦前の全体主義的な日本を形作った憲法というイメージを持ってしまうが、実際にはその解釈のされ方には歴史的な変化があるという。

明治期の日本は、西欧列強に対抗しうる近代国家となるためには「立憲の政」つまり立憲主義の確立が必要だと考えていた。近代的な工業力や経済力は、近代的な(リベラルな)社会そのものによって実現されるということを、西欧諸国を視察した人々は悟っていたのだ。

伊藤博文の言葉に憲法ヲ創設スルノ精神ハ第一君権ヲ制限シ第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」というものがあり、つまり明治憲法の時点でも、憲法が君主の権力を拘束するものだという原則が存在したのだ。(これは同じく君主国であった当時のドイツの憲法が参考にされた)

このような憲法の理解は1935年までは続き、大正デモクラシーという民権運動もその時代の空気から生まれたものだという。(1935年、それまでの憲法解釈の主流であった天皇機関説が否定され、天皇への権力の集中が始まる)

もちろんこれは「実は大日本帝国憲法にも良いところがあった」というような単純な話ではなく、リベラルな社会を確立し近代化を目指すこと自体が植民地政策と直結していたのだが、少なくとも近代日本の憲政について多角的な視点を与えてくれるエピソードではある。

 

立憲主義の普遍性

 

また「Ⅲ」で語られる、2001年の国際会議でとあるアフリカの知識人が語ったとされる、「西欧は旧植民地を二度苛める」という言葉も印象に残る。

一度目の「苛め」はもちろん植民地化だが、二度目とは何か。それは二十世紀末において西欧諸国がかつての植民地主義、そして近代国民国家システムを自己批判し、しかしそれゆえに、かえってリベラル・デモクラシーについても旧植民地諸国に押し付けるべきではない、という態度を取ってしまうことである。

 

当時、植民地主義に対する西側の知識人の自己批判、遡って近代国民国家モデルの自己批判が、実は、南側の強権的支配の下に置かれている良心的知識人たちを窮地に陥れ、足を引っ張ることになっていました。簡単に言えば、近代国民国家=西欧の自己批判の論理は、ある方向に推し進めていくと、それぞれの文化にはそれぞれのやり方がある、それぞれの文化にはそれぞれの価値がある、という話になります。それは、まさに見事に、自己流の強権的な支配を続ける南側の支配者の好む言説です。西欧型の民主主義を我々に押し付けるな、我々には我々固有の貴重な文化があるのだ、という脈絡になるのですから。

(「Ⅲー0 前提:あらためて「四つの八九年」」より)

 

最後に、この問題提起に対応する、著者の1989年のパリでの報告を引用して結びとしよう。
 

今、西洋起源の近代立憲主義の普遍的原理、と述べた。西洋的なるものが本当に普遍的でありうるのだろうか? 西洋中心主義は今日では時代遅れではないのか。たしかに、例えば、一五世紀日本の演劇である能を、西洋の演劇にあてはめるのが常であるような価値基準にもっぱら基づいて評価することはできない。ラシーヌシェイクスピアのそれとは違った演劇の理念がありうる。しかしながら、個人に対するなんらの基本的信念もなしに立憲主義を想定することはできず、そうであるならば、この領域での西洋中心主義の意味の深さを受け入れないわけにはゆかない。文化の複数性を尊重するのは一つのことがらであり、西洋起源の立憲主義の価値の普遍性を確認するのはそれと別のことがらである。この普遍性を擁護することは、決して、言うところの「文化帝国主義」ではない。

(同上)

 

そのうち読みたい

 

樋口陽一の著作はたくさんありますが、やはり重要なのはこれなんでしょうね。1972年の初版から改定を重ね、現在のものは2021年の第四版。

 

2013年平凡社ライブラリーのこちらは手に取りやすそう。