もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

,

ベンヤミン「歴史の概念について」 忘れられた過去を「救済」するための哲学

ベンヤミンの歴史哲学

 

 

ヴァルター・ベンヤミンには未完成のまま残された文章が多くある。それはユダヤ人である彼がナチスに追われドイツを脱出せざるを得ず、そして亡命の途上で自ら命を絶ったからだ。「歴史の概念について」あるいは「歴史哲学テーゼ」と呼ばれる文章は、そのような未完成の文章のひとつであり、とはいえある程度まとまった形になっていることから、しばしば最後の著作と呼ばれる。

「歴史の概念について」は、ごく短い断章の集合からなっている。それぞれの断章は内容が繋がり合っているものもあり、また唐突に別の話題が始まったりもする(そもそも最終的に整理された原稿ではないので当然ではある)のだが、全体としてはベンヤミンの歴史哲学の原則を語るものとなっている。

難解な内容を含むこの文章を解説することは私の手には余るので、今回はその中から印象的な断片を取り上げ、ベンヤミン思想の基本的な部分へのガイドとしてみたい。

(引用は上記の河出文庫ベンヤミン・アンソロジーより)

 

「歴史の天使」 廃墟としての歴史

 

まずは、ベンヤミンが書いた文章の中でも非常に有名なものである、「歴史の天使」についての断章を引用しよう。

 

「新しい天使(アンゲルス・ノーヴス)」と題されたクレーの絵がある。そこには一人の天使が描かれており、その天使は、彼がじっと見つめているものから、今まさに遠ざかろうとしているかのように見える。彼の目は大きく見開かれており、口はひらいて、翼はひろげられている。歴史の天使はこのように見えるにちがいない。彼はその顔を過去に向けている。われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局(カタストロフィー)を見る。その破局は、次から次へと絶え間なく瓦礫を積み重ね、それらの瓦礫を彼の足元に投げる。彼はおそらくそこにしばしとどまり、死者を呼び覚まし、打ち砕かれたものをつなぎ合わせたいと思っているのだろう。しかし、嵐が楽園(パラダイス)のほうから吹きつけ、それが彼の翼にからまっている。そして、そのあまりの強さに、天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐は天使を、彼が背中を向けている未来のほうへと、とどめることができないままに押しやってしまう。そのあいだにも、天使の前の瓦礫の山は天に届くばかりに大きくなっている。われわれが進歩と呼んでいるものは、この嵐なのである。

(『ベンヤミン・アンソロジー』所収「歴史の概念について」断章「Ⅸ」より)

 

ここでは、ベンヤミンが「歴史」というものをどのようなものだと考えていたかが、比喩を用いて語られている。

歴史の天使は、その顔を過去の方向に向けている。ということは、彼の背中の方向が未来である。

天使が見ているのは「破局」で、その破局によってどんどん瓦礫が積み重なっていく。
彼はできることなら瓦礫となって崩れたものを修復したり、死者を蘇らせたりしたいと思っている。しかし、はるか過去に位置する「楽園」の方から吹いて来る強い嵐を翼に受けて、天使は彼の背中の方向、つまり未来へと押しやられていく。

そして、天使をその場にとどまらせず、未来の方へと意に反して押しやっていく嵐、それが「進歩」と呼ばれるものなのだ。

 

悲観的な「歴史」の概念だと思う。ベンヤミンにとって歴史とは、破局によって破壊され、山のように積み上がった瓦礫にほかならないのだ。それはひたすら痛ましく、取り返しのつかない出来事の連続である。そして彼にとって「進歩」とは、破局による瓦礫を瓦礫のままにしておく力のことなのだ。

ベンヤミンのこの観念は、彼の思想のあらゆる場所に現れている。近世のドイツ悲劇の研究(『ドイツ悲劇の根源』)、近代のパリの都市文化の分析(『パサージュ論』『ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて』ほか)、あるいは幼少期に過ごしたベルリンの思い出(『1900年頃のベルリンの幼年時代ほか)などの多彩な著述の中を、歴史そのものを廃墟と見なす視線が貫いている。ベンヤミンの哲学や批評は常に、廃墟を掘り返すような行いなのだ。

 

過去の「救済」

 

このように悲観的なベンヤミンの歴史哲学だが、そこにはほんのわずかながら、希望のようなものも含まれている。

「歴史の概念について」の冒頭近くで、ベンヤミン「救済」について語っている。

 

過去はある秘められた索引をともなっており、その索引によって過去は救済へと向かう。私たち自身に、昔いた人たちのまわりの空気がそっとそよいでいるのではないか。われわれが耳を傾ける声のうちに、今では沈黙してしまった声のこだまがあるのではないか。われわれが求愛する女たちには、彼女らがもはや知ることのなくなってしまった姉妹がいるのではないか。そうであるとするならば、かつての世代とわれわれの世代のあいだに、ある秘められた約束があるということになる。そうだとすれば、われわれはこの地上で待ち受けられていた者なのだということになる。そうだとすれば、われわれの前のすべての世代と同様に、われわれにもかすかなメシア的な力がともに与えられているということになる。過去はこのメシア的な力を頼みとしている。この期待を安易に片づけるわけにはいかない。歴史的唯物論者はそのことをよく心得ている。

(断章「Ⅱ」より)

 
ベンヤミンは、全ての過去は「秘められた索引(インデックス)」を持っており、それによって過去は「救済」へ向かうという。

それこそ、先の引用で歴史の天使が瓦礫の山に対してしようとしていたこと、つまり「死者を呼び覚まし、打ち砕かれたものをつなぎ合わせ」ることだ。崩壊して瓦礫となった全ての過去が持っている秘密の索引を探し、それを生き返らせること。

