もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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『シン・仮面ライダー』が表現する、特撮のヌーヴェル・ヴァーグ的異物感

生々しい手触りを目指す、庵野秀明ヌーヴェル・ヴァーグ映画

 

 

庵野秀明監督『シン・仮面ライダーがようやく海外でも公開されたので、遅ればせながら劇場で見ることができた。(すでにAmazonプライムビデオで配信が始まっているが)

例によって賛否両論の映画というのは知っていたが、個人的には大変好きな映画となった。シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマンと比べても一番好きだと思う。

なお私は特撮自体はそれなりに好きであるものの、この映画の元となった初代「仮面ライダー」、および石ノ森章太郎によるそのコミック版について何も知らないので、そのような人物による感想だと思って読んでいただきたい。

 

※『シン・ウルトラマン』および特撮一般について書いた過去記事はこちら。今回の内容と通じる部分も多くある。

pikabia.hatenablog.com

 

 

さて、私はこの『シン・仮面ライダー』について、庵野秀明自身が監督を務める映画であると知り、公開された予告編を見た時から、「この映画はたぶん庵野秀明ヌーヴェル・ヴァーグ映画なんだろうな」と思っていた。そしてその予感は的中した。

ヌーヴェル・ヴァーグというのは1950年代に始まったフランス中心の映画運動だが、それは乱暴にまとめると「現実の生々しい手触りを表現しようとした映画」というようなことだと思う。それ以前の映画というものは、映画スタジオのセットの中で撮影され、プロの俳優が演じ、音声は全てアフレコであるという、つまり全ての要素がしっかりと構築された虚構/ファンタジーであった。ヌーヴェル・ヴァーグとは、そうではない映画を目指した試みである。以下、当ブログの過去記事より引用する。

 

ゴダールをはじめとしたヌーヴェルヴァーグの映画は、まず第一に観客に異物感を与えようとする。 なぜなら世界のリアリティとは異物感だからだ。手持ちカメラでの撮影やアマチュアの俳優の出演、街頭でのロケ撮影、雑音にまみれた同時録音、映像と音響のブツ切りのような編集など、かつてゴダールヌーヴェルヴァーグの監督たちが導入した歴史的な手法の数々は、今でも我々に異物感を与え続けてくれる。 


(当ブログ「ゴダール『軽蔑』つれづれ感想 あるいはヌーヴェルヴァーグ映画の楽しみ - もう本でも読むしかない」より)

 

つまり、ファンタジーとしての映画が持たない「生々しい手触り」は、異物感として現れるのだ。
 

初代仮面ライダーが放送されたのは1971年。当時の特撮の制作状況に詳しいわけではないものの、それが低予算で作られていたことは間違いないだろう。中でも仮面ライダーというシリーズは、怪獣が出てくるウルトラマンゴジラと違い、等身大のヒーローと怪人が登場する、より現実世界に近い特撮だ。低予算ゆえの技術的制約、そして等身大の存在感により、仮面ライダーヌーヴェル・ヴァーグ的な「現実との関係性」を持っていると主張してもそう的外れではないと思う。

また当時の特撮が独特の「生々しい手触り」を持っているという感覚は、現代の映画との比較によっても際立っている。CG技術の発達により、映画というものはほとんど何でも、どんな怪物でも映せるようになってしまったわけだが、対して実物の着ぐるみを使用したかつての特撮は、独特の現実感を現在の観客に与えるだろう。

過去の特撮に強いこだわりを持つ庵野秀明は、『シン・ウルトラマン』や『シン・仮面ライダー』において、「基本的に何でも描けるCG映画に対し、ある種の制限や制約を課すことによって得られた、新しい生々しさの感覚(上記当ブログ「シン・ウルトラマン」記事より)」を常に志向している。

もちろん過去の特撮に見られるような、技術的な制約に由来するある種のぎこちなさや不完全な印象は、決して当時の作り手によって望まれていたものではないだろう。場合によってはそれは否定されるべきものだったかもしれない。

しかし、表現の形式というものは常に技術的制約によって決まるとも言え、そしてそのような制約の中で生まれた形式がやがて様式となり、美的なものとして受け継がれていく。その様式を重視するという態度において、庵野秀明は古典主義者ということなのかもしれない。
 

