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木庭顕『誰のために法は生まれた』 徒党の解体と自由な個人〜法の根源を探る特別授業

法学者と中高生がともに古典を読む授業の記録

木庭顕『誰のために法は生まれた』は、ローマ法を専門とする法学者による法学入門の本だが、普通に書かれた入門書ではない。

これは中学三年から高校三年までの生徒を集めて行われた、全5回の特別授業の記録なのだ。しかもそれは、教師が一方的に喋る授業では全くない。

これらの授業は、著者から質問が矢継ぎ早に投げかけられ、生徒たちがそれにどんどん答えていくという、活発な掛け合いによって行われるのである。

 

授業の題材は主に映画や戯曲で、第1回から順に以下の通り。

以上4回の授業の後、最終回では実際の日本の判例が題材となる。

 

さて、なぜ法について学ぶ際に、このような映画と戯曲を題材にするのか?

著者によれば、あらゆる法の根源は古代ギリシアとローマにある。現在私たちが使っている法というものは、のちのヨーロッパが古代の法を再発見し、それを再解釈・再構成したものなのだ。

そしてそれゆえに、古代ギリシアの戯曲には、法の根源となる概念がそのままの形で残されているのだという。

最初の二回で見る二本の映画は、いわばそれを読むための地ならしである。後半の授業で読むことになるような根源的な物語を、傑作と名高いこれらの古典的な映画は備えているということだ。

 

生徒たちはまず映画を見、あるいは戯曲を読んでから授業に臨む。(本書では、映画や戯曲のおおまかな内容が授業部分の前で説明される) そして著者は彼らに向かって、劇中で起こったことについて質問していく。

ただし、ここで生徒たちが問われているものは、決して知識ではない。そもそも中高生なので、法や社会についての知識がそうあるわけではない。著者が生徒たちに尋ねるのは、劇中の出来事や登場人物たちの行為に対し、一体何が起こったのか、彼らはなぜそうしたのか、その時何を感じていたのか、ということである。

ここで生徒たちに求められているのは知識ではなく、飽くまでも直感というか、彼らがこれまで生きてきた経験に基づく感覚だ。そしてこれがこの本の最もエキサイティングな部分だが、著者は生徒たちのその直感、感覚によって導き出されるものの中から、法そのものの根源を取り出してくるのである。

以下は、ソフォクレスの悲劇『フィロクテーテース』において、オイディプスの命でフィロクテーテースを騙そうとしていたネオプトレモスが、オイディプスに背くシーンについての対話。

 

Tさん、ネオプトレモス君は戻ることにしたんですが、戻るというのは、ネオプトレモスにとって、何の立場から何の立場に、戻るないしは移ることを意味しているのか。つまりネオプトレモスはそれまでは何のつもりでやっていたのが、 今度は何をしようと急に考え方を変えたのか。わかった?
──……
最初はフィロクテーテースを騙そうとした。今度は? ゆっくり考えてみて。
──なんか、騙して連れてくるんじゃなくて、本当のことを言って……。
すばらしい、それでいい。「本当のことを言って」というので完璧な答えだ。
(中略)
本当のことを言うってどういうことかなあ。どういうことだ?
──心を許す。
心を許す、悪くないな。O君、本当のことを言うってどういうこと?
──自由になった。
お、それはどういう意味?
──えっと、オデュッセウスに縛られていた。支配されていて、自由を縛られていて、その上でやっていたのが、オデュッセウスの家来じゃなくて、自分一個人として、なんていうの、呪縛をバッと。
おおー、すごい、これは、君たちの言葉を使うと、鳥肌が立つってやつだな。
これは想定していなかった。想定しているよりも、もっといい答えが出てきちゃった。
すばらしいね。本当の言葉というのは自由な言葉。これはメモしておいてもいいくらい。その通りだ。
T君、オデュッセウスの何に対して従属している? もちろん権威に従属しているところもあるけど、もうちょっと具体的に言うと?
──力?
うん。ここに言葉っていうのがあるんだけれど、これに力が加わって、従属していた。しかしそうでない言葉に転換した。いままでも言葉を使っていた、だけどそれはオデュッセウスに従っていた。オデュッセウスからああ言え、こう言えと言われてその通りに言っていただけだ。だからここをズバーッと切って、自由って言葉さえ、O君は発見できている。
(中略)
つまり、自由が問題なのだけれど、必ず何から自由か、と考えなければいけない。それで何から自由かというと、ネオプトレモスに加担しろと言っている、いつもの集団の利益交換だね。ここからの自由だ。集団の利益交換のロジックが策略になっている。これをシャットアウトできるかどうか。これがこの言葉の問題だ。
T君に何をきいていたかというと、利益交換の言葉から、自由な言葉に移ったと。後者が本当の言葉ってやつだ。これで初めて言葉が機能する、とギリシャ人は考えた。

