哲学者による、自伝的な小説三部作
千葉雅也の『デッドライン』『オーバーヒート』『エレクトリック』の3作は、2013年に『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』で哲学者としてデビューした作者が2019年から続けて発表した小説作品だ。
いずれも作者自身を思わせる人物を主人公とした、それぞれ別の時代の物語であり、作者自身が述べるように三部作のような趣がある。(全ての本の表紙を、ドイツの写真家ウォルフガング・ティルマンスの写真が飾っている)
とはいえ3作それぞれのストーリーに直接の関係は無いので、それぞれ単独で読んでも全く問題はない。
2019年発表の『デッドライン』は2001年の東京が舞台で、主人公は修士論文に取り組む大学院生。
2021年の『オーバーヒート』は2018年の大阪が舞台で、主人公は大学教員。
そして2023年の『エレクトリック』は1995年の宇都宮が舞台で、主人公は勉強に励む高校生だ。
3作にはいずれも作者自身の経験に深く根ざしているであろう、その時代や土地特有の空気や空間が描かれている。(なお『オーバーヒート』には短編「マジックミラー」も併録されている)
印象的な描写が構成する世界
さて、さきほど「作者自身を思わせる人物を主人公とした、それぞれ別の時代の物語」と書いたが、実は「物語」というフレーズには少し違和感がある。これらの小説が表現しようとしているものは、必ずしも物語ではない気がするからだ。
とはいえ筋立てはきちんとある。世の中には明確なストーリーが無い小説というものも多くあるが、これら3作にはオーソドックスな起承転結というか、小説の核となる何らかの出来事があり、それについて主人公が考えたり行動したりし、そして最後には何かしらの解決へと到達する。そういう意味では「物語」と言ってもいい。しかしこれらの小説を読んで強く印象に残るのは、もっと小さな細部のほうだと思う。
これらの小説では、作者の分身のような語り手が出会い、見聞きするものが、その都度とても印象的な視点の取り方や、あるいは独特の比喩によって語られる。語り手の世界に対する反応、その言葉の選び方そのものが、これらの小説を読んだ時に最も心に残るものなのではないか。それらは非常にきめ細やか、かつ鋭利なもので、その「世界に対する解像度の高さ」のようなものが醍醐味なのだ。
千葉雅也の小説においては、語り手が出会う世界の細部(風景、モノ、出来事、そして人間関係)についてのきめ細やかな描写や印象が積み重ねられ、それらがなんとなく相互に連関しながら、最後にはひとつの濃密な時空間のようなものを構成する。これは本当に小説ならではの楽しみだ。
下記は1995年を舞台とする『エレクトリック』で、高校生の達也の部屋に初めてインターネットが引かれたシーン。
電話線はあらかじめ準備し、背面に差し込んである。リビングから長々と灰色の線を引いてきて、ドアの端に切り込みを入れて通したのだった。
これって電話を引いたってことで、いいんだよな? と達也は思った。 子供部屋に電話がある。それは悪しきことに思える。不良みたいじゃないか。なのに、それがこの状況でうやむやになっているのが変な気がした。 加藤がボタンをクリックすると、ポパパポパパ、とすばやく番号を叩く音が最初にした。やっぱり電話なのだ。それから、ピー、キュルキュルと、今度はラジオのチューニングに似た高い音が続く。そしてザーッというホワイトノイズになり、それはテレビの放送終了後の砂嵐のようで、それが少し続いてから途切れ、無音になった。
大気圏を抜けて宇宙に出たみたいだった。
ひとつの命が終わったみたいだった。
「つながりました」
──という、その三段階でギアチェンジするノイズを儀式としてもうひとつの世界に入るのが、新たな夜の習慣となった。そしてほどなくして達也は、同性愛の世界を見つけることになる。本当に、
生きている 同性愛の世界である。掲示板とチャットがあるゲイサイトがすぐ見つかった。(千葉雅也『エレクトリック』)
このシーンなどは初期のインターネットの様子を鮮やかに描写していると思うが、他にも千葉雅也の小説には、その時代に特有のものを書き留めておこうという意思が感じられる。『デッドライン』における大学院の雰囲気や、街で出会う人々のファッション、そしてハッテン場の情景。そして『エレクトリック』では初期のインターネットや、リビングで見るTVアニメ、ビデオデッキでこっそり見るアダルトビデオなど。
2018年を舞台とした『オーバーヒート』で詳細に描かれるツイッターの使用もまた、今後は貴重な記録となるかもしれない。
欲望が「ある」ということ
千葉雅也の小説全般における印象的な要素のひとつに、「欲望の肯定」のようなものがある。といっても、それは「欲望は良いものだ」「欲望は素晴らしい」という意味での「肯定」ではない。そうではなく、「欲望がある」ということを、現実として認めることと言おうか。私たちが精神的・肉体的に生きていく上での基底的なものとしての「欲望」の存在そのものが、これらの小説では所与の条件として強く認識されている。
(その欲望とは特に性的な欲望であり、またここでは同性愛者の世界が描かれているのだが、このような描かれ方は、異性愛者の社会においてしばしば性的な欲望が「前提とされつつ語られない」ことを意識させもする)
とはいえ注記しておきたいのは、これらの小説は、「欲望のままに生きることを肯定する」タイプの小説ではない。どうも欲望を肯定するというと、他のことよりも欲望を優先するとか、自分の欲望に他者を従わせる、みたいなイメージを持たれてしまう気がするが、これらの小説は全くそういうものではない。
むしろこれらの小説の主人公たちは、周囲の世界に対してとても敏感だ。彼らは自分を取り巻く人々や情報、様々な言葉やムードを敏感に察知し、それらを決して軽くはない形でとらえ、反応し、考え、言葉にしていく。そして前述のように、主人公たちの世界に対する印象は、とても高い解像度によって描写されていく。
千葉雅也の登場人物たちは、自分の欲望(特に性的な欲望)を根底的なものとして認識し、その欲望について考えながら、自分を取り巻く世界に敏感に反応し続ける。それは実際には私たち皆が置かれている状況そのものなのだが、それがこのように明晰に、そして当たり前のこととして描かれることはそう多くはないのではないかと思う。
達也はスポーツと理系が苦手で、それはつまり「男らしいもの」が苦手なのだと思っている。そう決めつけて、同い年の男たちから自分を進んで村八分にすることに、密かな喜びを覚えている。文系科目は優秀だ。だがそれより、美術に興味があった。それでも、本気でデッサンをやって美大を目指すほどではなく、それで食べていけるとも思えないその関心をどうしたらいいのか、わからないままだった。
同性に対する関心も、である。
わからないままだった。たびたび湧き上がってくるその熱っぽい感覚をどうしたらいいのか。達也が男らしいものへの嫌悪をつのらせていくと、あるところでそれは強烈な欲望に裏返る。 我慢の限界まで強まった虫刺されの痒みを、ある瞬間、意を決して掻きむしるように。男らしさの耐えがたい恥ずかしさ、それを掻きむしるのである。
(同上)
※『デッドライン』は野間文芸新人賞、『オーバーヒート』に併録の「マジックミラー」は川端康成文学賞を受賞している。
次の一冊
作者が小説的な文章を書くきっかけのひとつになったというアメリカ滞在記。こちらはエッセイだが、確かに後の小説に通じるムードがある。
こちらは過去記事より、哲学者としての著者の最大のヒット作である『現代思想入門』の紹介。他の本の紹介もあるので合わせてどうぞ。