もう本でも読むしかない

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ボルヘスの代表作『伝奇集』から、お勧めの短編を紹介します。

迷宮の作家・ボルヘスの代表的短編集からのお勧め短編5選

 

さてボルヘスです。前回、ボルヘスの小説を読んでみたい場合、どの本を買えばいいのか?」というガイド記事を作成したところ、多くの方に読んでいただいております。どうもありがとうございます。

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というわけで今回は、ボルヘスの小説集の中でも最も有名な『伝奇集』について、その中のいくつかの作品を具体的に紹介してみたいと思います。

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、1899年生まれのアルゼンチンの作家。20世紀前半に活躍したボルヘスは、1960年代以降に盛り上がった、ガブリエル・ガルシア=マルケスフリオ・コルタサルバルガス・ジョサといった南米文学のムーブメントの先駆けとされることも多いようです。

ボルヘスはその生涯において長編を一本も書かず、全ての小説が短編小説です。いわく、「長大な作品を物するのは、数分間で語り尽くせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」とのこと(『伝奇集』「プロローグ」より)。そんな身も蓋もないことを……と思いますが、しかしボルヘスの書く、壮大な世界や無限の宇宙、永遠に繰り返される運命や深遠な謎を、ごく短い記述の中に圧縮した短編小説を読むと、「確かに長編なんて書かなくてもいいのかもしれない……」と思わず説得されそうになってしまいます。それほどの魔力を持った作家と言えるでしょう。

 

この『伝奇集』は、ボルヘスの1941年の小説集『八岐の園』と、1944年の『工匠集』の2冊を1冊に合わせて1944年に刊行された短編集です。ボルヘスはこれ以前に『汚辱の世界史』という物語集を書いているのですが、これは実在の人物の評伝を物語のように書いたものなので、ボルヘスの初の創作小説作品集がこの『伝奇集』ということになります。

 

緻密で複雑なメタフィクション「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」

 

まずは、冒頭に収録されている「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」です。

なぜこの短編を紹介したいかというと、この短編は本の最初に載っているので最初に読まれる可能性が高いと思うのですが、しかし、にもかかわらず、この短編は『伝奇集』の中でも最も複雑な構成をもつ作品のひとつなのです。

初めてボルヘスを読む時に、有名な『伝奇集』を手に取り、一番最初に載っているこの小説を読んで「えっ、これ、何が書いてあるの……?」と戸惑ってしまうことがあるかもしれません。というわけで、ここではこの小説の基本的な構成を解説しておきたいと思います。(注:小説の構造についてネタバレがあります。メタフィクションや実験小説に慣れているので心配無用、むしろボルヘスの技巧に驚きたい!という方は先に本編をお読みください)

 

この小説は、ボルヘス本人と思しき語り手の前で、友人のビオイ=カサレス(実在の作家)が「ウクバール」という見知らぬ地域のある教祖の言葉を引用するところから始まります。ビオイはその地域について『アングロ・アメリカ百科事典』で読んだというので同じ事典を調べたところ、該当の記述が存在しない。首をかしげていると、翌日ビオイは、自分の持っている同事典の第四十六巻には余分なページがあり、そこにウクバールのことが書いてあると言います。そこから、語り手と友人たちの、謎の地域ウクバールに関しての調査が始まります。

事典によればウクバールの文学はもっぱら「トレーン」という架空の地域についてのもので、そして語り手は死んだ知人の遺品の中から『トレーンを扱った最初の百科事典第十一巻』を発見し……

一九三七年の九月、ハーバート・アッシュは動脈瘤破裂で死亡した。その数日前、彼は封をした書留小包をブラジルから受け取っていた。それは、大型の八つ折り判の書籍だった。アッシュはそれをバーに置きっぱなしにし、数ヵ月後に、わたしが見つけた。そのページをめくり始めたとたんに、わたしは驚き、軽い目まいに襲われたが、それについて細かいことは書かない。これは、わたしの感情の物語ではなく、ウクバールとトレーンとオルビス・テルティウスの物語だからである。「夜のなかの夜」と呼ばれるイスラームの夜には、天上の秘密の扉がいっぱいに開け、壺の水がますます甘美なものになるという。それらの扉が開かれたとしても、わたしはあの午後とおなじ感覚に落ちいることはないだろう。本は英語で書かれていて、一〇〇一ページもあった。黄色い革の背に以下のような奇妙な文句があり、扉にもおなじものがあった。「トレーンを扱った 最初の百科事典第十一巻。 Hlaer-Jangr」。

(「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」より)

 

「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」はこのような、架空の地域について、そして架空の地域について書かれた架空の本についての物語です。これは実にペダンティックかつ馬鹿馬鹿しいホラ話で、それだけで大変に面白いのですが、ボルヘスの独特なところはこの「ウクバール」および「トレーン」についての情報が異様に凝っているところです。結果として、この短編には以下の三つの層が同じくらいの分量で含まれることになります。

  • A層:語り手(ボルヘス)が友人らとともに「ウクバール」および「トレーン」のことを調べている世界の記述
  • B層:「ウクバール」という正体不明の地域についての情報
  • C層:ウクバールの文学において語られるという、架空の地域「トレーン」についての情報

 

このA層だけならこの短編はシンプルに架空の歴史調査小説なのですが、B層とC層についての情報量がすごいため、読んでいるとだんだん「あれ、私は今何を読んでいるんだっけ……」と混乱してしまうのです。ぜひこの三層の構造を頭に入れて読んでみてください。繰り返しますが、C層の主題である「トレーン」は、「そもそもが架空の地域である「ウクバール」で書かれた文学の中に出てくる、ウクバール人にとっての架空の地域」です。つまりトレーンは二重に架空の世界なのです。

 

