もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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『ゴールデンカムイ』 透明な国家と機械化した二階堂浩平

ゴールデンカムイ』に描かれなかったもの

 

以前私は下記の記事で、野田サトルゴールデンカムイには「世界の全体」が描いてある、と書いた。それは「例えば「愛」と「欲望」と「暴力/権力」と「生命」と「歴史」とか」の、世界を構成する諸要素が、物語とアクションの中に凝縮されて描かれているように思えるということだった。

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今もその印象は大枠では変わっていないのだが、漫画が完結して振り返ると、いくつか「これは描いてなかったな」と思う部分があり、今回はその部分について書いてみる。

 ゴールデンカムイに結果的に描かれなかったものの中で特に重要なのは、日本という国家機構そのものだと思う。具体的には明治政府である。この漫画には軍隊として鶴見中尉率いる第七師団が登場するが、終盤に顕著なように、彼ら自身は明治政府に対する反逆者として描かれる。

してみるとこの漫画は基本的に、囚人などのはぐれ者、アイヌ少数民族、そして軍隊の中の反逆者たちが金塊をめぐって争う物語であり、そこには実際の国家権力を担う勢力は登場しないのだ。(第七師団の戦力自体は国家が準備したものではあるが)

明治政府が登場しないことで何か物語上の不都合があるかというと、特には無い。ゴールデンカムイは十分に濃密で過不足なく語られた架空歴史アクションであり、物語の中で解決すべき問題は解決され、物語が描くべきと要求するイメージは描かれていたと思う。

では、明治政府が登場しないことで、何が描かれずに終わったか。それは、日清・日露戦争を戦い、近代的国民国家を形成しようとした主体、その過程でアイヌという民族を抑圧した主体が描かれなかったということである。

周知の通り、この漫画では詳細な調査に基づいたアイヌの文化と、アイヌが置かれた状況が描かれる。そして物語自体もまた、アイヌ文化の存続をその大きな目的とする。にもかかわらず、そのアイヌの置かれた状況そのものを作り出した主体が、この漫画においては奇妙なまでに不在なのだ。アイヌに対する明治政府の関与はサラッとしか触れられず、ラストではむしろアイヌに対して便宜を図る立場で伊藤博文らの名前が登場する。

少々意地悪く言えば、この漫画は最終的には、抑圧者の存在をぼやかしながら被抑圧者の努力を描くという形になっているのだ。謎に包まれていた鶴見中尉が、少なくとも語られた範囲では最後まで何のイデオロギーも持たない空白の人物であったことも、抑圧的なものの不在を強調している。

 

英雄的な肉体の躍動

 

ゴールデンカムイは「歴史」についての漫画ではあるが、その際に抑圧者/被抑圧者という構造を描くことは選ばなかった。もちろん歴史というのはそのようなシンプルな二項対立で語りきれるものではないが、とはいえ抑圧者の存在を透明化することは、意識的にせよ無意識的にせよかなり大きな操作と言える。

では代わりに何を描いたのか? この漫画が最も強調していたのは、そのような大きな構造ではなく、やはり登場人物たちの肉体とそのアクションであったと思う。杉元、アシリパ、尾形、土方、鶴見などなど多彩なキャラクターたちの肉体の躍動と、それが展開する空間そのものの確かな力が、この物語に説得力を与える。その物語とは、国家の統制から逃れた者たちの野望と欲望、意志と希望の物語だ。

彼らはみな、抑圧された者たちではあるかもしれない。彼らの出自そのものに、国家との関係は刻印されてはいる。しかし少なくとも物語の中で、国家は彼らの邪魔をしない。ただ利害が衝突する反逆者同士が争うだけだ。作者は抑圧の構造よりも、反逆する肉体を描くことを選んだのだと思う。(それは漫画という媒体にとってはむしろ自然な方向性だが)

それはある種のユートピアだ。ここでは強靭な肉体と容赦のない暴力がぶつかり合い、そしてそのこと自体が肯定される。鮮やかなアクションの中で、反逆者たちの生が礼賛される。それはとても切実に、そして豊かに描かれた生であり、ユートピアであったと思う。

強く美しい彼らの肉体は、英雄的な肉体である。神話的と言ってもいい。自在に関節を外して監獄を逃れる白石の肉体もまた英雄的である。これは国家に統制された兵士の肉体とは少し違う。兵士というのは、皆が同じ動作を行うために作られるからだ。ヘラクレスのような英雄たちが近代日本を舞台に相争い、その強さを寿ぎながら殺し殺されて欲望を遂げるのがゴールデンカムイという漫画だ。彼らが抑圧から自由でいられるのは、その英雄的な肉体あるがゆえかもしれない。

 

依代としての二階堂浩平

 

では、ゴールデンカムイにおいて、全ての肉体は英雄的な強さと自由を持っていたか。例外もある。第七師団の一員、二階堂浩平である。

二階堂浩平は物語の序盤において、己の半身である双子の兄弟・洋平を失う。その後二階堂はまず頭皮を、次に片足を、さらに片手を失い。それぞれの欠けた部位を人工物によって補うことになる。義足には銃が仕込まれ、身体そのものが火器となる。最終的に生まれるのは、半ば機械と化した兵士の姿だ。杉元らの強く健康で強靭な、英雄的な肉体は、神話的・古代的なものだ。二階堂の肉体にだけ、都市の、機械の、近代の印が刻まれている。それは古代的な力能と健康を失った、マシン・エイジの肉体であり、戦車と毒ガスの時代、総動員と大量死の時代の肉体である。

そして二階堂は意志を持たない。ほぼ全ての登場人物が何ものかへの忠誠あるいは大義、でなければ現世的な欲望に従って戦う中、二階堂の中にあるのは己の半身を滅ぼした杉元への復讐心だけだ。それは元はと言えば己の鏡像への執着であり、何か自分より大きい存在や意義への帰依ではない。主人公たちの中で、二階堂だけが追うべき物語を持たないのだ。(事実彼は、その最期において己自身と再会して救われる)

 

抑圧を逃れた反逆者たちの神話的肉体の物語の中で、二階堂浩平だけがその肉体を近代によって侵食されている。国民国家帝国主義、機械と兵器が彼の肉体に接ぎ木されているのだ。作者がゴールデンカムイという物語から、強靭な肉体を持った英雄たちから排除した近代の歪みと暴力が、巡り巡って二階堂浩平の肉体に流れ込んだのかもしれない。彼が自分の意志を持たないのはそれが理由だろうか?

語られぬ暴力、見えない暴力の依代となった二階堂は、しかしそれを知らぬまま、そして何の意志も希望も持たぬまま、己自身と見つめ合いながら爆発の中に消えた。私にとってのゴールデンカムイの結末はこのシーンである。

 

次の一冊

 

夏目漱石の研究でも知られる著者による入門書。この本の第一章では、近代国家として生まれ変わることを目指した日本とアイヌ琉球との関係についてコンパクトにまとめられている。

 

 

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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

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こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

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