私の好きなバラードのSF短編
J.G.バラードことジェームズ・グレーアム・バラードは私が一番好きな作家のひとりだが、以前はその長編について紹介したので、今回は短編の話をしようと思う。バラードの長編と短編は、書かれている内容はかなりの部分共通しているのだが、受け取るムードはけっこう違う気がする。そして私にとって、バラードの短編こそは最高の短編小説だ。
バラードの長編についてはこちら
さて、かつてバラードの短編集は特に創元SF文庫でたくさん出ていたのだが、現在はほぼほぼ品切れ状態で、かわりに同社から刊行されている『J・G・バラード短編全集』全5巻(監修:柳下毅一郎)にまとめられている。そんなに安くない本だが、まあ一生モノなので買って損はないだろう。(特に好きな作家の回なので言い切っていくスタイル)
この短編全集はバラードの全短編を発表順に並べたものなのだが、まずは第1巻に序文として収められた、バラード本人による文章の冒頭を見てもらいたい。
短編小説はフィクションの金庫からこぼれ落ちた小銭のようなものだ。長編小説の富の前には軽視されがちだが、相手はしばしば過大評価された偽金だったりする。だが最良の短編、ボルヘスやレイ・ブラッドベリ、エドガー・アラン・ポーらの短編小説は貴金属で鋳造され、想像力の財布の奥深くでいつまでも輝き続ける黄金なのである。(『J・G・バラード短編全集1』所収「序文」より)
うーん、何度読み返しても、短編小説の独特の魅力をほんの短い文章の中で、それもSFと幻想文学のファンにはたまらない形で語ってくれた最高の序文である。
一応バラードという作家のプロフィールを紹介しておくと、1930年に上海で生まれたイギリス人作家で、没年は2009年。一般にニューウェーブSFを代表する作家と言われている。ニューウェーブSFとは1960年代に起こった運動で、乱暴にまとめると、それまで単純明快な娯楽小説だったり科学の進歩を夢想するものだったりしたSFに、内省的・実験的・文学的な要素を持ち込んだものということになる。(もちろんこういった要約が多くのものを排除して成り立つことはご承知の通り)
今回の記事ではバラードの短編の中から、私の好きなものをいくつか紹介してみる。
デビュー作「プリマ・ベラドンナ」と、「ヴァーミリオン・サンズ」シリーズ
さて前述の短編全集は全短編が発表順に収録されているわけだが、その第1巻の最初に収録されているこのデビュー短編「プリマ・ベラドンナ」(1956年)を読んで、私はたいへん驚いた。この時点ですでに、私が「バラードの短編」としてイメージするもののほとんど全てが実現されているのだ。
バラードという作家の記念すべきデビュー作の、その書き出しを引用してみる。
はじめてジェイン・シラシリデスに会ったのは、全世界的に沈滞と倦怠とそして夏の盛りがつづき、われわれみんなが至福に満ちた忘れがたい十年間を過ごした、あの〈大休止(ザ・リセス)〉と呼ばれる時代のさなかだったが、たぶんそのことが、彼女とわたしのあいだで起きたことに深い関係があるのかもしれない。もちろん、いまではあんなばかげた真似はしようと思ってもできないが、考えようによっては、ジェイン一人の仕業であったかもしれないのだ。
ジェインについてほかにどんな噂があったにしても、彼女がとびきりの美人であることは、だれもが認めないわけにはいかなかった。たとえ彼女の遺伝的背景がいささか複雑であったにしてもだ。ヴァーミリオン・サンズのゴシップ屋どもは、彼女がゆたかな金緑青の肌と、二ひきの昆虫に似た瞳を持っていることから、かなりのミュータントの血が流れていると、さっそく決め込んでしまったが、このわたしにしろ、わたしの友人たちにしろ、そんなことはまったく気にしなかったし、中の一人ふたり、たとえばトニー・マイルズやハリー・ディヴァインなどは、それからというもの、細君への接し方が微妙に以前とちがってきたほどだった。
