もう本でも読むしかない

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中井亜佐子『エドワ-ド・サイ-ド ある批評家の残響』 理論に新しい生を与える批評意識

オリエンタリズム』の批評家サイードについて

 

中井亜佐子は英文学、特にコンラッドをはじめとしたモダニズム期のものを専門とする研究者で、以前も当ブログで著書を紹介したことがある。

pikabia.hatenablog.com

今回紹介するのは、上記『〈わたしたち〉の到来』においても主要な参照項となっていた批評家、エドワード・サイードに関するものだ。

 

 
エドワード・サイードパレスチナ人としてイスラエルに生まれ、後にアメリカ合衆国に移住した批評家である。西欧において語られるアジアのイメージを批判的に論じた代表作オリエンタリズムによって、いわゆるポストコロニアル批評の先駆者にして代表者と目されることが多い。またパレスチナ問題について積極的に発言し、政治的にも関与していたことでも知られる。

2024年1月に刊行された本書はもともとサイード没後二十年に合わせて企画されていたものだったが、序章によればまさに本書の執筆中である2023年10月、ハマスの奇襲をきっかけとし、イスラエル軍によるガザへの攻撃が始まった。著者はこの序章で、このような状況下において、パレスチナに深く関わりのある人物による文学批評の研究書を出版することに対する逡巡を率直に語っている。

著者は最終的には、このような状況においても文学や批評、あるいは「書かれたテクストを読むこと」は研究されるべきものだと述べはするが、そこには大きな葛藤があるということは、読者も気に留めておくべきだと思う。

 

イードにとって批評とは何か

 

さて、シンプルな題名を持つ本書だが、しかしこの本は必ずしも、サイードの思想の概要をまとめた入門書というわけではない。

もちろん入門書としても読めるし、私もそのつもりで読みはしたが、しかし本書はどちらかと言えば、イードの批評家としての態度のようなものについての本だ。

イードは批評理論においてポストコロニアル理論」「植民地言説分析」などと呼ばれる大きな潮流を作り出した思想家であり、同時にパレスチナに関する具体的な政治活動にも積極的に身を投じた人物だが、著者によれば、サイードの著作と政治的な活動の間には多くの矛盾もあるという。またそれだけでなく、サイードの思想には時期によってかなりの変遷があり、互いに矛盾する理論もあって、ひとつの統一された体系を見出しにくいものらしい。

しかし近年においては、サイードの矛盾を批判・修正して理論を整えるのではなく、そのような矛盾を含んだ知識人としてのサイードの全体像を捉え直そうとする研究が多く現れてきているそうだ。本書もまた、そのような方向性に連なる研究ということになる。

著者はこの本の中心にある問いを、「サイードにとって批評とはどのような営為だったのか」とまとめ、その手がかりとして「旅する理論」と題された論考を取り上げる。

 

本書において『はじまり』とともに重視されるのは、『世界、テクスト、批評家』に収録されている「旅する理論」という論考だ。この論考のなかでサイードは、 批評意識(批判的意識)は「理論が旅をする」プロセスに欠かすことができないと主張している(ここでの「理論(セオリー)」は狭義の文学理論に限定されるものではなく、おそらく「体系」や「思想」のほうが意味的には近い)。理論は特定の歴史的文脈のなかで誕生する。理論が地理的、時間的に移動したならば、どうしても変容を余儀なくされるだろう。現実政治に根ざしたアクチュアルな理論が学問制度にとりこまれて形骸化することもあれば、別の文脈のもとで解釈や誤読が加わることによって、むしろ再生することもある。既成の理論が別の場所で生まれ変わるためには、理論を検証し、その限界をみきわめるための批評意識が必要なのだとサイードはいう。

(「序章 批評家を批評する」より)

 

 
著者はサイードの批評を、まさにこの「旅」の実践として捉えていく。理論や体系はひとつのことろに留まるのではなく、移動し、変容することによって新たな生を得る。

このことは、サイードの批評にはアカデミア批判、学問制度批判が多く含まれることにも関係がある。代表作『オリエンタリズム』が主に批判する対象も、オリエンタリズムを形成する西洋の学問制度だ。

