もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

,

スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』 私たちは戦争と暴力の映像をどのように見ているのか

著名な批評家による、戦争やテロリズムに関する写真論


スーザン・ソンタグは1933年に生まれ、2004年に没したアメリカの作家・批評家である。反解釈写真論などの著書、あるいは「キャンプ」という美的概念の定義などでよく知られている。(小説も書いていますが私はまだ読んだことないです)

今回紹介する批評的エッセイ『他者の苦痛へのまなざし』は原著が2003年に刊行されているので、最晩年の書ということになる。

 

邦訳書で本文が120ページ程度というごく短いこの本の主題は、戦争やテロリズムを被写体とした写真、あるいは映像についてだ。1960年代から批評活動を行い、1977年に同じく写真を扱った『写真論』を刊行した著者が、その後のメディア環境の変化を踏まえた上で、写真や映像における暴力の表象、そしてそれを見るわれわれの反応について改めて考えた本と言えるだろう。2003年に刊行されたこの本では、2001年の米国同時多発テロ、そして90年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争についての話題が特に多く取り上げられる。

 

ヴァージニア・ウルフの『三ギニー』で取り上げられるスペイン内戦の写真の話から語り起こされるこの本は、写真や映像、あるいは絵画における戦争や暴力の表現の歴史を簡潔にまとめていく。古くはギリシア彫刻やキリスト教美術にも苦痛の表現があったが、本書のテーマと関わりが深くなるのは17世紀のジャック・カロ、そして19世紀のフランシス・ゴヤによる戦争画からだ。戦争の惨禍を伝えるという役割はやがて写真に引き継がれ、戦場カメラマンたちがそれを撮影し、新聞や雑誌によって伝えられる。そしてやがてはテレビやインターネットがそれに加わるだろう。

表象の歴史を追いながら、ソンタグはそれに課せられた役割や条件についても指摘していく。例えば写真は絵画と違い事実の記録であるが、撮影するという行為には常に作為が伴っている。広く知られ、世界に影響を与えた戦場の写真の中にも、「やらせ」であるものが含まれている。

あるいは、写真が何かを「見せる」という行為は、何かを「見せない」という行為と表裏一体であること。我々は写真や映像を見る際に、「そこに写っていないもの」「あえて写されなかったもの」について考えないわけにはいかない。こういった、写真や映像についての基礎的とも言える批評的観点は、芸術批評の分野で特に知られるソンタグならではのものだ。

しかし、一読して印象に残るのは、そしておそらくこの本にとってもっと重要なのは、それらを踏まえた上での別の部分だ。この『他者の苦痛へのまなざし』という短い本の全編を通じて問われているのは、「そのような戦争と暴力の映像を見た私たちは、一体どのように感じれはいいのか」ということなのだ。

 

事実、現代の生活は、写真というメディアをとおして、距離を置いた地点から他の人々の苦痛を眺める機会をふんだんに与え、そうした機会はさまざまな仕方で活用される。残虐行為の写真は、対立する反応を引き起こすかもしれない。平和への呼びかけと報復への呼びかけ。あるいは単に、恐ろしいことが起こるものだという呆然とした意識。それは映像の情報によって絶えず補強されている。

(中略)

胸をえぐるような写真を見せられるかもしれないと思うと、毎朝『ニューヨーク・タイムズ』に目を通すにはかなりの覚悟がいる。

(第一章より)

 

答えのない、困難な問い

 

それは、この本の刊行から20年後に生きる私たちにとっても、いまだに切実な問いである。先に言っておくと、その問いに対する明確な答えはない。ソンタグは問いに答えるのではなく、私たちは何を見せられているのか、私たちが見せられている映像とは何なのか、そのような映像はどのような歴史を経ており、どのような問題を含んでいるのか、そしてそのような映像を大量に見せられた私たちはどうなったのか──そのようなことを、診断するように考え、書いているのだ。

そう、奔流のようにもたらされる、他者の苦痛の映像を前に途方に暮れているのは、20年前のソンタグも同じなのである。この本は、読者と同じようにどうすればいいのかわからないと感じている、写真論やメディア論、芸術批評の第一人者が、一体私たちは何に戸惑っているのか、私たちはなぜ途方に暮れているのか、私たちは何をどう考えればいいのかということを、私たちと一緒に考えている記録なのだ。

 

映像は、距離を置いた地点から苦しみを眺める方法であるという理由で非難を受けてきた。まるでそれ以外に眺める方法があるかのように。しかし近距離で、映像の介入なしに苦しみを眺めることも、眺めるという点では同じである。

残虐の映像にたいする非難の或るものは、視覚そのものの性質と切り離せない。視覚は努力をともなわない。視覚は空間的距離を必要とし、視覚は遮断することができる。(目蓋を閉じることができるが、耳には蓋がない。)このような性質のために古代ギリシアの哲学者たちは視覚を感覚のなかでもっとも優れた、もっとも高貴な感覚と考えたが、まさにその性質が今やマイナス面と結びつけられている。

写真が提供する抽象化された現実には道徳的に是認できないものがある。人間は他者の苦しみを、距離を置いた地点から生々しさをそぎ落としたかたちで経験する権利はなく、従来賞賛されてきた、視覚のもつすばらしい性質にたいしてあまりに大きな人間的(ないし道徳的)代価──世界のなかの攻撃や侵略から一歩退き、そのために観察をして選択したものにのみ注意を向けることが可能だという──を支払っている。しかしこれは知性そのものの機能を言い換えているに過ぎない。

一歩退いて考えることは何ら間違っていない。何人かの賢者のことばをパラフレーズするならば、「誰かを殴るという行為はその行為について考えることと両立しない」。

(第八章より)

 

次の一冊

 

私が好きなソンタグの本が、この主に美術・芸術に関する批評集土星の徴しの下に』だ。タイトルにもなっている文章はヴァルター・ベンヤミンについてのもの。他にファシズムのイメージがなぜ人を魅惑するのかについて書かれたファシズムの魅力」などを収録。(価格は高騰しているようですが……)

 

そのうち読みたい

 

ソンタグの日記やノートに残された文章を集めたもの。大変評判が良いので気になります。