(木庭顕『誰のために法は生まれた』「第四回 見捨てられた一人のためにのみ、連帯(政治、あるいはデモクラシー)は成り立つ──ソフォクレスの悲劇」より)

 

徒党の解体、そして自由な個人

 

では、著者が古代ギリシアとローマから取り出してくる法の根源とは何か。

それは、法とは集団から個人を守るために生まれたということである。著者はそのような法の目的を、「徒党の解体」という言葉で表現する。より多くの利益を得るための、権力を持った不透明な集団が「徒党」であり、そのような徒党を解体して個人を守ることこそが、古代ギリシア人が成立させた「政治」の本質なのである。

また古代ローマにおいては「占有」という概念が発達する。占有とはある人とあるもの(あるいは人)との関係の質に関わる概念であり、あるものを自分のものだとして二者が争った際に、その関係の質が高い方に「占有」が認められる。そしてそのものについての権利を暴力的な手段で主張しようとする者は、たとえどんな理由があろうともその時点で「占有」の資格を失うのだ。

あるいはデモクラシーの問題点について。民主的な手続きは時に集団を形成し、デモクラシーという手段を用いて利益を独占することもある。つまり前述の「徒党」だ。そのような「徒党」に陥らない真の連帯の姿として、ソフォクレス孤立した個人によってのみ成立する連帯を描く。

 

このようなものが著者の言う法の起源であり、それこそが本書の最も重要なテーマだが、しかし最後の授業において、私たちはそれが現在の日本では十分に法制度に反映されていないということを知る。

昭和40年と昭和63年の実際の判例を生徒たちとともに読んでいく最後の授業は、その判決において前述のような法の理想が達成されなかったことを知る苦いものだ。

それでも、現在も力を失わない古典の数々から法の根源を引き出し、その理念と現実の両方を生徒たちに伝えようとするこの授業はとても清々しい。ぜひ多くの人に追体験してほしいと思う。
 

精神の自由は、公共の福祉との兼ね合いを考えてはいけない。比喩的に言うと、たとえ国民全員に不利益が及んでも、その人権は守らなければいけない、ということになります。これが狭い意味の人権です。そういう人権は、 ちょっとでも傷つけられてはいけない。ナンバーワンで絶対に動かないのは精神の自由。次に身体の自由。身体も神聖不可侵で、絶対にこれも傷つけてはいけない。だから学校でも体罰アプリオリバツなんだよ。
もう一つ絶対的なものとして、言論の自由がある。自由な言葉が政治の根幹で、政治がすべての土台だから。その一つに、政治的な意味の表現の自由があります。これと区別されて、精神の自由と不可分の表現の自由があります。精神は記号行為を必要とします。具体的な媒体とこれを受け取る人々を一人ひとりに与えなければなりません。フィロクテーテースには、ギリシャ語の音を出すための自然的リソースと、これを受け取る他の人格が不可欠です。せめて音をこだまで返す自然がなければなりません。表現手段と受け取り手が具体的に与えられていなければ、精神それ自体が死んでしまうのです。

(「第五回 日本社会のリアル、でも問題は同じだ!──日本の判例」より)

 

次の一冊

 

授業で取り上げられた古典の中でも特に印象深いのが、このソフォクレスアンティゴネー』。裏切り者となった兄を埋葬しようと孤独に戦うアンティゴネーの姿に、「たった一人のためだけに成り立つ連帯」が読み取られる。

 

そのうち読みたい

 

こちらは歯応えがありそうだが、木庭顕の専門であるローマ法の入門書。