もう本でも読むしかない

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岡田温司『キリストの身体』 聖なる「身体」が導く美と政治

キリストの「身体」を読み解く表象文化論

 

岡田温司についてはこのブログでも何度か紹介しているので重複になるかもしれないが、この著者には大きく分けて二種類の著作群がある。ひとつは美術史・表象文化論に関するもの。そしてもうひとつはイタリアの哲学・現代思想に関するものだ。今回は前者の仕事の中から、電子版でも読める新書を紹介したい。

著者はキリスト教美術に関する著作を多く書いているが、今回の中公新書『キリストの身体 血と肉と愛の傷』はそのうち一冊だ。なお同じ中公新書から『マグダラのマリア』『処女懐胎』『アダムとイヴ』『天使とは何か』『最後の審判』、岩波新書から『黙示録』などがシリーズのように刊行されているので、興味のある題材から読むといいだろう。

 

本書の冒頭で著者は、なぜキリストの「身体」なのかに注意を促す。なぜなら、通常キリスト教において重視されるのは身体ではなく精神だからだ。

しかし、飽くまでもキリストの「身体」に注目し、その表現・表象に潜む問題を掘り下げることこそが、表象文化論の旗手である著者の面目躍如なのだ。

最初から決定的な内容が簡潔に書かれている「はじめに」から引用しよう。
 

そもそも、いったいなぜキリストの身体なのだろうか。身体というのは、この宗教にとって、重要でも本質的でもないばかりか、むしろ忌避されるか蔑視されるべきものではなかったのか。大切なのは、身体ではなくて精神、肉体ではなくて霊魂ではないのか。そういう疑問の声が読者の皆さんからあがってくるのが、いまにもこの耳に届いてきそうである。だが、本当にそうなのだろうか。
本書でわたしが示そうとしたのは、逆に、(キリストの)身体をめぐるイメージこそが、この宗教――とりわけカトリック――の根幹にあるということである。受難、磔刑、復活という出来事が、キリスト伝のまさにクライマックスをなすというのが、何よりもその雄弁な証拠であろう。ほかでもなくその身体は、西洋の人びとの、宗教観のみならず、アイデンティティの形成、共同体や社会の意識、さらには美意識や愛と性をめぐる考え方すらも根底で規定してきた、もっとも重要な契機だったといっても、けっして過言ではないのである。本書は、この西洋における根本的な問題に、五つの切り口からアプローチしようとするものである。
(「はじめに」より)

 

この短い文章で十分に示されているのは、この本が狭い意味での「美術史」あるいは「宗教史」の本ではないということだろう。ここでは「キリストの身体」にまつわるイメージが、西洋における宗教、思想、政治そして個人の内面に至るまでのあらゆる局面に関わるものだということが告げられているのだ。

このような態度は、美術史、表象文化論、そしてイタリアの哲学・現代思想を扱う著者の本すべてに通底するものである。

 

なお引用部分の末尾で触れられる「五つの切り口」がそのまま本書を構成する五つの章となっているのだが、順にキリスト本人の美醜、聖餐の儀式におけるパンとワインの意味、イコンと聖遺物、西洋人の身体イメージに与えた影響、そして受難の「傷」というテーマについて分析される。

いずれの章においても多くの図版と資料が引用され、コンパクトな新書ながらも膨大な知識と調査に裏付けられた内容を読むことができる。

 

「パンとワイン、あるいはキリストの血と肉」

 

内容の一例として、第二章「パンとワイン、あるいはキリストの血と肉」を見てみよう。この章ではパンをキリストの肉に、ワインをキリストの血になぞらえる聖餐、聖体の儀式について、その歴史と意味合いが掘り下げられる。

著者はさっそく「キリストの肉とされているものを食べる」というこの儀式のカニバリズムに着目し、ギリシア神話におけるディオニュソスの逸話などを引きつつ、カニバリズムという概念の人類学的な重要性を説いていく。

ディオニュソスは幼い頃、タイタンたちによって八つ裂きにされて食べられてしまったのだが、最後に残った心臓から復活を遂げたという。ここでは食べることの禁忌と、犠牲と復活という聖なるものがともにあり、キリストの逸話にも通じる部分がある。

人類学が教えてくれるところでは、極限状態における侵犯の最たるものとしてのカニバリズムは、たとえそれが現実の出来事ではなくて神話的な語りとしてではあるにしても、一種の儀礼として、およそあらゆる文化と社会に共通に存在するといわれている(ペギー・R・ サンディ)。それは、神同士の関係、神々と人間の関係、人間と動物の関係、そして人間同士の関係を打ちたてるうえで、踏まえなければならないひとつの手続きのようなものなのだ。それゆえカニバリズムは、極悪非道の行為とみなされることもあれば、神聖にして道徳的な義務とみなされることもある。 タブーと聖性とは、実は紙一重なのである。キリスト教におけるパンとワインは、後者の部類に属することになるだろう。それは、文化秩序の基礎と維持、そして再生と深くかかわっていると考えられるのである。
(「第二章 パンとワイン、あるいはキリストの血と肉」より)

 

このような「タブーと聖性は紙一重である」という原則に従いながら、著者はこの後、キリスト教の歴史において聖餐の概念がどのようにあらわれ、教義によってどのように解釈され、どのように西洋社会の秩序を構成していったかを(もちろん多くの絵画を紹介しながら)詳細に追っていく。パンを肉と、ワインを血と見なすという、考えてみればやや突飛な発想は、長い議論と信仰の歴史を経て重要な儀式となっていったのだ。

そして最後に、著者はこの儀式と反ユダヤ主義の関わりについて述べる。キリストの肉体そのものとみなされる聖体を受け取ることによって人は罪から救済されることになるのだが、ユダヤ人はしばしばその救済の対象から除外されていたという。また聖体への関心が高まる13世紀頃になると、ユダヤ人が聖体を冒涜したという事件が多く報告されるようになり、その流れはペストなどの疫病の流行を受けて強まっていく。危機に陥った社会がスケープゴートを定めて結束を図るという、我々もよく知る現象である。

聖体への冒涜を断罪することは、逆に、聖体への信仰を高める効果をもつだろう。統一と結束のシンボルであるキリストの身体は、ひるがえって、差別と排除のシンボルともなるのである。
(同上)

 

次の一冊

 

岡田温司の本は過去に二冊紹介しているのでこちらもどうぞ。

 

こちらは岡田温司の著作リストです。

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