もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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木澤佐登志『闇の精神史』 目指すべき「未来」のイメージを、失われた過去の中に探る遍歴

ユートピア的な想像力を取り戻す

 

木澤佐登志は、2019年に立て続けに刊行した著書『ダークウェブ・アンダーグラウンド』『ニック・ランドと新反動主義によって注目を集めた気鋭の書き手だ。今回紹介する『闇の精神史』は4冊目の著書となる。(他に共著あり)

アンダーグラウンドな世界や反リベラル的な思潮を扱った初期著作群や、やたらと黒い装丁、また『闇の精神史』の帯コピーである「イーロン・マスクはなぜ火星を目指すのか?」というフレーズなどを見て、この著者の本がアングラな文化や極端な価値観をセンセーショナルに紹介する、ケレン味重視のものに見えている人もいるかもしれない。かくいう私にも多少そう見えていたし、実際そのようにして売ろうとしている節もある気がするのだが、しかしこの『闇の精神史』を最後まで読んでみれば、これが現在の社会に対する危機感によって書かれた、政治的な文化批評の本であることがわかるはずだ。

なお本書は2021〜22年に「SFマガジン」に連載された「さようなら、世界──〈外部〉への遁走論」という文章をもとにしている。

 

著者が最初に言及するのは、近代以降の人間が強迫観念のように、私たちが生きる世界の外部、あるいは来たるべき未来としてのユートピアを求め続けてきたこと、しかしそれが特にソビエト連邦の崩壊以降、いわゆる「歴史の終焉」以降の時代には失われてしまったということだ。

 

ユートピア的な想像力は、この所与の現実を相対化し、変革するための支点として作用しうる。この閉塞した現実の彼方に措定された非在の未来像が、現実変革の実践のための不可欠の契機となる。ところが、「歴史の終焉」に伴うユートピア的な想像力の退化は、もはや現にあるものの乗り越えを意志せず、規定の現実の単なる惰性的な延長の追認に堕する。結果、歴史を断絶する「未知の未来」はどこまでも貧困化され、予測可能で惰性的に流れていく「過去の延長としての未来」に取って代わられる。

(「まえがき」より)

 

ユートピア的な想像力は時に非現実的で突飛なものだが、しかしそれは現実を変革するための重要な契機となるはずのものだった。それが失われた現在、私たちは世界の外部、そして未来を思い浮かべることができなくなっていると著者は述べる。

ここで著者は火星への移住を目指すイーロン・マスクなどが持っている倫理観として、「長期主義」と呼ばれるものを紹介する。長期主義の立場をとる者は、現在の世界ではなく遠い未来における人類の存続を何よりも重視する。彼らは例えば、テクノロジーが進化した世界における、個人の暴走を原因とした人類の絶滅を想定し、それを避けるために厳格な監視社会を肯定するという。著者はこのような立場もまた、世界の変革を目指すユートピア的な未来のビジョンの喪失によるものだとし、そのビジョンを再獲得する必要を述べる。

 

未来を人質に現代社会における抑圧を正当化するのであれば、それは本末転倒でしかない。未来は他ならぬ現在の私たちのために存在しなければならないのであって、逆ではない。未来のために現在を犠牲に捧げ、過去を忘却していくのではなく、むしろ過去から回帰してきた未来を現在の只中に埋め込まなければならないのではないか。しかし、どのようにして?

(「まえがき」より)

 

本書は、この問いかけに端を発する、過去の様々な夢想の探索の記録だ。
もちろん、現在の私たちが信じるに足る未来の姿など、過去の歴史の中にそう簡単に見つかるはずはない。

ここで著者はアーシュラ・K・ル・グウィン「陰のユートピアという言葉を引用する。いわく、かつてのユートピアは「陽」──ひたすら明るく前向きで進歩的なものを志向したが、現行の世界が「陽」であることを装う現在においては、私たちは「陰のユートピア」を目指す必要があるのではないか。「それは暗く、湿っていて、ぼんやりとした、弱く、従順な、受身の、個人参加の、循環性の、周期的な、平和で、愛情こまやかな、退却し、縮小した、冷たいもの」(ル・グウィンの文章より引用)だという。このような曖昧で逆説的な未来のビジョンを頼りに、著者は膨大な過去の出来事の中に分け入って行くのだ。

 

宇宙と不死を目指すロシア宇宙主義

 

以上のように始まった著者の遍歴は、大きく3つの章に分かれている。順におおまかな内容を紹介しよう。

第1章「ロシア宇宙主義──居住区としての宇宙」では、19世紀の帝政ロシアで起こった思想であるロシア宇宙主義が取り上げられる。

「モスクワのソクラテス」と呼ばれた思想家ニコライ・フョードロフによって唱えられたロシア宇宙主義は、人類がいまだ進化の途上にあるという進化論的思考と、死者の復活という宗教的目的、そして宇宙への進出というビジョンを持った特異な思想であった。

この思想は多くの者に影響を与えつつもソビエト時代には抑圧されていたが、ソビエト連邦の崩壊とともに再び存在感を増しているという。また現代において多くのテック系起業家や大富豪が持つというトランスヒューマニズム的な欲望、つまり身体のサイボーグ化やデータ的な不死性の獲得を目指す思考にも、このロシア宇宙主義の影響が見られるというのだ。

そしてロシア宇宙主義は、ロシアの歴史において西欧近代への批判と反発から生まれたスラヴ派、そしてその流れをくむユーラシア主義とも深い関係を持つ。そしてユーラシア主義は現在、プーチン体制下のロシアにおいて新ユーラシア主義として復興しているという。