 『シン・仮面ライダー』における、唐突な場面展開

 
先に結論を書いてしまったわけだが、では『シン・仮面ライダー』において、そのような「新しい生々しさ」はどのように表現されているだろうか。

私にとって最も印象的だったのは、その唐突な場面転換である。

テレビで仮面ライダー戦隊ものを見たことがある人は、「さっきまで街中で戦っていたのに、カットが変わると急に広い場所に移動している」という展開が記憶にあるのではないだろうか。これはもちろん低予算であるがゆえ、制約ゆえの演出であるのだが、『シン・仮面ライダー』では敢えてこの感覚が再現されている。

主人公、本郷猛が仮面ライダーとなってバイクで走り出す。カットが変わると、さっきとはまるで違った場所を走っている。一瞬のうちに、ありえない移動が起こっている。

あるいは怪人が仮面ライダーの前に姿を現す。対峙する二者。しかしカットが変わると、何人もの戦闘員たちが一瞬のうちに怪人の周囲に陣取っている。一体彼らはどこから現れたのか? それを説明するカットはない。

さらに特徴的なのはライダーのジャンプだ。この映画では、ジャンプの起点、ジャンプ中、そして着地の3カットの間に自然な繋がりがない。ライダーはよく空中で回転するが、その回転を導くべき力のベクトルも明示されない。ここには実体としてのジャンプはなく、ジャンプという概念、ジャンプという様式があるだけだ。

 

これらはいずれも、現代の普通のアクション映画ではあってはならない演出である。映画製作者は、アクションの最中に観客に疑問を抱かせてはならない。登場人物は合理的な空間移動に見えるものを行い、矛盾が生じないように戦い、観客は途切れない一連の動作としてそれを受け取る。

しかし、そのような合理性や矛盾の無さが幻想であることは、少し考えれば明らかだ。映画の登場人物は実際には別々の場所でアクションをし、それがまるで同一空間における一連の動作であるかのように巧妙に編集される。

そして、このような巧妙さ、自然さを技術的予算的制約によって実現しえなかったのがかつての特撮であり、おそらく庵野秀明は、それこそを特撮の本質として経験したのだ。

ゆえに『シン・仮面ライダー』は唐突にカットを繋ぐ。説明不可能な移動と出現、その異物感こそが、特撮の眩惑そのものなのだと言わんばかりに。

そしてまた、飽くまで幻想でしかない「巧妙で自然な映像」に批判的であることがヌーヴェル・ヴァーグの精神でもある。庵野秀明が考える「CG時代における新しい生々しさ」は、どこかでヌーヴェル・ヴァーグと繋がっているのではないだろうか。

 

庵野秀明フェティシズム

 

ところで私は、庵野秀明というのは基本的にフェティシズムの作家だと思っている。この作家にとって重要なのは徹底的に表層、質感、構図、アクションであり、それによって表現されるドラマは二次的なもののような気がずっとしている。

しかし、これは庵野秀明作品のドラマや登場人物、語られる内容について考えることが無意味だという話ではない。そうではなく、それらはフェティッシュな表層との関連のうちに、表層が人間に要求したものとして、この特定の外観を通してしか表現されえないものとして語られなければならないのではないか、ということだ。

機会があったらしっかり考えてみたいが、大変そうな問題である……
 


次の一冊 

『シン・仮面ライダー』のライダーと怪人のデザイン画が、ラフの段階から完成形まで網羅されている(完成形は実物写真も収録)。

この映画の怪人は、着ぐるみというよりも「衣装と仮面」で構成されているところが特徴的であり、それがこの映画の服飾的なところでもある。

『シン・仮面ライダー』の怪人は怪物でも怪獣でもなく、人の身体を持った「怪人」であり、その姿は服装によって表現される。この映画はある意味ではファッションについての映画だと思う。

 

 

次の一本

 

『シン・仮面ライダー』との関連で見るべきヌーヴェル・ヴァーグ映画と言えば、ゴダールアルファヴィルトリュフォー華氏451(もちろんブラッドベリの同名作の映画化)かもしれない。

どちらの映画も、「現代のヨーロッパでロケ撮影した映像を未来世界の描写だと強弁する」スタイルのSF映画であり、その制約を逆手に取ったスタイルは特撮マインドに通じる気がしなくもない。

 



 

 


 
 
 

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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

pikabia.hatenablog.com

 

こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSFです。

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