それができれば、「われわれはこの地上で待ち受けられていた者」、つまりメシアとなる。ベンヤミンのいう「メシア的な力」とは、つまり過去を拾い集め、救済する力のことなのだ。

 

さまざまな出来事を、大小の区別をつけることなく、一つずつ物語ってゆく年代記作者は、そのようにすることで、ある真理に対して配慮を行っている。それは、かつて起こったことは何一つとして、歴史にとって見捨てられるものとはならないという真理である。

(断章「Ⅲ」より)

 

このようなベンヤミンの哲学にとって、歴史とは大きな出来事の連鎖ではなく、誰からも忘れ去られてしまうような小さな出来事の集積である。そしてそれら出来事の断片は瓦礫として積み上がり、そこから救済されることを待っている。

 

過去のイメージ

 

では、私たちが歴史の中から掬い取るべき「過去のイメージ」とは、一体どのようなものか。

ベンヤミンにとって、そのイメージとは決して確固たるものではない。それはむしろ、移ろいやすく、ほんの一瞬しか現れないようなものだ。

 

過去の真のイメージはさっとかすめ過ぎてゆく。それを認識できる瞬間に閃き、そしてその後は永遠に目にすることのないイメージ、過去はそのようなイメージとしてしか、しっかりととどめておくことができない。

(断章「Ⅴ」より)

 

過ぎ去ったものを歴史というかたちで言い表すということは、それを「もともとあった通りに」認識することではない。それは、危険な瞬間に閃くような回想を自分のものにするということである。歴史的唯物論にとって重要なのは、危険な瞬間に歴史的主体に思いがけず立ち現れるような過去のイメージをしっかりととどめておくことである。

(断章「Ⅵ」より)

 

「さっとかすめ過ぎてゆく」「その後は永遠に目にすることのないイメージ」あるいは「思いがけず立ち現れるような」「危険な瞬間に閃くような回想」。

「歴史の天使」が、そしてベンヤミンが救おうとしているのは、そのような儚いイメージなのである。

 

ファシズムとの闘い

 

ここまで見てきたようなベンヤミンの歴史哲学は、一見すると単に文学的なものに見えるかもしれないが、そこでは常にファシズムや支配階級への抵抗が目指されている。

ベンヤミンが批判するタイプの歴史記述者たち(ここではその立場は「歴史主義」と呼ばれる)は、勝利者たちの歴史としてのみ歴史を捉えるが、それはその時代の勝利者にとって都合のいいものとなるという。

 

今日にいたるまで、勝利をさらっていった者は誰であれ、いま地に倒れている者たちを踏みつけて進む今日の勝利者たちの凱旋行列のなかで、ともに行進しているのだ。戦利品は、いつもそのようにされてきたように、凱旋行列のなかでいっしょに運ばれる。この戦利品は文化財と言い表されている。これらの文化財は(中略)ことごとく、戦慄を覚えることなしに考えることができないような由来のものだからである。

(断章「Ⅶ」より)

 

(伝統にとっての危険とは)つまり、支配階級の道具となる危険だ。大勢順応主義は、伝承されてきたものを今まさに征服しようとしているが、その大勢順応主義の手から伝承をあらたに奪い返そうとする試みが、どの時代でも行われなければならない。(中略)敵が勝利するなら、死者さえもその敵に対して安全ではないだろう。こういった考え方にすみずみまで満たされている歴史記述者だけに、過ぎ去ったもののうちに希望の火花をかきたてる才能が宿っているのだ。そして、この敵は勝利することを止めてはいない。

(断章「Ⅵ」より)

 

ベンヤミンが、誰からも忘れ去られてしまうような小さな歴史の断片に注目するのは、勝利者による歴史への、そしてそれを利用する現在の勝利者への抵抗のためでもある。
死者すらも脅かす敵に対して、「過ぎ去ったもののうちに希望の火花をかきたてる」ことで闘おうとするのが、ベンヤミンの歴史哲学なのだ。

なぜ人が歴史を学ぶべきなのか、そして歴史はどのように学ばれるべきなのかを、ベンヤミンの哲学は教えているのだと思う。

 

 

※この断章集では他に、ベンヤミンが生きた時代のドイツの労働運動の状況や、また彼が深く影響を受けたマルクス主義、そして革命の概念についても語られる。

ある程度の知識が必要とされる部分もあるが、基本的には全ての文章がここまで書いてきたような原則にしたがって書かれているので、じっくり読んでみればイメージは摑めると思う。

 

※少しだけ用語の解説をしておくと、ベンヤミンは自分の立場を「歴史的唯物論、自分が批判する立場を「歴史主義」と呼んでいる。

「歴史的唯物論」「歴史的唯物論者」というフレーズが出てきたらそれはベンヤミンの主張、逆に「歴史主義」「歴史主義者」というフレーズが出てくればそれはベンヤミンが批判している主張や立場、ということを覚えておくと読みやすい。

 

次の一冊

 

ここでは河出文庫のアンソロジーを参照したが、こちらのちくま文庫にも同じ文章が別の翻訳で収録されている。

この巻もベンヤミンの代表的な文章が多く収められておりお勧め。

 

pikabia.hatenablog.com

以前当ブログで紹介したベンヤミンの入門書。代表的な文章である「複製技術時代の芸術作品」の詳細な読解。

 

残念ながら新刊では手に入らないようなのだが、この文庫は「歴史の概念について」の本文と詳細な読解がともに収録されており、ベンヤミン入門としては一番のお勧め。

 

こちらはほとんど唯一の、手軽に読めるベンヤミン入門。