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岡田温司『イタリア芸術のプリズム』 巨匠たちの映画に結実する、イタリアの芸術・宗教・政治

表象文化論の大家が、イタリア映画の巨匠たちを読み解く

 

 

『イタリア芸術のプリズム 画家と作家と監督たち』は、このブログでもすでに何冊か著書を紹介している、美術史・表象文化論の大家にしてイタリア現代思想の紹介者である岡田温司の2020年の単行本だ。タイトルとサブタイトルが示す通り、イタリアの絵画と文学と映画に関する本である。

アガンベンをはじめとしたイタリアの思想家たちの翻訳とともに、美術を中心としたイメージにまつわる研究を続けてきた著者だが、近年はすごい勢いで映画についての著書を刊行している。2015年の『映画は絵画のように――静止・運動・時間』を皮切りに、『映画とキリスト』『映画と芸術と生と』『映画と黙示録』『ネオレアリズモ――イタリアの戦後と映画』と続くそのラインナップはさながら新たなライフワークのようだ。私はこの中では映画史における終末や崩壊の表象を辿った『映画と黙示録』を手に取ったが、そこで参照される映画の、名作からB級作までの圧倒的な広さと量に驚いてしまった。

今回紹介する『イタリア芸術のプリズム』もやはり映画を中心とした本で、ここではフェリーニパゾリーニ、アントニオーニといった誰もが知るイタリア映画の巨匠が主に取り上げられ、その作品世界がイタリアの絵画や文学などとの関連の中で語られる。

 

さて、この「絵画や文学などとの関連」という部分こそが、岡田温司の映画本の醍醐味だと思う。

著者はイタリアの巨匠たちの映画について、時にそのテーマを同じくイタリアの文学や哲学を通じて読み解き、また時にその画面やモチーフをイタリアの画家たちの作品と比較する。

そこで参照される作家や思想家や芸術家は多岐にわたり、さながらこの本は、古代から現代へといたるイタリア芸術のエッセンスを凝縮したもののようだ。

ちなみにイタリアの芸術というと、古代ローマルネサンスを思い浮かべる方が多いかもしれないが、もちろんそれだけではない。本書の惹句には「せめぎあう伝統と前衛」とあるが、古代からの長い伝統と、近代の前衛が密接に関わり合うのがイタリアの芸術だ。本書でも未来派デ=キリコ、そして著者がこだわり続けるジョルジョ・モランディなどが取り上げられ、巨匠たちの映画と並べられる。

そして言うまでもなく、映画そのものが20世紀の新しい芸術の形式なのであり、フェリーニパゾリーニは上記の芸術家たちの後継者でもあるわけだ。

 

当たり前のことかもしれないが、現在は過去と切り離すことができない。ルネサンスやパロックという、無視しえない偉大な過去を引きずるイタリアの場合、この自明の事実は特別の意味をもつ。それゆえ、この国の芸術における過去と現在の絡み合いもまた、小著をつらぬく主たるテ ーマのひとつである。ただし明記すべきは、その過去が、権威主義的で伝統墨守的なものとは一線を画するという点である。現代から問い直される、いわば良きアナクロニズムの鏡に写し取られるものとしての過去。「わたしは過去の力である」、「深くて親密でアルカイックなわたしのカトリシズム」、伝統と前衛とがせめぎあらパゾリーニのこれらの言葉がいみじくもそのことを象徴している。読者の皆さんには、判官贔屓と危ぶまれる記述や解釈もあるかもしれない。が、絵画と文学と映画のうちに分光され屈折される二十世紀イタリアの芸術のプリズムを読者の皆さんに味わっていただけるなら、わたしにとってそれ以上の喜びはない。

(「はじめに」より)

 

イタリア芸術とキリスト教ファシズム


本書におけるさらにふたつの重要なキーワードがキリスト教ファシズムだ。

例えばフェリーニロッセリーニパゾリーニらの様々な映画において、贖罪や奇跡といったカトリック的な主題が見いだされ、あるいは古代的な民衆信仰とマリア信仰との混交の表現などが注目される。

他の監督の作品についても、ピエロ・デッラ・フランチェスカカラヴァッジョを始めとしたと多くの伝統的な画家たちとの関連が語られる際、やはりキリスト教に関する主題が登場するだろう。

また20世紀のイタリアにおいて決して無視できない要素がファシズムであり、多くの監督たちは実際にファシスト党政権の時代を生きている。そのテーマがほとんどの監督たちの作品に影を落としているのも当然だろう。

岡田温司の本(そして岡田温司が紹介するイタリアの思想家たちの本)においては常に、芸術と宗教と政治との関係が問題とされるのだ。

 

フェリーニのローマ』では、この章の最初に触れた教皇庁のファッションショーのすぐ後、最後のシークエンスで「ノアントリ祭」が描かれる。「われわれみんな noi altri」がなまってこう呼ばれるこの祭は、毎年六月の後半に聖母マリアを記念してトラステヴェレ地区で盛大に祝われてきた。十六世紀初めに漁師が偶然に見つけた、テヴェレ川を流れる聖母像を地区の教会堂に奉納したという言い伝えにさかのぼるのだが、実は祭自体は、一九二〇年代にファシズム政権下で民衆操作のために大いに振興されたといういわくつきのものである。もちろんフェリーニがそのことを知らないはずはないから、カトリシズムとファシズムの結託が民衆的な祭のなかに投影されてきた歴史が、やはりそれとなく示唆されていることになる。祭の期間、地区の人々のみならずローマ市民たちは、広場に集っては、大いに飲んで食べ、歌って踊る。映画のなかでも、英語が方々で飛び交っていて、いまや祭が観光化していることを印象づける。アメリカの作家ゴア・ヴィダル(本人)が、地球が自滅しつつある現在、興亡を繰り返してきたローマで世界の終わりを見届けるのがふさわしいなどと、英語なまりのイタリア語で黙示録めいたセリフを吐いている。もちろん、ローマに付き物の盗難も欠かせない。そんな混沌とした賑わいがドキュメンタリー調でカメラに収められていく。広場の噴水に大勢の若者たちがたむろしていると、その数に負けないくらいの警官が突然現われて、暴力で強引に彼らを追い払っていく。この場面には明らかに、一九六八年の学生運動の弾圧の記憶が投影されている。

(「Ⅱ フェリーニとカトリシズム」より)

 

著者のこれまでの研究を縦横に引き出しながらのリラックスした語りにより、古代から続く伝統と近代の革新、そして世界を基礎付ける宗教とファシズムの難問、そういったものが絡み合う場としてのイタリア映画の姿を教えてくれる本だ。
 

次の一冊

 

岡田温司に関する過去記事がいろいろあるのでご覧ください。

pikabia.hatenablog.com