またサイードは70年代の米国の大学制度の中で研究を行っていたが、例えば当時の大学でもイスラエルを批判することは容易ではなかったという事情もまた、パレスチナ人であるサイードにとっては大きな問題だった。

このように、学問的な意味でも政治的な意味でも、理論や体系が制度の外への「旅」をすることによって、形骸化することなく「生まれ変わる」ことが求められているのだ。

 

著者はこのようなサイードの「旅」を導くものとして、ジョゼフ・コンラッドミシェル・フーコー、レイモンド・ウィリアムズという三人の人物を挙げる。この本は三つの章により、これらの人物のテキストをサイードがどのように読んだか、そしてそこから自らの批評をどのように構成していったかを語ることになる。

 

このようにサイードは、みずから理論の旅を実践し、異なる時代や場所で生まれたさまざまな理論や思想を鋭利な批評意識をつうじて批判的に読みなおし、自身の住まう現実のなかに蘇らせた。サイードが批評を実践することによってみずから他者の理論に旅をさせてきた軌跡をたどることも、彼にとっての批評の意味を探る重要な手がかりとなる。
(同上)

 

理論に旅をさせるための様々な視点

 

それぞれの章の内容にも簡単に触れておこう。

第一章「ある批評家の残響」で著者は、サイードが深く関わるポストコロニアル批評や、それを含む批評理論そのものがすでに古くなったと評価されつつあるという近年の状況(著者は「批評理論の衰退」と表現する)を踏まえたうえで、それでも批評という行為にどのようなことができるのかを、サイードジョゼフ・コンラッド研究から読み取ろうとする。

『闇の奥』をはじめとしたコンラッドの作品について、サイードは一定の評価を下すのではなく様々な角度から読み解いており、著者はサイードの仕事そのものについても同じような読みを促していく、

 

第二章「理論は旅をする」は、サイードが深い影響を受けつつ後に批判することになったミシェル・フーコーについての章。前述のようにサイードは理論に「旅」をさせることを説いたが、フーコーを始めとしたフランス現代思想アメリカにおける受容(これもひとつの「旅」である)は多分に誤読を含み、また大学制度によって形骸化することにもなったという。

著者はサイード初期の難解な文学批評である『はじまり』の読解を手始めに、サイードがどのようにフーコーの受容・再解釈・批判を行ったかを見ることによって、理論に旅をさせる際に必要な批評意識(批判的意識)のあり方を探る。またここではサイードによる大学制度批判についても詳細に辿られる。

 

最後の第三章「文化と社会」では、社会思想家レイモンド・ウィリアムズの思想を受容することによって、批評家サイードがどのように社会や共同体と関わることを考えていたかを読み解く。それは、いわゆるフランス現代思想や批評理論とは別の角度からサイードの批評のあり方を考えることでもあるという。

ウィリアムズはシステムに汲み尽くされない社会的経験の中に社会を変革する契機を見いだそうとしたが、サイードはその理論と響き合う形で、すでに権威となった理論に抗う力としての批評意識について語る。

そして最後に著者は、サイードの批評意識が現実の世界へ向けられた例として、パレスチナ問題』『パレスチナとは何か』という二冊の本を読んでいく。これまで深く読み込んで来た文学批評や制度批判の視線が、ここでパレスチナという問題に結びつく。

 

 

以上、乱暴にまとめてしまったが、本書の内容はこのように要約できるほど単純なものではない。全体で200ページ程度と短いながらも、ここではエドワード・サイード本人のテクストと、彼が研究した様々な文学者や思想家のテクストがふんだんに引用され、多彩なテーマについての濃密な分析が行われている。

そして冒頭に記したように、とても痛ましい状況の中での執筆・刊行となったことにより、著者の祈りのような真摯さが感じられる本となっている。

 

次の一冊

 

冒頭でも紹介した過去記事ですが、こちらは三人のモダニズム作家を題材にした、著者の本格的な文学研究。本書に興味を持った方はぜひチェックしてほしいです。

エドワード・サイード』第一章で大きく取り上げられているコンラッド『闇の奥』についても、以前当ブログで紹介しました。

 

そのうち読みたい

 

こちらは中井亜佐子による、コンラッド『闇の奥』にフォーカスした本。また「読書」について考えた本でもあるようです。

 

分厚い上下巻のこちらですが、いつかは読んでみたいですね……