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スティーブ・ロジャースはなぜ困った顔をしているのか 生贄としてのキャプテン・アメリカ

MCUキャプテン・アメリカについてまとめてみる

 

マーベル公式サイトより

 

なんとなく、どこかの時点で自分にとってのMCUについてまとめておこうと思っていて、しかしずっと継続して作品が出てくるのでまとめるタイミングが難しかったのだが、最近自分の中でちょっと一段落した気がするので書いてみる。

念のため説明すると、MCUというのはマーベル・シネマティック・ユニバースの略で、2008年の『アイアンマン』から続く一連のアメコミ映画のシリーズのことだ。

私にとってのMCUは主にキャプテン・アメリカなので、今回はその話になる。作品で言うとアベンジャーズ/エンドゲーム』までが範囲となり、後日談として『ファルコン&ウィンターソルジャー』の話も少し出てくる。

 

さて、MCUキャプテン・アメリカについてはすでに千言が費やされていると思うので、ここではこのキャラクターの概要や全体像よりも、本当に個人的な興味の行先について書きたいと思う。

いや、興味という言葉は少し婉曲的にすぎるかもしれない。もっと正直に、キャプテン・アメリカに向ける欲望と言うべきだ。

 

ヒーローとは何か

 

アメコミ映画というのはヒーローの映画なのだが、考えてみれば、「ヒーロー」というのは人々の欲望の向かう先だと思う。誰かをヒーローと、英雄と名指した瞬間から、私たちと彼らの間には圧倒的な非対称性が発生する。私たちはヒーローに期待し、彼らを欲望し、彼らを消費するだろう。それは「ヒーロー」の語源である、古代ギリシアの半神の英雄(ヘロス)たちの頃から同様だと思う。ヒーローというのはその起源から、私たちのための生贄なのだ。

そして私はこの、「ヒーローを見たいという私たちの欲望」という要素は、「ヒーロー論」を語るうえで必須の前提だと考えている。

(そのように考えると、「等身大のヒーロー」「共感できるヒーロー」のような概念を求めてしまう私たちの願望はなおさら業が深いと思う)

そのようなヒーロー性を、MCUにおいて最も色濃くまとっていたのがキャプテン・アメリカだったはずだ。

 

スティーブ・ロジャースの困り顔

 

キャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャースは、いつも困った顔をしている。
それはたぶん、自分でももてあますほどの力、そこまでは望んでいなかったほどの力を得てしまったことに対して困っている顔だと思う。

それは、具体的な腕力や戦闘力のことだけではなく、彼がその身にまとわされた象徴的な力のことでもあるだろう。

というか、キャプテン・アメリカの力というのは、そもそもその大部分が象徴的な力であると思う。

 

もとよりMCUの世界において、「強さ」の比較というのは非常に大雑把なものなのだが、中でもキャプテン・アメリカの強さというのは不思議なものだ。

設定上、彼のヒーローならではの特殊能力というのは、「超人血清」を注射されたことによって得た、純粋に肉体的な能力である。要するに、「単にフィジカルが強い人」だ。

そのようなキャプテン・アメリカが、全身これ最新兵器のアイアンマンや、神話的世界からやって来た神であるソーや、なんでもできる魔法使いドクター・ストレンジや、巨大化できるアントマンなどと肩を並べて戦うというのは、冷静に考えるとおかしい。

そのようなことはヒーロー映画の、ひいてはアメコミの「お約束」なのであって、いちいち気にするべきではない、というのはその通りだろう。別に私も気にしていない。

そういう話ではなく、その「お約束」を成立させる力そのものが、つまりキャプテン・アメリカの「象徴的な力」なのだと言いたいのだ。

キャプテン・アメリカが振るうのは、象徴としての力である。彼は象徴としての力が誰よりも強いがゆえに、どんな強敵とも戦うことができる。そしてキャプテン・アメリカの映画とは、その象徴としての力を成立させるための装置であり、その力のために全てが演出されていると言ってもいいだろう。

 

