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丹下和彦『ギリシア悲劇 人間の深奥を見る』 理性の価値と、その困難を描いた普遍的な物語

ギリシア悲劇への入門に最適の新書

 

丹下和彦『ギリシア悲劇 人間の深奥を見る』は、2006年刊行の中公新書。著者は1942年生まれで古典学を専門とし、多くのギリシア悲劇を翻訳している。

もともとギリシア悲劇に興味があり、また最近関連する本を読むことも多かったところに、ちょうどロシア文学者で西洋演劇史を教えている上田洋子がこの本を紹介していたので読んでみた。

本書はまずギリシア悲劇とは何か」と題された序章で、ギリシア悲劇についての基本的な事項を紹介し、その後に続く各章で計11本の作品を実際に読解していくという構成になっている。

 

序章において、著者はギリシア悲劇の特性として、〈宗教性〉〈文芸性〉〈社会性〉の三つの要素を挙げている。

まず〈宗教性〉だが、まずギリシア悲劇というものは、葡萄酒の神ディオニュソスを祀る大ディオニュシア祭において、アテナイのアクロポリスにあるディオニュソス神殿にて上演されるものである。その起源についてははっきりとはわかっていないものの、少なくともディオニュソスを祀る儀礼、その際の合唱と関連があるらしい。ほとんどの作品がギリシアに伝わる神話を題材にしていることも含めて、悲劇はもともと宗教的な起源をもつということだ。

続いて〈文芸性〉について。ギリシア悲劇が発展するにつれて様々な工夫が生み出される。まず当初は合唱隊による合唱のみで構成されていたところに、悲劇の祖とされるテスピスという人物が、台詞を話す俳優という概念を導入した。最初は一人だけだった俳優の数は、やがて三人となり、この人数はギリシア悲劇の全歴史を通じて守られることになる(登場人物が多い場合は、この三人が複数の役を演じる)。

また他にも役柄を表す仮面の着用、背景画や様々な舞台設備の発展、合唱と対話が交互に行われる劇の構成など、様々な要素が発明されていく。最古の悲劇論とされるアリストテレス詩学においては、もはや悲劇の宗教的要素についての言及はなく、もっぱら文芸、芸術として悲劇が語られるという。

最後の〈社会性〉とは何かと言えば、つまり古代のアテナイにおいては、悲劇の上演そのものが社会の構成において大きな役割を果たしていたということだ。

大ディオニュシア祭における悲劇の上演は同時に悲劇競演会という競技であり、これは国家が主催し、アテナイ全市民が参加する行事だったという。合唱隊には市民から選ばれた者も参加し、競演会の優勝作品を決める審査員も市民たちから選ばれる。
そしてここで上演される悲劇の内容は、当時のギリシアの人々の精神と密接に結びついたものだった。

 

前四八〇年に来寇したペルシア軍を破ったギリシア、なかでもアテナイは、以後約半世紀にわたって繁栄を謳歌することになるが、その文化的社会的躍進の原動力として彼らアテナイ市民が認識していたのは、自らに固有のものと自認する〈自由〉〈法〉〈勇気〉〈知〉という四つの価値観だった。わたしたちはこうした価値観のさまざまな形での表出を、共同体の伸長とともに発展してきた悲劇という芸術ジャンル、その各作品の中に看取することができる。悲劇は市民の精神生活を写し出す鏡となったのである。

(「序章 ギリシア悲劇とは何か」より)

 

古代ギリシアの人々は自分たちの精神のありようを悲劇として表現し、またその上演を通して社会の紐帯を形作っていったのだ。

 

ギリシア的な価値を表現する作品たち

 

さてこの後、本書は具体的な作品の紹介と読解に入っていく。取り上げられた全作品について、基本的な筋立てが詳しく解説されるので、もともとの作品を読んでいなくても問題ない。

本書の前半で読解されるのは、先の引用にもあった、アテナイ市民が自らに固有のものとしていた価値、すなわち〈自由〉〈法〉〈勇気〉〈知〉などを表現する作品たちだ。

 

例えばペルシアとの戦争を題材としたアイスキュロスペルシア人では、ペルシア軍を撃退し、大帝国への隷従を免れたギリシア人たちの〈自由〉の観念が、異国人であるペルシア人との対比の中で称揚される。

また親から子へ受け継がれる復讐の連鎖を描いた、同じくアイスキュロス『オレステイア』三部作(『アガメムノン』『供養する女たち』『慈しみの女神たち』)では、「目には目を」という氏族社会の秩序に沿った復讐行為が、最後にはアテナイの〈法〉によって調停される様を描く。父の仇を討つために実の母を殺したオレステスは、そのことによって自身が復讐の対象になるが、最後にはギリシア社会に確立された「法の正義」によって罪を免れる。

