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『シン・ウルトラマン』を見て振り返る、「特撮」のイメージの秘密

自分にとって「ウルトラマン」とは何だったのか

 

遅ればせながら庵野秀明総監修・樋口真嗣監督『シン・ウルトラマンを劇場で見ることができた。

わりと多くの人がそうだったのではないかと思うのだが、『シン・ウルトラマン』を見るという体験は、自分にとって「ウルトラマン」とは何だったのかということを考え直すことになった。今回は映画の感想をまじえつつ、そのことについて書いてみる。

 

といっても私は特にウルトラマンの大ファンというわけではない。最近のシリーズは見たことがないし、昔のシリーズだって少ししか見ていない。

ただ、小学生くらいの時にテレビの再放送で見た初代ウルトラマンは強く印象に残っているし、その後の映像や芸術の好みに対して少なくない影響を受けたと思う。

『シン・ウルトラマン』はまさにその初代ウルトラマンのリメイク、語り直しであり、私はそれを否応なく、幼少時に強い影響を受けた初代ウルトラマンとの距離感の中で見ることになった。

先に映画の感想を言っておくと、私は基本的にはかなりこの映画が好きだ。特にメフィラス星人のエピソードまでは。そして最後のエピソードはそんなに盛り上がらなかった。(あと多少困ってしまう点もある。後述)

 

ウルトラマンの2つのポイント

 

さて、今回の映画を見ながら、かつての自分にとってウルトラマンあるいは特撮のどこが重要だったのかを考えてみたわけだが、おおよそ以下の2点に絞られるのではないかと思う。

 

1.着ぐるみの物質性

当然のことながら、昔の特撮は全て着ぐるみや模型を使って撮影しており、ウルトラマンや怪獣や宇宙人は実体として存在する。この実体、実物、物質としての存在感自体が、まずは特撮の特撮たるゆえんだと考えたい。かつて自分がウルトラマンから受け取ったインパクトの大部分は、この実体としての怪獣の存在感に由来すると思う。そして、現実には等身大の着ぐるみにすぎない怪獣が、しかし映像と演出の魔術によって、巨大な存在として映し出される。

そこに映っているのは、具体的なもの(着ぐるみ)と抽象的なもの(怪獣)の間のどこかにある存在である。それは見ている我々にとっては、本物の怪獣ではないが、しかし単なる着ぐるみにも還元できない、中間的な存在だ。そのような存在感を醸し出すものとして、着ぐるみの物質性──それはその表面の質感や重みの感覚から得られる──は欠かせない。巨大な怪獣として演出される荒唐無稽な存在に、着ぐるみの質感と重みが重心を与えるのだ。この着ぐるみの物質性と、背景美術やミニチュアの使用を含む演出技術が合わさって、我々の意識の中で、具体と抽象、現実と虚構のはざまに怪獣が出現するのである。それは、映像のドキュメンタリー性と虚構性のはざまと言ってもいい。

 

そのように考えた時、『シン・ウルトラマン』の課題は、CGによって描画されたウルトラマンと怪獣によって、いかにそのような中間的な感覚──実体でも虚像でもなく、そのはざまにある感覚──を作り出すかという点にあっただろう。もちろんそのような旧来的な特撮観にはこだわらず、単にCGで「リアルな」「現実感のある」巨大宇宙人と巨大モンスターを描き出すという選択肢もあったはずだが、しかしそこはさすが庵野秀明と言うべきだろう、しっかりと「CGによって『特撮』を作る」という課題に挑戦し、そしてかなりの部分成功していると思う。

ウルトラマンや怪獣の体表の質感、そして絶妙に制限された動きなどは、その「わざわざ演出された物質性(着ぐるみっぽさ)」によって、前述のような特撮の理念を相当のところまで再現し、結果として単に回顧的なだけではない、新しい表現になっていると感じられる。それは基本的に何でも描けるCG映画に対し、ある種の制限や制約を課すことによって得られた、新しい生々しさの感覚ではないかと思う。ウルトラマンのビニールっぽく輝く体表、まるでスーツの表面のように寄った皺、空中移動する際の奇妙に硬直した姿勢などはその成果だ。またザラブやメフィラスの、着ぐるみでは実現不能なデザインだが、それでもリアルな質感と重さを感じさせる造形と描写も見事である。

 

2.制限された物語と構成

第2の点もまた、制約に関わっている。ウルトラマンの各エピソードの内容は、強い形式によって縛られている。30分番組の中で、必ず怪獣や宇宙人が登場し、それをウルトラマンが3分以内に戦って倒さなければならないのだ。これはウルトラマンという物語に運命的に課せられた条件であり、この制約のもとで毎回の物語を作ることの不自由さは想像に難くない。物語の筋書は常にどこかぎこちなく、不自然なものになるだろう。
またそれは世界観についても同様である。怪獣や宇宙人が(何故か日本にだけ)襲来し、ウルトラマンがそれと戦うという世界をリアルに構築することは、30分という枠内(及び当時の技術と予算)では非常に困難だろう。結果として、その世界観はある種の「お約束」として既成事実化され、そこで起こる出来事のリアリティは不問に付される。

