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中島隆博『中国哲学史』 誠実でダイナミックな中国哲学入門

「中国」、「哲学」、そして「歴史」とは何か、から始まる「中国哲学史」

 

2月に刊行された新書中国哲学史』は、中国哲学に関してすでに多くの著書がある中島隆博による、中国哲学の概論・通史となる本だ。中国哲学について全く知らなかった私だが、最初の一冊として良さそうな感じがしたので読んでみた。

冒頭から感銘を受けるのが、本書における議論の前提を確認する「まえがき」の内容だ。この「まえがき」では、「中国哲学史」というものが決して自明のものではなく、この言葉そのものの中に強く地理的・政治的・制度的な条件が含まれているということが強調される。

「中国」「哲学」、そして「歴史」という概念そのものが、決して自明のものではないのだ。

 

そもそも「哲学」というカテゴリーは、ギリシア哲学に始まり、キリスト教との関係や西欧の大学制度の中で構築されてきたものである。これに対し「中国哲学」と言う場合、それは西洋の哲学と同じものの中国版(「中国における哲学」)なのか、あるいは別のものだが哲学に近い何か(「中国的な哲学」)なのか、などの問題が発生する。また「中国」そのものに関しても、古代の中国と現在の中国が果たして同じものなのかという疑問があるだろう。

このような前提を確認した上で、著者は中国哲学「中国(語)の経験を通じて、批判的に普遍に開かれていく哲学的な実践」と定義する。哲学というものには、その固有の言語における経験、そして普遍を目指しながらもそれ自体を批判可能な学であることが重要だということだ。

また「哲学史」にも同様の問題がある。著者はまず、西洋中心で超時間的な普遍性を前提とする哲学史を批判し、哲学史を概念が変遷していく歴史ととらえる「概念史」という考えを紹介する。次に歴史学におけるグローバル・ヒストリー、つまりヨーロッパ中心史観への批判の流れを紹介し、それを哲学史にも結び付けていく。

このようにして著者は、ともすれば疑問を持たずに流してしまいそうな、「中国哲学史」というテーマそのものについて真摯な検討を行う。この「まえがき」を読むだけでも、著者の誠実な姿勢に安心感を覚えるだろう。

 

国家との深い関係の中にある中国哲学

 

その後本書は孔子孟子荀子荘子……といった、誰もが名前くらいは知っているだろう古代中国の思想家から、仏教やキリスト教、そして西洋文明と中国哲学との対峙を経て、二十一世紀の展開までを駆け足で辿っていく。駆け足といっても、その密度は高い。著者はごく短い紹介と引用の中に、それぞれの時代と思想家のエッセンスを抜き出して解説していく。各章は短くまとまっているが、何度も読み返したくなる内容の濃さがある。

一読して印象に残るのは、中国の哲学というものが、常に「帝国」としての中国に関わっているということだ。秦・漢以降の中国の王朝は、つねにその権威と正統性を支えるものとして哲学・思想を必要とした。それぞれの思想家はある時は権力に奉仕し、ある時は君子たりうる道を為政者に説いた。中国の思想は常に、時の権力との駆け引きの中にあったのだ。

また近代から現代においては、世界を支配する思想となった西洋の原理、つまり西洋の科学と民主主義との出会いと衝突を経て、中国がいかなる原理において思考し、どのような世界の構築を目指すか、という問いが浮かび上がる。(そこにはもちろん隣国である日本も関わってくるだろう)

孔子老子といった中国の思想というと、日本ではもっぱら人生論や道徳観として語られがちな気がするが、そういうものではない、世界そのものとダイナミックに関わっていく中国哲学の世界を垣間見せてくれる本だと思う。

 

孔子と「仁」・「礼」について

 

この本に書かれているそれぞれの哲学について短くまとめることは難しいが、ここでは特に印象に残った、孔子「仁」、そして「礼」についての部分を取り上げてみる。

史記』を記した司馬遷によれば、孔子は国なき人だったという。孔子は周という国では周縁化された異邦人だったということが、まず強調される。

さて、孔子の思想の核心は「仁」という概念であった。これは人間らしさに関わる概念だが、しかし決定的な定義はなく、つねに発見的に探究されるものだという。

『中国思想史』を書いたフランスのアンヌ・チャンによれば、孔子「仁は、人を愛することである」という言葉から、孔子の語る愛とは、神という超越的な源泉に基づくことがなく、人間的なものに根差しているものだという。それも、感情的で相互的な人間にである。

(この「感情的で相互的な人間」というのは、近代のヒューマニズム的な理性的な主体とは別のものであると著者は言う)

 

仁は「礼」によって表現されるという。礼とは客観的で普遍的な規範ではなく、そのつど見直され変形されるものである。

ここで挙げられている礼は、単なる儀礼的で形式的な規範ではない。それは、バラバラになりそうなこの世界を繋ぎ止める、弱く、不安定な規範であって、人間の感情の様式化に由来するものだ。(中略)

ここで重要なことは、礼が万古不易の規範ではなく、歴史的に変容する規範であるということだ。

孔子の異邦性はここに関係してくる。歴史的なヘテロトピア(別の場所、異邦性)が、わたしたちの「別のしかた」を肯定するからだ。

 

最後に、孔子による、礼というものの根源的な定義についての部分を引用しよう。

では、礼はどこで最も効いてくるのか。それは、とりわけ死の瞬間である。さらに言えば、ひとつは、他の生物を殺して食べる時であり、もうひとつは人の命が尽きる時である。

(中略)

食事のマナーは文化によっても時代によっても変化する。たとえば、日本料理では麺を音を立ててすすったり、お椀やお皿を手に持ったりすることがしばしばあるが、それを無礼と感じる文化もある。

(中略)

論語』のこの箇所にも、実に細かい規定があり、何ともややこしいと感じることだろう。しかしポイントは、食べるという最も基本的な行為が、仏教的に言えば殺生なしには成立しないことにある。根本的な暴力をむき出しにしてはならない。それを何らかの仕方で飾ること。これこそが礼なのだ。(「第5章 礼とは何か」より)

「礼」というものに対するイメージが少し変わるような話ではないかと思う。

 

そのうち読みたい

 

しばらく入手が難しかった中島隆博による中国哲学の本が、ここへきて続々復刊中である。『中国哲学史』に続けて読むのに最適だろう。

 

次の一冊

 

哲学者・作家である千葉雅也の自伝的なこの小説には、中島隆博をモデルにしたらしい教授による、荘子に関する授業のシーンがある。詳細に描写されるそのシーンを読むと、「この講義、受けたい!!」と思うこと間違いなしだ。