あの頃の仲間は、いつもたいていビーチ・ドライブのはずれにあるわたしのアパートのバルコニーで、ビールを飲んだり──一階にあるわたしの音楽店の冷蔵庫には、いつも買いおきを切らさないようにしてあった──漫然とだべったり、当時流行した一種の減速チェスである〈アイ・ゴ〉を戦わせたりしていた。(『短編全集1』所収「プリマ・ベラドンナ」より)
この短編の語り手は、「歌う草花」という、音楽を発する植物を販売する店の店主だ。語り手はいつも「歌う草花」たちに養分を与えたりph値を調節したりして、その歌う能力を調整し、顧客に販売している。ある時彼の前にジェインという金色の肌と昆虫のような瞳を持つ女性が現れ、そして彼女は店に置かれた大きく不気味な「カーン・アラクニッド蘭」に心を惹かれ、そして蘭もまた彼女に激しく反応する。
バラードの小説が合うか合わないか、とりあえずこのデビュー作の書き出しだけで判断してしまっていいと思う。この後の作品も、内容こそ違えどだいたいこんな感じだ。
謎めいた舞台設定。きらびやかで、同時に荒廃した街。倦怠感。無為な生活。何もかも終わった後の、なんとなくの後悔。ろくでもない男たちの前に現れる、不思議な女性。よくわからない固有名詞。こういったものは、多少形を変えてもその後のほとんどの作品に見出されるだろう。(またそれゆえに、頻繁に登場するファム・ファタール的な女性たちはかなり定型的ではある)
ちなみに書き添えておくと、先に引用した冒頭部分に出てくる「〈大休止〉」「ミュータント」などのSFっぽい概念について、作中にいっさい説明は無い。そういうことを説明するのは、バラードがやりたいことではないのだ。
ところで先の引用部分に「ヴァーミリオン・サンズ」という単語が出てくるが、これはバラードが考え出した架空のリゾート地の名前である。おそらくアメリカ大陸のどこかの砂漠にある、衰退しつつある、あるいは半ば打ち捨てられたリゾートだ。
バラードはこの架空の地を舞台にした短編をその後も書き継いでいく。歌う彫刻を作る男が恋をする「歌う彫刻」、砂漠の別荘で、十二宮の図像が描かれた衝立を並び替える遊びに耽る「スクリーン・ゲーム」、珊瑚の立ち並ぶ砂漠の上をグライダーで飛び回り、積乱雲を加工して彫刻を作る「コーラルDの雲の彫刻師」などなど。
これらはいずれも、不気味で美しいイメージ、けだるい愉しみとぼんやりした喪失感に満ちた、まさに衰退しつつある架空のリゾート地にふさわしい作品群である。それをバラードはデビュー作からすでに書き始めていたというわけだ。(以前には、このシリーズだけをまとめた本も刊行されていました)
「砂の檻」 宇宙を見つめる視線
バラードの小説には、宇宙に関するテーマもよく出てくる。しかしそれは、月や火星、あるいは遠い宇宙に向けての冒険ではない。かつて多くのSFがそうであったという宇宙冒険SFに対するアンチテーゼとして、ニューウェーブの作家、バラードの宇宙小説はある。
1962年の「砂の檻」は宇宙基地と人工衛星に関する小説だ。かつてアメリカの宇宙進出の輝かしい中心地であったケープ・カナベラルは、その周囲に広がった観光ホテル街とともに、砂に覆われた廃墟となっていた。火星植民計画の過程で運び込まれた火星の土に含まれた未知のウィルスが、地球の植物の多くを死に追いやったのだ。
かつて火星に建設する都市計画に携わっていた語り手のブリッジマンは、いまは宇宙基地の周りの、砂に埋もれたホテルで何もせずに過ごしている。基地周辺には元宇宙飛行士のトラヴィスと、宇宙飛行士の夫を事故で失ったルイーズが住んでいるが、この場所は立ち入り禁止区域であり、当局は彼らを排除しようとしている。
ケープ・カナベラルの上空では、時折「合」と呼ばれる現象が起こる。放棄されたまま軌道上を周回している7つの人工衛星が一堂に会するのだ。ルイーズの夫の亡骸は、今もその衛星の中で地球の周囲を回っている。
注意してほしいのは、この小説が書かれたのはガガーリンによる初の有人宇宙飛行の翌年だということだ。宇宙開発の絶頂期に、わざわざこんな小説を書こうと思ってしまうのがバラードなのである。
