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伊藤博明『ルネサンスの神秘思想』 古代異教の神々はいかにキリスト教世界に復活したか

ルネサンスにおける〈神々の再生〉──古代の思想・宗教の復活

 

プラトンアリストテレスなどの哲学者や、ピュタゴラスユークリッド(エウクレイデス)などの数学者、さらにはゼウスアポロンアフロディーテ(ヴィーナス)といった神々の名前が我々にも馴染み深いように、古代ギリシアやローマの文化が西欧文化の大きな源流のひとつだというのは、多くの人が持っている知識だと思う。

ところがヨーロッパの歴史において、その伝播は一直線ではなかった。それらの文化や知識は、中世以降のカトリック教会によって異端として退けられ、約千年を経た後、ルネサンスにおいてようやく再発見されるのだ。

伊藤博明『ルネサンスの神秘思想』は、その頃イタリアでどのようなことが起こっていたかを詳しく教えてくれる。驚くほど多様な思想と信仰が渦巻く、キリスト教世界における古代の復活」という出来事の内実には驚かされるはず。

 

 

ローマに現れた預言者「メルクリウス」

 

この本はある印象的なエピソードから幕を開ける。

舞台は1484年のローマ。フィレンツェではボッティチェリヴィーナスの誕生に取り掛かっている時代だ。この年は占星術においては天空で〈大会合〉が成り、地上で大事件が起こることが予想され、さらにコンスタンティノープルのあるラビはユダヤの救世主の出現を予言したという。

そんな年、ローマの路上に、古代風の衣装を身に纏ったヨハネス・メルクリウス・デ・コルジオ」(イタリア語名はジョヴァンニ・ダ・コレッジョ)と名乗る人物が現れた。この人物は自らを預言者と主張し、最後の審判の日が近いと告げながらキリスト教への帰依を説いて市中を練り歩き、最終的にはその衣装を教皇庁に奉献した。

この人物が行ったことはただこれだけで、特に重要な人物というわけでもなく、この頃ヨーロッパにしばしば現れていた多くの自称・預言者の一人にすぎない。しかし著者はこの人物の有様から、当時のイタリアの文化状況を読み解いていく。

この人物が名乗る「メルクリウス(英語ではマーキュリー)」とは、ギリシア神話ではヘルメス、エジプト神話ではトートに対応する、神と人間の間を仲介する役割の神だという。また彼が神より授けられたと主張する別の名前「ビマンデル」もまた、同じものを指している。この預言者は、古代異教の神の名を名乗りながら、キリスト教への帰依を説いていたのである。

 

ジョヴァンニ(預言者ヨハネスのこと)が出現した15世紀から見れば、トート=ヘルメスが活躍した時代は遠い過去になっていた。 エジプトやギリシアに限らず、古代のヨーロッパ世界には多くの神々が共存し、さまざまな宗教的祭儀が同時に執り行われていた。

一民族が多くの神々を目的に応じて崇拝する、多神教と呼ばれる宗教的形態が一般的だった中で、ユダヤの民だけが、世界を創造した〈唯一の神〉を信じていた。このユダヤ教の中からイエスが現れて革新し、キリスト教は激しい迫害を受けながらも、次第にローマ社会に浸透していった。313年にコンスタンティヌス大帝の発布した〈ミラノ勅令〉はキリスト教を公認し、続いて392年にテオドシウス帝は、キリスト教ローマ帝国唯一の国家宗教と宣言した。 キリスト教会は着実に教説と制度を整えつつ、中世ヨーロッパにおいて「カトリック」(普遍的)の地位を確立していった。

その一方で、キリスト教会から排斥された古代の神々は流浪の身となり、ついにはヨーロッパ世界から完全に放逐されることになった。これらの神々は、古典古代における、キリスト教と根本的に相違する 〈異教〉の誤謬に満ちた信仰の対象として、歴史的記憶の中にのみ存続することが許されたのである。 それでは、なぜジョヴァンニは、キリスト教預言者たる自己に古代異教の神にして智者ヘルメスの名を冠し、またそれを正当なことと見なしたのであろうか。

(「プロローグ ジョヴァンニ・ダ・コレッジョ、あるいは〈神々の再生〉」より)

 

ローマの路上に現れた預言者の名乗った「メルクリウス」という名前。この名前こそが、ルネサンス期のヨーロッパにおける古代の神々の復活を示しているのだ。この名が指し示すギリシアの神ヘルメスはこの後、カトリック教会の内部や教皇庁の天井画にすら描かれるようになる。

ルネサンスを説明する「文芸復興」「学芸の復興」という言葉は、単に学問だけでなく、古代の様々な宗教や信仰の復活でもあり、しかもそれはキリスト教と結びついた形で起こっていた。そしてそこで見出された〈古代神学〉は、占星術錬金術とも結びつき、後の神秘主義の源流ともなっていく。

本書はこのような、キリスト教と異教、神学と神秘主義が混じり合うシンクレティズム(諸説混淆)の世界としてのルネサンスを描写するものなのだ。

 

本書の構成

 

本書は文庫本ながら広範なテーマの膨大な情報量を持つ本であり、とても要約はできないのだが、せめて全体の構成を紹介しておこう。

本書は大きく分けて二部構成となっている。第一部「〈神々の再生〉の歴史」では、「異教の哲学」に学ぶことを提唱した人文主義ペトラルカから始まり、物語『デカメロン』で知られ、神話集『異教の神々の系譜』をまとめたボッカッチョ、そしてメディチ家のもとで「プラトン・アカデミー」を運営したフィチーノピーコなどの思想を追っていく。

特に最後のマルシリオ・フィチーノピーコ・デラ・ミランドラの二人は本書の主役と言っていい人物で、彼らがプラトンアリストテレスギリシアの哲学者、そしてゾロアスター、ヘルメス、オルフェウスら古代の神学者(あるいは魔術師)たちの思想を、いかにキリスト教の教説と結びつけていったかという部分は非常に興味深い。(ここでのヘルメスとオルフェウスは神ではなく伝説上の人物を指す)

 

そして第二部「〈神々の再生〉の諸相」では、そのように古代の知識から導き出されキリスト教と融合した神秘主義の様々な側面を取り上げる。古代エジプトの魔術やヒエログリフカルデア人の託宣、オルフェウスの神話、バビロニア由来の占星術ヘブライの秘儀カバラなど、現在の目から見るとオカルトに見えてしまいがちなそれらが、いかにルネサンスの時代において重要なものだったかがつぶさに語られる。

この刺激的な思想史をぜひ体験してもらいたい。

 

 

次の一冊

 

pikabia.hatenablog.com

過去記事より。ルネサンスの時代に再発見された古代の書物の数々が生み出された代表的な場所のひとつが、エジプトの古代都市アレクサンドリア。この本では学術都市としてのアレクサンドリアが詳しく紹介されている。

 

pikabia.hatenablog.com

過去記事からもう一冊。タロットカードは15世紀頃のイタリアで発生したものだが、時代を経るにしたがって様々な解釈を与えられるようになり、近代においては薔薇十字運動などの魔術結社により神秘主義と結びつけられた。タロットの図像にも、キリスト教と古代異教の相克が秘められているという。

 

美術の分野から、ルネサンスにおける古代の復活を研究したのがアビ・ヴァールブルク。この本は表象文化論の第一人者による、その思想と人生に迫った名著。

 

そのうち読みたい

 

そのヴァールブルクの著作がこちらですが、たいへん高騰しております。ちなみに今回紹介した『ルネサンスの神秘思想』の著者伊藤博による監訳。