 

アフロフューチャリズムとアフリカン・ディアスポラ

 

第2章「アフロフューチャリズム──故郷としての宇宙」では、前章との対比のように、抑圧された人々の解放への願いとしての宇宙のビジョンが取り上げられる。

表題にあるアフロフューチャリズムという言葉は、例えば「アフリカン・ディアスポラの歴史性──あるいは記述不可能な非‐歴史性──を念頭に置きながら、表現者たちは寓話によって自身のルーツを定義し直す」などと説明される。16世紀に始まる奴隷貿易による、黒人たちのアメリカ大陸各地への離散(アフリカン・ディアスポラ)の歴史から語り起されるこの章は、彼らが初めから奪われていた故郷を、自らの表現の中で新たに作り出そうとする試みが辿られる。

土星人を名乗り、アーケストラと称する大編成バンドを率いるサン・ラー。宇宙船のイメージに乗せてファンクを演奏したPファンク。ジャマイカのダブ・ミュージックの先駆者の一人であり、魔術と科学の融合を目指したリー・ペリー。そして変死したジミ・ヘンドリックスの意志を継ぐかのように自身の音楽を電化していったジャズの巨匠マイルス・デイヴィス

以上のようなアーティストたちの表現を渉猟した後、本章はダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』やオクタヴィア・E・バトラーの小説などを引きつつ、マイノリティの表現とテクノロジーとの関係について注意を促す。

 

サイバースペースカウンターカルチャーの非政治化

 

そして第3章サイバースペース──もうひとつのフロンティア」において、話題は一気に現代社会へと繋がる。

著者はサイバーパンクの始祖となるウィリアム・ギブスンニューロマンサーと、初の個人用コンピューターとして自由の象徴となった初代マッキントッシュが発売された1984年を始点とし、それ以前は相反する関係にあったカウンターカルチャーとテクノロジーがこの時代に結びついたとして、その経緯を追っていく。

この時代のアメリカで、前世紀に失われたフロンティアに代わる新たなフロンティアとしてのサイバースペースという概念が生まれる。原始的なコンピューター・ネットワークから始まり、ヴァーチャル・リアリティ(VR)、インターネット、メタバースへと連なる、新天地としてのサイバースペースを目指す、カウンターカルチャーとも結びついた欲望。

しかし著者はそこに、古くから西洋に根付く魂と身体の二元論の系譜を認める。新プラトン主義やグノーシス主義から続く、魂の次元を善とし、肉をもつ身体を悪とする価値観のことだ。また著者は美術史家の近藤銀河の言葉を引きつつ、メタバースVRが、実は頭部や両手などにデバイスを装着できる健常な身体を前提としていることを指摘する。

そして著者は、60年代から続くカウンターカルチャーと結びついていたはずのサイバースペースの文化には、カウンターカルチャーが本来持っていた政治的ラディカリズム──すなわち反戦運動公民権運動、ブラック・パワー、フェミニズムなどの要素が排除されていることを強調する。ヒッピーや政治運動の退潮、そして新自由主義・ニューエコノミーの台頭によって、新天地への欲望は世界の変革への意志を失い、資本主義とテクノロジーによる支配の肯定に至る。

最後に著者はミシェル・フーコーの講演「ユートピア身体」を参照しながら、サイバースペースの文化に対し、身体という下部構造(インフラ)をめぐる政治的な問いを発する必要について述べる。

 

「未来」のイメージを、近代の夢の中に探す

 

このようにまとめるだけでも多くの名前や概念が登場するが、本書に実際に登場するものはこの何倍にもなる。哲学、思想、文学からポップカルチャーカウンターカルチャー、そして種々のテクノロジーの歴史までを網羅する、まさに博覧強記の書物だ。

膨大な知識とエピソードを繰り出しながら、どこへ向かうのかも判然としない遍歴を続ける本書は、最終章において思いのほかストレートな権力批判に辿り着く。とはいえそこで批判される権力は、国家権力のように明確な形をもつものではない。それは例えば人間をコントロールするためのカジノの建築技術に始まり、行動分析学(スキナー)と資本主義との結託を経て各種プラットフォームに埋め込まれるような、見えない権力だ。そのような権力の有様を著者は様々に語るが、そこからの出口は見い出されてはいない。

最後にウィリアム・ギブスンの短編「ガーンズバック連続体」(主人公は過去に作られた未来的建築を撮影し、やがて想像上の未来都市を幻視する)を読みながら、著者は未来を想像することが難しい現代において、近代が成し遂げられなかった未来の夢に別の角度から光を当てることを、せめてもの抵抗として試みているようだ。

 

近代を乗り越えるのではなく、近代の夢(ただし近代自身すら必ずしも十分に意識化することのなかった夢)を救い出すことによってユートピアは達成されるのかもしれない。ソビエトは、この近代の夢を西洋のテクノロジーアメリカの資本によって救出しようと企てて失敗した(あるいはもっと別の原因で?)。ならば、私たちは別の組み立て方 (モンタージュ)を試すべきだ。近代を構成していた要素をバラバラに分解し、個々の部品を精査し、別の組み立て方の可能性を探索すること。

(「終章 失われた未来を解き放つ」より)

 

 

次の一冊

 

反リベラル・反民主主義の方向へ向かう新反動主義と、その思想的支柱となる思想家ニック・ランドについて紹介した、著者の初期作。ドナルド・トランプオルタナ右翼とも関係が深い思潮を紹介した本書の読後感は重い。

 

そのうち読みたい
 

本書と共通するテーマによって書かれた、今のところ著者の主著と言うべき本と思われる。