火村英生が活躍する「作家アリスシリーズ」の異色作
さて、これから有栖川有栖の小説を紹介するにあたり、確認しておかなければならないことがある。
正直なところ、私はぜんぜんミステリを読まない。年に2~3冊読む、かも?という程度の読者である。
コナン・ドイルもアガサ・クリスティも読んだことがない(映画とかドラマでは見た)し、社会派とか本格とか新本格とかも通り一遍の概要以上のことはわからない。
そして何より重要なことだが、トリックがある程度以上に複雑になると脳が認識を諦める。名探偵が華麗に推理を披露している際も、だいたいの場合は名探偵のカッコよさだけ味わいつつ、情報を目から後頭部へ素通りさせながら「なるほど、そういうことだったんですね!」とわかったふりをしているのだ。もちろん「読者への挑戦」があれば2分ほど考えてすぐ続きを読むし、トリックとその解明がフェアかどうかなどという観念については完全にお手上げである。その程度の読者なのである。
そうは言ってもミステリ、特に本格ミステリのあの独特の雰囲気は好きなので、その雰囲気が味わいたくて時々読むわけである。雰囲気で。好きなミステリ作家と言えるのはかろうじて殊能将之くらいだろうか。他にもメフィスト賞作家は何人かは読んでいて、あと『虚無への供物』とかそういうのは好きです。
だいたいその程度の人物による紹介なのだということを、まずは念頭に置いていただきたい。
というわけで前置きが長くなったが有栖川有栖の2015年作『鍵のかかった男』である。これは作者が長年にわたって書いている「作家アリスシリーズ」または「火村英生シリーズ」の一冊だ。
作家アリスシリーズというのは、作者と同名のミステリ作家・有栖川有栖(以下アリス)が語り手となり、探偵役である、「臨床犯罪学者」と呼ばれる社会学者の火村英生とともに事件を解決していくシリーズである。なお1992年から現在までそれぞれの時代を舞台として書き続けられているが、登場人物たちは常に同じ年齢設定である。(ある意味『ポーの一族』みたいだなと思う)
この『鍵のかかった男』の物語は、作家であるアリスが大物作家である影浦浪子から奇妙な依頼を受けるところから始まる。影浦が常宿にしている大阪・中之島にある古いホテルで起こった事件を、アリスの友人である火村英生に調べてほしいというのだ。
銀星ホテルというその小さなホテルには、梨田稔という69歳の男が5年に渡って滞在していたのだが、ある日その男が自殺と思われる状態で発見されたのである。ホテルの関係者や影浦を含む他の常連客との関係も良好、普段はボランティア活動に精を出す梨田が自殺したと信じられない影浦は、これは他殺ではないかと疑っているのだ。
なんだかんだで依頼を引き受けたアリスは、火村が勤め先の大学の仕事で多忙なため、先に現地入りして調査を始めることになったのであった。
「中之島」をめぐる観光小説
さて、この小説の大きな特徴のひとつは、物語のほとんどが、大阪の中之島という狭い地域で展開されることである。中之島というのは大阪の中心部にある、二本の川に挟まれた細長い中州状の地域である。長さは3km、幅は最大で300mとのこと。この細長く狭い島のような場所に、大阪市役所や日本銀行大阪支店、図書館や公会堂など重要な施設が立ち並んでいる。戦前から残る歴史的な建築も多いそうだ。ここに住む者は「島民」と呼ばれたりする。
この小説の大半は、語り手のアリスがホテルの関係者や常連客とともに語らいながら、あるいは一人黙考しながら、この中之島を歩き回る場面から成っている。アリスは小さなホテルで故人の足跡を追いながら、「島」と呼ばれるこの中州にある図書館やカフェをめぐり、保存された近代建築やバラ園を散策し、そしてその中心にあるホテルに滞在する。
これはそのような一種の観光小説であり、中之島という場所に行ってみたくなること請け合いである。私も次に大阪に行ったら絶対に訪れたい。
浮かび上がる、死者の人生
そして、この小説はミステリとしてもかなり異色の構成を持っている。いや、前述のようにミステリぜんぜん詳しくないんですけどたぶん異色だと思う。