わかりやすいエピソードがある。雷神ソーが持つハンマー「ムジョルニア(ミョルニル)」は、ソー以外には持ち上げることすらできない。アベンジャーズの面々が集まったパーティーで、力自慢のヒーローたちが持ち上げようと試みるのだが、ムジョルニアはびくともしない。しかしスティーブが力を込めると、それはピクリとほんの少しだけ動き、ソーは一瞬、驚愕の表情を見せる。このシーンは伏線となり、後に「エンドゲーム」のクライマックスにおいて、スティーブはこのムジョルニアを振るって宿敵サノスと戦うことになるだろう。

この、「ムジョルニアはソー以外には持ち上げることができない」という概念は、もちろん重さの問題ではない。このハンマーはソーのためだけにある、ソーにのみ使用を許された武器ということなのだが、ソーがムジョルニアに対してもつそのような神話的な権威・正統性に匹敵する象徴的な力を、キャプテン・アメリカは有しているということだ。

 

そのような、キャプテン・アメリカことスティーブが持っている象徴としての力の内実とは何なのか、一体彼は何を象徴しているのかということになれば、いろいろな解釈があると思う。

それはまず第一には、もちろんアメリカ」だろう。それも現実のアメリカというよりは、理念としての「アメリカ」だと思う。そのことは、ひいては彼をアメリカン・コミックのヒーローそのものの象徴にもするだろう。

あるいは、それは「ヒーロー映画」なのかもしれない。MCUの映画は、ヒーロー映画というジャンルそのものの力をキャプテン・アメリカに代表させるように作られている、という言い方もできるだろう。

 

とはいえ、キャプテン・アメリカが何の象徴なのかを考えるのはここでの目的ではない。ここで言いたいのは、とにかくキャプテン・アメリカの力というのはそのような抽象的な力であり、だからこそそれは映画の中でもっとも強大なのだということだ。

スティーブ・ロジャースとは、そのように強大な、個人の手にあまる力の受け皿となってしまった人物であり、だからいつも困った顔をしているのだ。

 

受肉した力

 

ティーブが持たされた象徴的な力は、その身体ひとつに宿っている。金髪碧眼の、筋骨隆々たる体躯。星条旗をあしらった衣装と盾。

彼はアベンジャーズのリーダーだが、アベンジャーズは決して彼の身体の延長ではないと思う。彼の象徴的な力、私たちが彼に持っていてほしいと望む力は、ただ彼の肉体のみに流れ込む。だから彼は常に戦場の最前線に立って、その身ひとつであらゆる敵と戦っていなければならない。

私たちが見るのは、見たいと望んでいるのは、彼の肉体の躍動であり、その躍動に象徴的な力が宿っているさまだ。理念としてのアメリカの力、望ましいものとしての正義の力、古代から受けつがれる英雄の力が、キャプテン・アメリカのうちに受肉するのを私たちは欲望する。その時、そこにスティーブ・ロジャースという個人はいるのだろうか。私たちはたぶん、いてほしいと望んでいる。巨大な象徴的な力を体現しながら、しかも自律した個人であってほしいと望んでいる。なんという暴力であろうか。

この時、スティーブはすでに困った顔をしていない。いざ戦いが始まれば、彼は唇を引き締め、決然と敵に向かうだろう。象徴としての力を、その受け皿であることを受け入れたのだ。私たちはその顔を見て歓びを感じ、自分自身が正義の側にいると感じる。

 

正義と言えば、古典的なヒーローであるキャプテン・アメリカというキャラクターへの批判的な観点もまた、MCUにはもちろん組み込まれている。金髪碧眼の健康なシスジェンダーヘテロセクシャルの白人男性という圧倒的なマジョリティの表象が、もはや現代の正義を代表して戦うヒーローとして相応しくないということを本人たちもわかっていて、それもまた、スティーブが常に困った顔をしている理由のひとつかもしれない。

そもそも、言うまでもないことだが「アメリカ」と「正義」の結びつき自体が批判されるべき最たるものなわけで、キャプテン・アメリカという古色蒼然たるヒーローは決してストレートに成立するものではない。シリーズの一作目『ザ・ファースト・アベンジャー』で描かれるように彼はもともと戦意高揚・国威発揚のためのマスコットであった。そのような屈託を抱えつつ、スティーブ・ロジャースは常に、仕方なくヒーローをやっているのだ。

