もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

,

星野太『食客論』 他者との「共生」という難題を、食事から考える哲学的エッセイ

他人と生きることが得意でない私たちの、「共生」の問題

 

 

美学を専門とし、特に「崇高」をテーマとした哲学書をデビュー以来続けて刊行してきた1982年生まれの著者、星野太の初めての一般書と言える食客論』は、しかし一風変わった本だ。

雑誌『群像』の連載をまとめたこの本は、強いて言えば哲学的エッセイという感じの書き物だが、そのテーマはタイトル通り、食客である。

聞いたことがないではないが、あまり馴染みのないこの言葉をテーマに、いったいどのような「論」が展開されるのだろう? そんな疑問を胸に本書を開いた私たちを迎えるのは、このような鮮烈な書き出しである。

 

他人と生きることが得意ではない。

(「第一章 共生」より)

 

あっ、そう来ますか! なるほど! それで?

続きを見てみよう。

 

他人と生きることが得意ではない。

 

そのような感覚をもつ人は、おそらく珍しくないように思う。ほかならぬわたしもそのひとりである。だれかと生活を共にすることにはいくばくかの喜びがともなうが、そのためには同じくらいの、 時にはそれ以上の苦しみがともなう。 また、人生のさまざまな場面で他人とうまくやっていくことは、もちろんそれなりに必要なことだとはいえ、そこには名状しがたい泥のような労苦がともなうことも事実である。

(同上)

 

もし、ここまでの引用に全く共感しないという方がいれば、この本を読む必要は無いかもしれない。「他人と生きることが得意ではない」というテーゼは、この本の記述全体を貫く中心線だからだ。

しかし、ここまででぐっと引き込まれた読者に対しても、まだ「食客」が何なのかは説明されない。

著者はまず、「共生」という言葉について話し始める。いわく、近年においては例えば「共生社会」や「多文化共生」のような形で、「共生」という言葉が目指すべき目標のように語られることがある。しかし著者に言わせれば、「共生」は目標などではない。そもそも人間は一人で生きていくことはできないのであり、様々な形で他者と「共生」することは、生存のためには避けられないことだからだ。「共生」とはすでに所与の条件であり、そこで問われるべきことがあるとすれば、それは「いかに共生するか」という問題だろう。
 

ロラン・バルトの考える理想的な共生のリズム

 

ここで話題が転換し、哲学/現代思想の本らしい名前が登場する。構造主義を代表するフランスの思想家、ロラン・バルトだ。著者はバルトが晩年に行った、その名もまさに「いかにして共に生きるか」と題された講義の記録を見ていく。

その講義においてバルトは、彼が考える望ましい共生のあり方として「イディオリトミー(理想的なリズム)」という言葉を提示する。これはギリシアのある修道院で行われている特殊な生活方式を指す言葉なのだが、そこでは「孤独とも集団生活とも異なる「中間的な」リズム」が目指されるのだ。

この「中間的な」共生のあり方というのが、本書が全編を通じて追い求めるテーマのひとつとなる。人は一人では生きられない。しかし集団生活は時に労苦をともなう。ゆえにその中間、「孤独とも集団生活とも異なる「中間的な」リズム」が必要なのだ。

 

とはいえバルトは、その修道院で彼の言う理想が実現されているとか、それを私たちが実践できるなどと言っているわけではない。そこで語られているのは、飽くまでもひとつの「幻想(ファンタスム)」である。

著者はありうべき共生の姿を様々に模索するバルトの講義を追いながら、そこにしばしば現れる、食事についての言及に注目する。先の修道院においても、修道士は自分の好きなタイミングで食事をすることができるということが重視されていた。またバルトはこうも言う。

 

個人的な例を挙げましょう。〈共生〉の耐えがたいイメージ、わたしにとってそれは、レストランで隣の席に座っている感じの悪い連中とともに、永遠に閉じ込められるということなのです。

(同上、ロラン・バルトの講義の引用部分)

 

