もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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ディディ=ユベルマン『場所、それでもなお』 強制収容所の歴史を表層/外観から読み取ること

著者の代表作『イメージ、それでもなお』に連なる論文集

 

現代フランスの、哲学的な美術史家とでも呼ぶべきジョルジュ・ディディ=ユベルマンの代表的な書物にイメージ、それでもなおがあるが、その内容に関連した3篇の文章を集めた日本独自の論集が、今回取り上げる『場所、それでもなお』だ。

 

 

『イメージ、それでもなお』は、アウシュヴィッツに関する本である。かの収容所では、虐殺されたユダヤ人の遺体は同じユダヤ人によって処理させられていた。その任に就かされた者は「特務班員(ゾンダーコマンド)」と呼ばれるのだが、その一人がある時、決死の覚悟で4枚の写真を撮影した。その写真は、あらゆる痕跡が証拠隠滅のために破壊された収容所についての、希少な視覚的記録として後世に残された。この本は、それらの写真の分析と、それについての激しい論争についてのものである。

かくいう私は著者ディディ=ユベルマンの本は何冊か読んでいるものの、この『イメージ、それでもなお』は未読である。それはなかなか読む勇気が出ないためでもあり、現在品切れ中で古書価格が高騰しているためでもあるのだが、そんな折に刊行されたこの論集『場所、それでもなお』は、総ページ数が200ページ弱と少ないこともあり、同じテーマに対する入門編となるだろうと期待して手に取ってみたのであった。

(なお最初に断っておくべきだろうが、本書はアウシュヴィッツで起こった残酷な出来事が直截に、克明に描写される種類の本ではないものの、それでもやはりその出来事についての本である。もしそのような内容に対して距離が取れないと感じる向きにはお勧めはできない)

 

二本の映画『ショアー』『サウルの息子』についての文章

 

収録されている3つの文章を順に紹介しよう。本のタイトルにもなっている最初の文章「場所、それでもなお」は、クロード・ランズマン監督による、ホロコーストに関するドキュメンタリー映画ショアー(1985年)の分析だ。関係者へのインタビューによって構成されているこの映画において、「場所」がどのように示され、その「場所」がどのような力を持って表現され、我々に訴えかけているかを著者は読み解いていく。

紹介の順番が前後するが、最後に収められた文章「暗闇から出ること」もまた映画に関するものだ。こちらはネメシュ・ラースロー監督による、収容所のゾンダーコマンドを主人公とした劇映画サウルの息子(2015年)についてのもの。ここでは監督への書簡体の形で、カンヌ映画祭のグランプリともなったこの映画が、いかに映像と物語の両面において収容所の経験を見事に語っているかが述べられている。

 

なお私自身はここで取り上げられた2本の映画を見ていないのだが(そして正直言って今後それらを見る勇気が持てるとも思えないのだが)、これらの文章は映画のありようをとても雄弁に伝えてくれ、そこで映し出されるものが何であるかを非常に印象深い形で語ってくれている。これらの文章を読むにあたり、実際に映画を見ているかどうかはあまり気にしなくていいだろう。

 

アウシュヴィッツ探訪の記録「樹皮」

 

最後に紹介したいのが、2番目に収録された「樹皮」だ。これは著者自身がアウシュヴィッツ=ビルケナウを訪れた際の記録であり、著者自身の撮影による写真が添えられた断章形式のエッセイである。(「アウシュヴィッツ」と「ビルケナウ」は隣接し合う地域であり、アウシュヴィッツ第一、第二収容所がそれぞれの場所の存在した)

著者ディディ=ユベルマンは、自身の祖父母もまた収容され命を落とした場所であるアウシュヴィッツ=ビルケナウを初めて訪れ、そこで感じたことを率直に語っていく。

そこで語られるのは、決して過去の巨大な出来事そのものではない。著者は目に入った様々な細部に注目し、写真を撮り、それが呼び覚ますものを注意深く探っている。

注目されるのは例えば、博物館と化した施設やそこに据えられた土産物屋の様子であり、また見学順路を示す看板や壁に描かれた記号などである。また著者がアウシュヴィッツからビルケナウへ移動すると、そこは見学者向けに整えられてはおらず、ただ道路や柵、森、むき出しの地面がある。著者はそういった何気ない、しかし恐ろしい歴史を秘めたものを写真に収め、そこから自分が受け取った印象を掘り下げていく。

 

有刺鉄線の近くを歩いているときに、一羽の鳥が私の近くにとまりにやってきた。すぐ横だが、しかし反対側に。柵などものともしないこの動物の自由さにおそらく感動して、私はあまり考えずに写真を一枚撮った。エヴァ・ブローヴァという、一九四四年一〇月初旬にこのアウシュヴィッツで亡くなる子供が、一二歳のときにテレージエンシュタットの収容所で一九四二年に描いた蝶の記憶が、おそらく私の心をよぎったのである。しかし、今日このイメージを見つめながら、私はまったく別のことに気づく。その背景には、電流が流れる収容所の有刺鉄線が延び広がっている。その金属はすでに錆で黒ずんでいて、前景の有刺鉄線にはない非常に特殊な「編み方」で配置されている。前景にあるものの色――明るいグレーだ――から、それらが最近設置されたことが分かる。