そう考えると、キャプテン・アメリカの武器が「盾」であることは意味深長だ。それは本来は武器ではなく、飽くまでも防具であり、キャプテン・アメリカの装備は建前上は防衛のためにある。

専守防衛のための、星条旗をあしらった盾。世界最強の金属ヴィブラニウムで作られたその重く頑丈な盾が、圧倒的な力で投げられ、飛来する。アメリカを象徴する図像を持った最強の防具による物理的攻撃、というのはなんともシニカルなヒーローの必殺技だ。

 

しかし実際のところ、私たち観客にとって最も印象的なアクションは、盾を投げるキャプテン・アメリカの姿だろう。

筋骨隆々たるスティーブ・ロジャースが、古代ギリシア円盤投げ像のように、大きく振りかぶって盾を投げる。敵に命中した盾は、時にまっすぐ、時に弧を描いて戻ってくる。スティーブはその盾を、その重みを全身の筋肉で受け止める。

キャプテン・アメリカの象徴的な力、MCU映画の中でもっとも強大な力が宿るのは、そのようなアクションのうちにだ。であればこそ、後日談となる『ファルコン&ウィンターソルジャー』において、その盾を受け継いだファルコンことサム・ウィルソンは盾を投げる訓練に明け暮れるだろう。

そのような、キャプテン・アメリカの姿。常に口を半開きにして困った顔をしていたスティーブ・ロジャースが唇を引き締め、その身にまとわりつく矛盾を受け止めながらも振り捨て、身を守るはずの盾を力に任せて投擲し、そして戻ってきたそれの重みを受け止める姿。それをスクリーンに見るとき、私たちはある巨大な力がその姿のうちに受肉するのを感じる。そしてそれは、ほかならぬ私たちがそれを望むからだ。私たちの視線が、期待が、欲望が、スティーブという個人の肉体へと神話の力を流し込む。それを呼び込み、受け止めるに足る肉体とアクションを、MCUキャプテン・アメリカはスクリーンに映し続け、そして私たちはそれを享受し、夢を見ていた。

それは正義の夢であり、アメリカの夢であり、ヒーローの夢だ。それは私たちが見たいと望んだ夢であり、そしてそれは、私たちのスティーブ・ロジャースの肉体への欲望と深く結びついていたと思う。

そのような意味で、キャプテン・アメリカは私たちに捧げられた生贄であり、彼はその力を消尽してスクリーンから姿を消した。『エンドゲーム』の最後のカットは、償い切れない犠牲を彼に強いた私たちの罪悪感を、ほんの少し和らげるためにあったのかもしれない。

 

 

 

※ここに書いたようなことを、製作側もかなり自覚しているんだな、と感じたシーンがある。『エンドゲーム』で過去に戻ったスティーブが自分自身と戦って倒し、倒れている自分自身の尻を見るシーンだ。

過去のスティーブのヒーロースーツの尻を見たトニー・スタークとスコット・ラングが、「ケツがよくない、ダサい」「いや、かっこいいよ。〈アメリカのケツ(America's ass)〉って感じ」などと論評するのを受けてのシーンなのだが、ここでスティーブは、倒れた自分自身の尻をまじまじと見て、「〈アメリカのケツ〉か(That is America's ass)」とひとりごちる。

言うまでもなく、この「アメリカのケツ」という概念こそ、スティーブ・ロジャースの肉体によって象徴的に表現された、理念としてのアメリカを指すものである。

 

次の一冊

pikabia.hatenablog.com

私たちの生贄としての身体ということであれば、やっぱりこの本をご一読ください。

 

 

(追記)
この記事、完全にMCU映画をすでに見ている方に向けて書いておりましたが、未見の方が読まれるころもあるかもしれないと今さら思い、お勧めタイトルを追記します。

キャプテン・アメリカが出てくるMCU映画を見たいという方は、とりあえず以下のうちどれかを見てみるのが良いかと思います。

個人的に一番好きなのは『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』です。
あまり細かいことを気にされない方であれば、いきなりこれを見てしまっても大丈夫です。