もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

,

クィアなSFが読みたい! 「クィアSF」というカテゴリーについて/創作SF小説のお知らせ

突然ですが……

 

突然ですが創作SF小説を書いて投稿サイトカクヨムに投稿しました。少し前からSF小説を書いていたのですが、今回カクヨム公式企画である「カクヨム公式自主企画「百合小説」」に参加するべくユーザー登録したという次第です。

近未来のシンガポールを舞台としたポストコロニアル・熱帯クィアSFですので、ご興味ありましたらよろしくお願いします。

kakuyomu.jp

 

追記:2023年9月に発表された「第三回かぐやSFコンテスト」にも作品を応募し、選外佳作に選んでいただきました。

詳しくはこちらをご覧ください。

pikabia.hatenablog.com

 

 

 

さて、小説投稿サイトのアカウントを作ったらプロフィールに自己紹介を書くことになるので、今回そこに、クィアSFを書きます」と記すことにした。

これからそのアカウントでSF小説を公開するにあたって、なぜわざわざクィアSF」と銘打つのか。そのようにカテゴライズすることで、読者が限定されたり、イメージを狭めることになりはしないか。そして多くの人にとって重要で切実なフレーズである「クィア」という言葉を軽々しく使っていいのか、使う資格は、覚悟はあるのか。

いろいろな考えがあると思う。しかし私自身の、一人のSF読者としての正直な感覚として、「クィアSF」と明言してあるものは手に取りやすい。ゆえにそう明言することにした。

 

そのように考えた直接のきっかけは、やはりSFメディア「バゴプラ/Kaguya Planet」によるSFアンソロジー『結晶するプリズム 翻訳クィアSFアンソロジーの発表だと思う。

virtualgorillaplus.com

 

このアンソロジークラウドファンディングを経て制作され、2023年6月にはプライド月間を記念して無料公開(6月中のみ)されたのだが、最初から「クィアSF」と銘打たれたこのアンソロジーを読む際、私はかつてない安心感と充実感を得た。

(現在は電子版と、書籍版が一部書店で販売中。通販あり。結晶するプリズム lit.link(リットリンク)

このアンソロジーは、読者が限定されたり、収録作のイメージが狭まったりすることのリスクよりも、このカテゴライズによって手に取りやすくなる読者のことを考えて(そしてそのような読者の助けになることを考えて)編まれたのだと思う。

さすがに私自身は自分の書いたものが誰かの助けになるなどということまでは考えていないが(むしろ逆に傷つけるのではないかと思ってしまうことも多々あるが)、『結晶するプリズム』のこのような態度に感銘を受け、それに倣ってプロフィールに「クィアSF」と書くことにした。やや緊張しつつ。

 

SFにとってクィアであるとは何か

 

別に、SFというジャンルにとって、クィアなものであることは必要条件ではない。

「SF」というのは「ミステリ」や「時代小説」と同じく主に形式や枠組みを指す言葉なので、その内実はどんなものであっても良いわけだが、でも自分が読むならSFはクィアなものがいい。

そもそも、なぜ自分がSFを読むのかと聞かれれば、おそらくはいま目の前にある現実とは違う世界のお話が読みたいという、ある程度は逃避的な、しかし同時に批評的でもある動機があるのだと思う。現実の枠組み、社会のシステムから自由なものを読みたいと思ってSFを読んでいるのだ。

そうやってSFを手に取った時に、そこで描かれている未来世界や、こことは別の世界が、この現実世界を支配する枠組みにすっぽり収まって安住していたらどうだろう。昔ながらの慣習が我々に期待する役割に、唯々諾々と従っていたらどうだろう。私はがっかりする。せっかく現実とは違う世界を構想しているのに、どうしてわざわざ現実と同じような抑圧を受け入れなければならないのか。

 

そういうSFはままある。例えば世界に巨大な変化が起こり、人類が全く違う環境で生活せざるを得なくなる。人々は苦難の末にそれに適応し、新しい技術を開発したりして新しい世界を作る。そしてその新しい世界で、「強くて頼りになるお父さん」「優しくてきれいなお母さん」が「新たな世代を生み出していく」……みたいな。

あるいは、何か驚くべき新技術が生み出され、それが世界を変えてしまう。その技術は大きな有用性と危険性を併せ持ち、人々は試行錯誤しながら、彼ら自身もその技術によって変わって行く。そして葛藤や戦いの末に、「かっこよくて立派な男」が、「美しい女」の「愛を獲得する」……みたいな。

いや、別にそういうSFがあってもいい。そういうSFを読んで癒されたい人だっている。ただ私はあまり興味がないのだ。

(もちろん、上記のような構造そのものが自覚的にテーマとなっている場合は面白いだろう)

 

私自身は、SFつまりサイエンス・フィクションは、文明についての小説だと思う。サイエンスの起こりが数学や占星術錬金術だとするならば、あるいはもっと原始的に道具や火の使用からそれが始まるとすれば、人類の文明のほとんどはサイエンスとともにある。ゆえにSFとは文明について考える小説だと言ってもいいだろう。そして文明について考える際、私は、文明がどのように人間を規定して来たかを問題にしたい。そのように考えれば、思弁的なSFはおのずとクィアなものになるはずだと思う。そうであってほしいのだ。

そうでなければ、SFとは単に現在に至るまでの文明の行いを追認するだけのものになるだろう。それは私には退屈だ。

 

なお当然のことながら、これは単に小説の前提条件のようなものの話であって、小説自体の出来や質とはあまり関係がない。

 

参考文献

 

クィアという言葉とその歴史の基本的な部分については、まさに教科書として作られたこの本が参考になる。第一波から各種の分派へと派生していくフェミニズムアメリカにおける性の解放や同性愛者の権利獲得のための運動、エイズの流行、クィアスタディーズの起こり、トランスジェンダーという概念などについて歴史的に解説してくれる。

 

クィアSF

 

この小説はクィアSFじゃないかな、というものを少しですが挙げてみました。

 

過去記事もどうぞ。

pikabia.hatenablog.com

pikabia.hatenablog.com

pikabia.hatenablog.com

pikabia.hatenablog.com

pikabia.hatenablog.com