もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』 植民地政策と密林の恐ろしさを、突き放した視線で描く

船乗り作家による、時代を超えた小説

 

ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』は1899年にイギリスで発表された小説で、近代文学の名作と名高く、またポストモダン文学の先駆とも言われる、時代を越えて読まれている本だ。ちなみに近代文学の名作としては珍しく中編で(だいたい長いイメージないですか?)、文庫本で200ページ程度とコンパクトな作品なのも魅力だ。

作者のコンラッドは1857年に当時ロシア領だったポーランドのベルディチェフ(現在はウクライナ)で生まれ、いろいろあって両親を亡くした後に16歳で船乗りとなり、商船で世界を巡る航海の日々を20年にわたって送る。やがてイギリス国籍を取得し、ロンドンで小説家となるのだが、実体験を活かして書かれた代表作がこの『闇の奥』だ。

(なお上記リンクは2022年に出たばかりの高見浩の新訳版)

 

物語の語り手は、作者自身の分身のような船乗りのマーロウ。この小説はまず三人称視点で、夕暮れのロンドンのテムズ川に浮かぶ船の上の描写から始まるのだが、船上で引き潮を待つ船員たちのうち一人、すなわち語り手のマーロウが、自分の見聞きしてきた出来事をふと語り始める、という形で進行する。この『闇の奥』は、ほぼ全編がマーロウによる文字通りの「語り」なのだ。

この小説の魅力はまず第一に、マーロウの饒舌でユーモラス、皮肉っぽいけど時に鋭利な洞察を見せる語り口調にある。19世紀末の小説なので、今読むと少し描写が冗長だと感じる人もいるのではないかと思うが、この軽妙な語り口はそれを勢いよく読ませてくれる。

ちなみに小説の中では時折マーロウの語りが中断し、船の上の情景や語りを聴く人々、そして語っているマーロウ自身の様子が三人称視点で描写される。ダイナミックな物語に没頭していた読者は急に現実に引き戻されるかのように我に返るだろう。このような形式も、この小説に現代的な距離感を与えていると思う。

 

植民地政策とそれを描く視点

 

マーロウが語るその体験(それは作者自身の体験をもとにしている)とは、当時ベルギー領だった中央アフリカコンゴ自由国での出来事である。

彼はベルギーの貿易会社に雇われ、欠員が出た船長の代理としてコンゴに赴く。そして彼は壊れていた蒸気船を修理し、コンゴ川を遡って密林の奥地を目指し、クルツという人物を救出しに行くことになる。クルツは奥地出張所にいる貿易会社の社員であり、そこから大量の象牙を送って来る優秀な人物なのだが、先ごろ病に倒れたのだという。

物語の大部分はこの、ヨーロッパからアフリカに至り、そして密林に分け入って大河を遡行する行程についてのものだ。そしてその過程において、語り手は当地における植民地支配の実相を目の当たりにすることになる。

この部分こそ、この小説を歴史上最も著名な作品にした要素だろう。マーロウの、そしてコンラッドの目は、ヨーロッパ人による現地人の支配と文字通りの搾取を、仮借のない筆致で綴る。そこでは肌の黒い人々が過酷な労働を課せられ、疲労し消耗すれば死ぬがままにされる。

 

ただし、勘違いしてはならないのは、この小説は現代的な倫理観において植民地支配を批判する小説ではないということだ。何しろ作者本人が帝国主義時代のイギリス国民であり、その枠組の中で生き、執筆をしている。訳注や解説にも書いてあるが、どうやらコンラッド本人にはイギリスの植民地政策に対する批判的意識があったわけでは無いらしい。

しかし一方で、コンラッドは当時植民地支配を正当化していた、「文明人としてのヨーロッパ人が未開の人々を解放する」というイデオロギーをおそらく信用していない。『闇の奥』においては、コンゴにおけるヨーロッパ人の所業こそが蛮行として描かれているようでもある。