そしてソポクレス『アンティゴネにおいては、人間的な迷いを抱きつつも死者の名誉のために戦うアンティゴネの英雄的な姿が、同じくソポクレスのオイディプス王においては、苛酷な運命に対しても知ることを恐れない〈知〉の価値が描かれる。

 

神の気まぐれとしか思えないような理不尽で苛酷な運命そのものは、オイディプスは問題にしようとしない。神の計画そのものを非難することはせず、その計画に知らずして乗せられて犯した我が罪を、彼はすべて引き受けようとする。ただ恐ろしい禍に遭うために生かされてきたその身を全的に肯定するのである。神の強大な力を知りつつも、また神に憎まれた存在であることを知りつつも、なお生きて禍=罪の意識に堪えようとするところに、わたしたちはオイディプスの人間としての存在理由を見出すことができるように思われる。

彼は、すべてが解明され神の計画が明らかになったとき、知の象徴としての目を潰す行為(未熟な知への懲罰)に出た。このことは、そこで彼が神に 帰依し、神への信仰に一挙に走るのではなく、自分を知の地平に置くことで人間としての我の存在の証しを立てようとしたことを意味している。いわば世界を知の地平から捉えようとするのである。世界を人間の理性の中に取り込もうというのである。たとえ自分が神の手になる世界構造に繰り込まれている身であるとしても、その中に自らの位置を設定しようとするのである。神だけで計画し、事を成就し、結末をつけることは許されない、世界の出来事を神だけの手に委ねることは許さない、というのである。人間の未熟な知による過失をわざわざ持ち出し、その責任を取ろうというのである。オイディプスがこのあとも惨めな姿を晒し続けること自体が、理不尽な神の計画に対する無言の非難であり、異議申し立てであり、また神に対する人間存在の不逞な自己主張でもあると言えるのではないか。

(どちらも「第四章 知による自立 ソポクレス『オイディプス王』」より)

 

アテナイ社会の翳りと知の衰退

 

このように、本書の前半では、古代のギリシア人たちが生み出した様々な価値や理念が輝かしく打ち立てられる様を眩しく見ることができるが、しかし後半になるとその様相は変化する。

紀元前5世紀はじめ、ギリシア世界はペルシアを撃退しその全盛期を迎えたが、その時期は50年ほどで翳りを見せ始める。シチリア遠征における敗北やギリシア都市国家間における内戦(ペロポネソス戦争)などがアテナイの国力を弱め、同時に社会においても、先に述べたような理念が信じられなくなっていく様が、当時の作品に記録されているのだ。

 

後半の主役になるのは、「人をありのままに描く」と評されたエウリピデスだ。『メデイア』『ヘレネ』『キュプロクス』『オレステス』『バッコスの信女』といった作品が紹介されるが、ここでは理性に対する非理性的なものの力、伝統的な価値観の衰退、法秩序への反乱などが描かれる。

ここには本書の前半に見られたような、ギリシアの伝統としての理念や価値、そして知性への信頼はすでにない。いくつかの作品においては、ホメロスが描いたオデュッセウスの冒険やトロイア戦争への批判や揶揄すら登場するのだ。社会状況の変化によって、かつて信じられていた価値が失墜していく様は、現在の私達にとっても非常にリアルに感じられる。

 

本書は、前5世紀という100年間のアテナイの精神史を刻んだものであるギリシア悲劇が、その地域性と歴史性にとどまらない普遍性をもつゆえに、多くの人々に読まれ続けていることを確認して終わる。

ここに収められた11篇の作品は、さすがに2000年以上にわたって読み継がれているだけあり、その物語だけ見ても大変に面白く力強いものだ。本書は各作品の筋立てを詳細に語ってくれるので、それを知るだけでも十分に楽しめるだろう。その上で、これらの作品に込められた理念と価値、そしてその受け皿となる社会の変化の有様は、確かに現在の読者にとっても切実なものだと思う。

 

次の一冊

 

ギリシア悲劇のいくつかは文庫で手軽に読むことができる。

ちくま文庫ギリシア悲劇』シリーズは全4巻で作者別。

 

pikabia.hatenablog.com

過去記事で紹介したこちらでは、法の起源としてのギリシア悲劇の読解を読むことができる。

 

そのうち読みたい

 

丹下和彦の、ギリシア悲劇に関する単行本。