このように種々の条件によって制約され、どこか不自然で奇妙な30分ドラマとして成立したのがウルトラマンというわけだが、しかし我々はすでに、それをそういうものとして体験してしまっている。そのぎこちなさ、不自由さ、いびつさこそを、我々はウルトラマンとして体験したのである。そのことは覆しようがない。そして放送を繰り返すうちに、制約ゆえに生まれた不自然さは「型」となり、作品を支える人工的な形式性へと発展していくだろう。

 

さて、ここで現代における特撮について2つの方向性が考えられる。まずは、前述のような制約が取り除かれた、もっと自然でリアルな物語としての特撮が見てみたいというい方向。そしてもう一方は、このような制約によって作られたいびつさの方にこそこだわりたいという方向だ。私見では、ともに庵野秀明が関わるシン・ゴジラ『シン・ウルトラマンの2作が、このふたつの方向性をそのまま表現していると思う。すなわち、もともと映画としての尺と予算を持つゴジラシリーズの新作である『シン・ゴジラ』が、その映画としての長さと現代の技術を活かし、可能な限りリアルで自然な特撮を実現しようとしたとすれば、『シン・ウルトラマン』は、もともとのウルトラマンが持っていた、特撮30分ドラマとしての制約ゆえの不自然な形式性をこそ再現しようとしたのだ。なぜなら、この方向性を選ぶ者にとってはそれこそがウルトラマンの本質だからである。

『シン・ウルトラマン』の、映像の解像度の高さに比して奇妙なまでにリアリティを欠いた感覚はおそらくここに由来する。それはかつての特撮の「お約束」を戦略的に転換し、現代の映画の多くに求められているものとは違うリアリティの水準を表現しているのだ。中盤のザラブやメフィラスのエピソードは、この意図的に演出された奇妙で不自然な世界観が充分に活かされたものとなっている。またこの不自然さは、リアリティの幻想に慣らされた我々現代の観客に、形式的な「型」のもつ力を思い出せと迫るだろう。

 

まとめ

 

かつてのウルトラマンとは、上記のような2つの条件によって成立した作品だった。まずひとつは、実体としての着ぐるみが持つ物質性。もうひとつは、極度に制約された物語形式による形式性である。思い返すに、この物質性と形式性によって、ウルトラマンや怪獣は圧倒的な「他者/異物」として幼少期の私に強い印象を残したのだと思う。

『シン・ウルトラマン』は現代のCGアクション映画においてはあまり歓迎されないはずのその2点を、どうにかして現代のCGアクション映画として再現しようとした試みだったと思える。そして私の感触としては、それはメフィラスのエピソードまでは成功していた。最後の、最強の敵ゼットンが登場するエピソードにおいて、怪獣のリアルな物質性の表現、そして強い制約を受けた物語の形式は後退する。つまり、なんというか、「普通に現代っぽい映画」になるのだ。私にとってそれは少し残念だったが、そうでもしないと映画としてのまとまりを欠くという判断だったかもしれない。このことの是非については、それぞれの観客の判断に委ねられるだろう。

 

それにしても……

 

……それにしても、である。この映画を見ている最中、我々はなんども、長澤まさみの臀部のアップを見せられることになる。長澤まさみ演じるキャラクターが、気合いを入れる時に自らの尻を叩くという人物だからだ。この時臀部はかなり大写しになる。なんなら怪獣よりも大きいかもしれない。

この演出は何かの気の迷いだったのではないかと思いたいが、しかし、こと庵野秀明が関わる映画においてはそのように判断することはできない。庵野秀明という映像作家は、徹底的な審美主義者である。その作品はひたすら己が見たいと願うイメージの現出に賭けられ、画面上に現れるあらゆるイメージは作家が真に見たいと願ったものであり、またそのイメージの実現そのものが映像を作る動機となる。ゆえにあの臀部の強調は製作者の動機に深く関わっており、そのイメージの実現が映画の目的の一部であると考えざるを得ない。

……我々は問われている。この臀部を受け入れて映画に参入するか、あるいはそれを拒否するかをだ。思えば今までも庵野秀明が関わる作品は、しばしばこのような苦しい選択を我々に迫ってきた。

聳え立つ臀部の門前で、私は立ち尽くしている。

 

そのうち読みたい

 

ウルトラマンと言えばもちろん、20世紀初頭の前衛美術に影響を受けた成田亨によるデザインである。この作品集はそのエッセンスを詰め込んだもののようで、いつか手元に置きたい一冊だ。

 

 

追記:『シン・仮面ライダー』についても書きました!

pikabia.hatenablog.com