圧巻なのは、語り手が架空の地域トレーンの宇宙観と哲学について記述する部分です。トレーンの言語には名詞が存在せず、時間の流れという概念もなく、物体の同一性も信じられていないといいます。トレーンでは我々の世界とは全く違う秩序によって世界が認識されており、その異様な、しかしなんとなく理が通っているようにも思える哲学をボルヘスは語ります。そしてトレーンにおいては、人の願望が実際にモノを作り出すことがあり、そのようなモノは「フレニール」と呼ばれます。例えば、古代遺跡を発掘したいという望みによって実際に古代遺跡が地中から生まれるというような。ボルヘスはこの素っ頓狂な観念体系を、それがまるで実在のものであるかのように精密に語るのです。

 

そして、さらにダメ押しで面白いのは、この小説は最後に「一九四〇年、サルト・オリエンタにて」という記述があって一旦終わるのですが、そのすぐ後に「一九四七年の追記」が始まるのです。

追記では、1940年に語り手がこの文章を書いたのちに発見されたことになっている新資料により、ウクバールとトレーンについてのさらに壮大な秘密(ホラ話)が明らかになります。そしてあろうことか、上記でまとめた三層の区別が、密かな、そして不気味な出来事によって揺らぎ始めるのを読者は見せられます(そして混乱します)。

壮大で複雑な物語や世界観を短い分量に圧縮する、ボルヘスの真骨頂と言える短編でしょう。

 

クールで衒学的な奇想ミステリ「八岐の園」「死とコンパス」

 

『伝奇集』の中でも、この二作は比較的ストレートなミステリ小説(飽くまで「比較的」ですが……)となっており、読みやすいです。なんでしたらこの二作から読むのがお勧めですし、奇抜なミステリが好きな方はこの二作のためだけにこの本を買ってしまってもいいと思います。それくらいの面白さとカッコよさがあります。

「八岐の園」は、俞存(ユソン)という男の陳述書として書かれています。舞台は1916年。ドイツのスパイとしてイギリスに潜伏し、砲兵隊陣地の場所という重要な情報を掴んでいる俞存は、追手を逃れながら、どういうわけか危険を冒してスティーヴン・アルバート博士という人物の家を訪ねます。博士は崔奔(ソイフォン)という中国の文人のことを研究しており、彼が設計した庭園「八岐の園」を再現していました。

崔奔は奇しくも俞存の曽祖父であり、そしてさらにアルバート博士は、崔奔が生涯をかけて作り上げようとした「迷路」を再現したと言います。二人は崔奔が目論んだという無限の迷路、そして無限の本とはどのようなものだったかについて議論をし……そして物語は、思いもかけない形で鮮やかに収束します。

一方、「死とコンパス」はホテルでの殺人事件で幕を開けます。殺されたのは、ユダヤの律法学者ヤルモリンスキー博士。現場には、「御名の第一の文字は語られた」というメモ。捜査員のエリック・レンロットは、被害者の職業、部屋に残された多くの書物、そして謎のメッセージから、この事件はユダヤ教の信仰に関係があると推理します。そしてちょうど一か月後に郊外の空き地を起こった第二の殺人現場には、「御名の第二の文字は語られた」という文字が残されていました。そしてレンロットはユダヤ教における、口にしてはいけない神の名である「四文字語(テトラグラマトン)」の概念から、これが四つの殺人からなる連続殺人に発展することを予測するのです。

捜査の手を逃れて続く殺人事件。ユダヤの律法に関する手がかり。街で暗躍する犯罪者レッド・シャルラッハの影。殺人現場が地図に描く図形──多くの謎が渦巻く中、物語はユーカリの香りに包まれたトリスト=ル=ロワの別荘でクライマックスを迎えます。

「八岐の園」と「死とコンパス」、ともにロマンティックでサスペンスフルなムードと、該博すぎる知識に裏付けられた情報量と、そして突拍子もない着想を備えた、奇想ミステリの傑作です。

 

偉大なるワンアイディア小説「円環の廃墟」「バベルの図書館」

 

「円環の廃墟」と「バベルの図書館」、この二作の共通点は、ワンアイディアものというか、内容を説明しようと思えば一言で言い表せてしまうところです。

「円環の廃墟」は、ある男が、夢見ること、想像することによって別の一人の人間を生み出す話。

そして「バベルの図書館」は、無限に書棚が続き、そこには存在しうる全ての本が納められているという図書館の話です。

これらの説明はネタバレにすらなりません。読み始めればすぐにわかることだからです。そして、この一言で説明できてしまう単純なアイディアを、いかに複雑で奥深く、魅力的に語ることができるかという点がボルヘスの腕の見せ所というわけです。

もともとはシンプルな着想の小説でありながら、どちらの小説もボルヘスの代表作として挙げられることも多い傑作です。

 

以上、計五作を紹介してみましたが、この『伝奇集』には他にも傑作・名作・怪作が目白押しです。

おそらく世界でもっとも内容の濃い短編集のひとつであろうこの本に、ぜひ挑戦してみてください。

 

次の一冊

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ボルヘスの小説を読んでいると何度も感じさせられるのが、古い書物と、そこに収められた知識への深い愛着です。古代世界の伝説の図書館であるアレクサンドリア図書館は、アルゼンチン国立図書館の館長でもあったボルヘスにとっても重要な興味の対象でありイメージ源だったことでしょう。
また、改めて読み返してみると、ボルヘスの小説にはグノーシスについての言及が多く登場します。このキリスト教異端思想が、ボルヘス作品の神秘的・秘教的な世界観に与えた影響は大きそうです。

 

 

せっかくなので南米文学の短編集を並べてみました。(最後のは新品では手に入りませんが)

 

 

 

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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

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こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

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