この、かなり分厚い小説の大半の部分は、トリックの解明や犯人捜しではなく、ホテルの部屋でひっそりと死んだ梨田稔という人物が、そもそも一体何者だったのか?という謎を追うことに費やされるのだ。
死んだ梨田には家族もなく、自殺だとしても遺書もない。そして預金通帳には多額の預金。5年前にふらりとホテルに訪れる前のことは断片的にしかわからない。部屋に残されたのは一冊のアルバムだけ。
アリスは、梨田の死因が自殺なのか他殺なのか、自殺の動機はあったのか、あるいは誰かに梨田を殺す動機はあったのかを知るために、この人物は一体誰で、どこから来て、何をしていたのかを調べ始める。それはひたすら地道な調査である。全ての関係者に話を聞き、断片的にしか得られない、ほんの小さな手がかりを繋ぎながら、少しずつ過去へと遡っていく。やがて梨田の過去を知る者たちを突き止め、会って話を聞くうちに、徐々に梨田という人物の人生が、アリスと読者の中で形を取っていく。
この部分、つまり、謎だらけだった故人の人生が、断片的な情報、多くの人々が話すそれぞれの記憶や印象の中からだんだん浮かび上がってくるということ、それ自体がこの小説の最も印象的な部分なのだ。事件の解決や犯人捜しよりも先に、まずひとりの死者の人生が、多くの人々の記憶の中から現れてくること。それはその死者との、死後の出会いである。『鍵のかかった男』とは、そのようなことを書いた小説なのだ。
そしてこの、死者にまつわる断片的で不完全な情報の集積、無意味にも思えるいくつもの細かな事実の間から隠れた繋がりが見出されていく過程は、まさしく本格ミステリならではのものだと思う。この小説は、隠された人生という謎を解く本格推理なのだ。
もちろん物語の最後には、梨田の人生を知ったことにより事件の秘密が解き明かされ、追って駆け付けた火村英生の推理によって最後の謎が解決される。そのシークエンスも素晴らしく鮮やかで大満足である。
アリス活躍回です。
ちなみに私はこの「作家アリスシリーズ」を何冊か読んでいるが、この『鍵のかかった男』は、中でも語り手のアリスが大活躍する一作である。何せ名探偵の火村が終盤まで出てこないのだ。普段のシリーズではわりと狂言回しというか、火村に対するリアクション役だったり、あるいは間違った推理を披露して真相解明までの回り道を演出したりもするアリスが、今回は身を粉にした調査と関係者たちへの思い入れによって自力で故人の人生を解明していくのだ。
シリーズのファンにとっては、「アリス、今回はすごい頑張ったな!」と嬉しくなるだろう。もちろん火村英生は今回も圧倒的にカッコいいのでそちらも十分期待してください。
それにしてもこの有栖川有栖という作家、なんというか、ほとんど昭和から活躍しているエンタメ作家としては、現在の感覚でも大変に安心して読める。女性登場人物の書き方などもとてもフラットで、ジェントルな人というのは昔からジェントルだったのだな……と思いますね。
次の一冊
有栖川有栖の小説は何冊か読んだだけなのだが、たまたま読んで面白かったのがこちら。作家アリスシリーズのうち、タイトルに国名が含まれる「国名シリーズ」の一冊だ。(というかシリーズの中にシリーズがある時点ですごい) アリスと火村がマレーシア旅行中に遭遇した事件を解決する話で、読んだらマレー鉄道に乗りたくなります。第56回日本推理作家協会賞を受賞している作品なのでミステリ界での評価も高い模様。
そのうち読みたい
有栖川有栖には「作家アリスシリーズ」のほかに「学生アリスシリーズ」または「江神二郎シリーズ」と呼ばれるもう一つのシリーズがあり、そっちはまだ読んだことがないのでいずれ読んでみたいと思います。語り手のアリスが作家になる前、学生時代の話のようですね。
『鍵のかかった男』というタイトルは、おそらくこのオースターの『鍵のかかった部屋』から来ているんだろうなと思いつつ未読。
ところで書いていて思ったのだが、この「不在の人物について調べているうちに思わぬところへ連れて行かれる」という感じは以前に紹介した高山羽根子の「如何様」にもちょっと似ているなと思いました。小説としてのジャンルはだいぶ違いますが。