なんとも極端な例だが、著者はこのような言葉の数々から、バルトにおいて食事という場面が「共生」にまつわる重要な局面のひとつであると考える。

確かに、他者とともに過ごす場合に食事の場が重要となるのは、一般的な印象からしても納得できる。「同じ釜の飯を食う」や「一宿一飯の恩義」などとも言うし、「共生」と「食事」には確かに関係がありそうだ。

 

友でも敵でもない、曖昧な他者

 

しかし著者は、例えば食事を共にする者を「友」と、共にしないものを「敵」とするような単純な二分法には注意を促す。バルトの言うような「感じの悪い連中」と私たちの間には、もっと繊細な関係があるのだ。

 

すれ違いの場としての公共空間。それは飲食を提供する店内であったり、はたまた都市の路上であったりする。そうやってわれわれは、見知らぬ他人としばし時間と空間を共にする。それは、街を行き交う人々が日頃あたりまえに行なっていることである。

同じことが、食事の場面にも当てはまるのではないだろうか。つまり厳密には、食事を共にする「われわれ」と、その環から外れた「それ以外のもの」がいるのではない。むろん、この二つの集団は、通常さまざまな仕方でフィルタリングされている。だが、たとえ同じ皿を囲んでいなくとも、見知らぬ他者がある会食の場に居合わせてしまう」ような状況はいくらでもあるだろう。

じっさい、友と敵を、あるいは身内と他人を分かつ場としての食卓という発想は、現実に照らし合わせてみれば粗雑きわまりないものである。友/敵の二分法を中心的なモティーフとするカール・シ ユミットの理論にしてもそうだが、友と敵を分かつことが政治の核心にあるなどということを、われわれはどこまで真面目に強弁しうるだろうか。われわれを取り囲む他者の多くは、友でも敵でもない、あるいはそのいずれでもありうるような曖昧な他者ではないだろうか。そして、われわれのテーブルもまた、友でも敵でもない、曖昧な他者たちに取り囲まれている。これらのものは時と場合によって、それと気づかれぬまま、その場に同席していることすらあるのだ。

(同上)

 
第一章ラストのこの部分で、ようやく本書のタイトルの意味が明かされる。われわれのテーブルを取り囲む、友でも敵でもない、曖昧な他者。つまりそれが「食客」なのである。

避けがたい現実としての「共生」、その重要な局面としての食事、そしてバルトが夢見た理想的な共生のリズムである、「孤独とも集団生活とも異なる「中間的な」リズム」。

ひょっとしたらそれらの問題を解く鍵になるかもしれない概念である「食客」の姿を、本書は『美味礼讃』のブリア=サヴァラン古代ローマキケロ、さらに遡って古代ギリシアディオゲネス、そして九鬼周造北大路魯山人までの、古今東西の書物の中に探っていくのだ。

 

なお、あらかじめ言っておけば、この本を最後まで読んでみても、いったいどうすれば他者とちょうどいい感じで共生できるのか……という答えは書いてはいない。

当たり前のことだが、そう簡単に答えが見つかるような問題ではないのだ。

その代わりに、著者は前述のような様々なテキストを渉猟して、食事のテーブルにおける「友でも敵でもない、曖昧な他者」のあり方を探っていく。

予想外の人物やエピソードが次々と現れ、そしてそれらの読解が、また次の意外なテキストの登場に繋がっていく著者の話術はとても巧みだ。そして「共生」にまつわるそのテーマは、私たちの多くにとって切実なものだと思う。

個性的な先人たちの様々なエピソードを楽しみつつ、他人とつき合うことをどうにか受け入れるための、ゴールの無い思考の遍歴をぜひ体験してもらいたい。

 

そのうち読みたい

 

崇高のリミナリティ

崇高のリミナリティ

Amazon

 

著者・星野太のこれまでの著書の数々。どれも歯ごたえがありそうだがぜひ挑戦してみたい。

 

本書の中で取り上げられていた本の中でも有名な一冊。やはり面白そうなので読んでみたい。

 

次の一冊

 

すれ違う人々と共にする食事、ということで思い浮かんだのがこの2冊。いずれもが表象文化論の研究者によるアメリカ滞在記。(ちなみに『食客論』の星野太も表象文化論系)

前者でも食事の場面は多く書かれるし、後者は食事そのものがテーマ。