それを理解するだけですでに、心が締めつけられる。それが意味しているのは、「野蛮の場」(収容所)としてのアウシュヴィッツが、一九四〇年代に奥の有刺鉄線を設置したのに対して、前景のものは、「文化の場」(博物館)としてのアウシュヴィッツによって、もっと最近になって配置されたことである。どのような理由によってであろうか。有刺鉄線を「地方色」として用いて、来場者の流れを導くためであろうか。時間がたって痛んだ柵を「復元」するためだろうか。私には分からない。だが私は、この鳥がおそろしく異なる二つの時間の間にとまったと、空間と歴史の同じかけらを管理するまったく違う二つの方法の間にとまったと、まさに感じたのである。鳥は、知らず知らずのうちに、野蛮と文化の間にとまったのだ。

(『場所、それでもなお』所収「樹皮」より)

 

著者は自分自身の知識、多くの記録を見聞きして知ってる歴史的な事実と、目の前で見たものの様子、それが呼び覚ますものを同時に語っていく。

ディディ=ユベルマンの仕事は、イメージの考古学と言われることがある。彼は美術作品やその他さまざまなイメージや表層から、そこに潜在しているものを探る。精神分析理論やベンヤミンによるイメージの哲学に影響を受けたその議論は、ともすれば目に見える表面からありもしないものを読み取っているように見えるかもしれないが、しかしそれはイメージが呼び起こす無意識や歴史的な記憶を、できるかぎり繊細にとらえようとする試みなのだと思う。

この文章のタイトルとなっている「樹皮」とは、著者がビルケナウという地名の由来ともなった白樺の樹から剥ぎ取ってきた樹皮のことであり、そして同時に、著者が注目する対象であるイメージや表層の比喩でもある。

 

樹皮は、幹に劣らず真正なものである。あえて言うなら、まさに樹皮によって、木は自分を表現するのだ。いずれにせよ、樹皮はわれわれの前に現れる。それは、出現によって現れるのであって、単なる外観によってではない。樹皮は不規則で、不連続で、でこぼこしている。ここでは樹皮は木にしがみつき、あちらでは崩れてわれわれの手に落ちる。樹皮は、事物そのものに由来する不純さである。樹皮は、あらものの不純さ――偶然性、多様性、豊富さ、相対性――を語るのである。樹皮は、はかない外見と残存する書き込みの境界領域のどこかにある。あるいは樹皮は、われわれ自身の生の決定が書き込まれた外観、われわれが被ったり突き動かされたりした経験が書き込まれた外観、それらの決定と経験の残存するはかなさをまさに指し示しているのである。
(同上)

 

この部分には、ディディ=ユベルマンの哲学/美術史の基本的な考え方が簡潔に示されている。物事の不純さや偶然の産物を含む、樹皮のような外観/表面は、その内側の「幹」に劣らず「真正なもの」なのであり、そして著者にとっては歴史というものもまた、そのような不純な外観によって語られるべきものなのだ。

ゆえに著者は、自分自身の来歴をも含む歴史、収容所という重大な歴史についても、ひたすらその外観──実際に見、そして写真に撮った光景、すなわち「樹皮」を手掛かりに考えようとするのだと思う。そのような形の真摯さや倫理もあるのだということが、この短いエッセイからは強く伝わってくる。

 

そのうち読みたい

 

上述の通り、ディディ=ユベルマンの代表的な書物にして、アウシュヴィッツで撮られた写真についての本。これらの写真についての著者の立場に対しては、『ショアー』の監督ランズマンらから激しい批判が向けられたといい、この本はその批判に対する反論でもある。問題は収容所の「表象不可能性」(収容所は表象しえない場所であり、それゆえ表象されてはならない、という考え)についてであり、その内容については『場所、それでもなお』の解説においても相応の紙幅を割いて説明されている。

 

次の一冊

 

ディディ=ユベルマンはかなり特殊なタイプの美術史家だが、アビ・ヴァールブルクベンヤミンを引き継ぐその基本的な思想を記した大著。(たいへん分厚い本なので私もまだ読破していません)

 

著者の美術史の実践のひとつ。古代からの西洋絵画に現れるニンフが、やがて地面に倒れ伏し、その身に纏っていた白い布だけが地面に落ち、形を変えてイメージの中で受け継がれていく、というまさに異色の美術史である。

 

ディディ=ユベルマンが大きな影響を受けているのがベンヤミンのイメージ論。特に、相反するものがひとつの形象の中でせめぎ合いながら同居しているという「イメージの弁証法は重要な概念だ。