「終着の浜辺」 科学技術の悪夢と魅惑
バラードの題材となる科学技術は、徐々に未来のものから現在のものへと移っていく。1964年の「終着の浜辺」は、バラードが現在の世界を舞台に書いた後年の作品群を準備するものとも言われている。
妻子を事故で亡くした元パイロットのトレイヴンは、かつて核実験場だった小さな島にひとり上陸し、奇妙な探索生活を始める。わずかに椰子の木が生える島には墜落したB‐29の残骸、無人となったバー、実験のための人工湖、そして規則的に配列されたコンクリートの巨大なブロック群がある。トレイヴンは島の調査をしながら、やがてこのブロック群に惹きつけられていき、また妻子の亡霊を目撃する。
やがて島の外から、科学者のオズボーン博士が助手とともに訪れる。ブロック群の中で餓死しかけていたトレイヴンを助けた博士は、彼がこの島によって魅惑され、とりつかれていると感じる。博士らの説得にも関わらずトレイヴンは島に残り、その思索は徐々に非現実的なものになっていく。戦争と暴力、核実験のイメージが断片的に現れ、小説そのものもまた、きれぎれの断章形式へと変わっていく。
この短編がもつ、断章のコラージュのような実験的な形式は、「濃縮小説(コンデンスド・ノベル)」と呼ばれるバラード中期の一連の短編に繋がっていく。
そして、この短編の中に現れているのは未来の技術ではなく、すでに実現された科学技術と、それが使用された歴史である。語り手は戦争と核実験の奇妙な象徴である島にとらわれ、その悪夢的なイメージに埋没していく。
ここには後年までバラードの大きなテーマとなる科学技術と現代文明への批判があるが、重要なことは、この短編でオズボーンという科学者が語り手を見て感じるように、人がその悪夢的な側面に魅了されているということなのだ。バラードの小説には常に技術と文明に対する批判的な視線があるが、それが一方的な批判であったことはない。そこには常に、暴力的な技術に魅惑される我々自身への醒めた視線があるのだ。このような視線の先に、後の傑作『クラッシュ』や『ハイ−ライズ』はある。
両義性の作家
このように、バラードの小説には常に相反するものが同居している。小説の中で、ある特定の価値や意義が称揚されることはない。登場人物たちは常に、価値の宙づりの中に置かれている。
バラードの小説には美しいものが多く登場するが、それは常に不気味さやグロテスクさと裏表であり、罪責性を帯びている。滅びた場所、捨てられた場所は奇妙なやすらぎを感じさせ、逆に繁栄のうちにある場所には滅びの予感がつきまとう。
そして人間についても同様だ。バラードの登場人物は時に激しい恋に落ち、あるいは何らかの目的を遂げようと努力するが、彼らは常にままならない欲望にとらわれ、権力のゲームに突き動かされているだけに見える。だいたいのことは不首尾に終わるが、しかし彼らが完全に破滅することはない。むしろここではある程度の破滅こそが基本的な状態であり、様々な破滅と衰微の段階を生きるのが人間であると言わんばかりだ。
バラードは特定の価値を信じない。目指すものには全て負の面があり、希望は必ず絶望をともない、自由は常に力によって侵食され、そして嫌悪を催すものに人は魅了される。このような両義性を書き続けることが、おそらくこの作家の誠実さなのだと思う。
※記事中で紹介した短編は以下の本に収録されています。
「プリマ・ベラドンナ」:『短編全集1』
「砂の檻」「歌う彫刻」:『短編全集2』
「終着の浜辺」「スクリーン・ゲーム」:『短編全集3』
「コーラルDの雲の彫刻師」:『短編全集4』
なお、初めてバラードの短編を読むなら第2巻か第3巻がお勧めです。バラードの代表的な作風と言われるタイプのものが多いのがこの時期ですので。
※文庫版
本文中でも触れた通り、以前は文庫で短編集がいろいろ出ていました。一応紹介しておきます。
※宣伝
2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。