この突き放された視線こそが、この小説が現在においても読み継がれている理由のひとつではないかと思う。植民地支配を根源的に批判する視座はまだ持たないが、しかしその欺瞞を信じているわけでもない。そのような距離感において、コンラッドはあらゆる支配と蛮行を描いているように思える。

 

大地は見慣れた大地にはほど遠かった。おれたちは、征服されて囚われの身になった怪物ならば、見慣れている。だが、あそこでは──あそこでは、怪物的なものが自由気ままに振舞っているんだ。それをまのあたりにすることができた。大地は見慣れた大地ではなく、そこで暮らす人間は──まあ、人間らしくないわけではなかった。そこなんだ、そこが始末におえない点だった──あの連中も、人間でなくはないと思える点がね。それがしだいにわかってくる。彼らは吠え、飛び跳ね、くるくるまわり、恐ろしい面相をしてみせる。だが、慄然とするのは、そんな彼らもおれたちと同じ人間なんだという考えが浮かぶときでね──そうなんだ、自分もまた、この荒々しい狂騒とどこかでつながっていると感じるときさ。実におぞましい。ああ、なんともおぞましい話だ。しかし、男らしく真実と向き合える人間ならば、自分のなかにも、あの狂騒の恐るべき率直さに呼応するものが微かに残っていることを認めるだろうよ。そう、始原の夜からかくも離れた自分にも、理解できるものがある。その事実には、なにがしかの真実性があるのではないか。そういう微かな疑念にもとらわれるはずだ。 それも当然だと思うんだな。人間の精神に不可能なことはない──なぜなら、そこにはすべてのものが、あらゆる未来同様あらゆる過去が、包摂されているのだから。あの狂騒のなかには何があったのか? 歓喜、恐怖、悲哀、献身、剛勇、憤怒──はっきりとはわからないが──真実──時間という覆いを剥ぎとられた真実があったことは確かだ。
(第二章より)

 

ヨーロッパ人にとっての異世界

 

この小説で描かれるもう一つの大きな要素は、アフリカの大自然そのものだ。大河を遡航する過程において、語り手は常に巨大な密林の存在を感じ続け、その存在に何かしらの影響を受けるように感じ続ける。その描写は、ヨーロッパにとっての異世界であるアフリカの密林と出会った、19世紀のヨーロッパ人の驚きを生々しく伝えてくるようだ。

そしてその極点において起こるのが、奥地出張所で待つ人物、クルツとの邂逅だ。クルツは密林の奥地で一人、大量の象牙を獲得するために活動し、その過程で現地人に崇拝される存在となり、いわば自分の王国を打ち立て、そして病に倒れる。この小説のもう一人の主人公がこのクルツであり、コンラッドは植民地政策と深い密林の奥での日々が作り出したこの異形の人物を、マーロウの目を通して鮮烈に描き出す。その姿はぜひ実際に読んで確かめてほしい。

 

他のバージョンもあります。

光文社古典新訳文庫の黒原敏行訳は2009年刊、岩波の中野好夫はなんと1958年刊。

 

次の一冊

 

こちらはジョゼフ・コンラッドを含む、英語で執筆した三人のモダニズム作家を分析し、その歴史叙述のあり方について書いた文芸批評。以前に紹介したので過去記事をどうぞ。

pikabia.hatenablog.com

 

19世紀英国つながり、といっては安直にすぎるかもしれないが(そもそも発表年が81年も離れている)、『闇の奥』を読んでいて思い出したのがこのフランケンシュタイン。込み入った語りの構造や、クルツというある種の「怪物」を描いているところが少し似ている気がする。

 

そのうち読みたい

 

上記『〈わたしたち〉の到来』の著者である中井亜佐子による、こちらはコンラッドと『闇の奥』にフォーカスした本。ぜひ読んでみたい。

 

 

 

※宣伝

2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

pikabia.hatenablog.com

こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。コンラッド『闇の奥』も出てきます。

kakuyomu.jp

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