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李箱『翼 李箱作品集』 植民地下朝鮮のモダニストによる、近代小説の冒険

1910年ソウル生まれの作家の新訳作品集

 

李箱(イ・サン)は1910年、日本統治下の朝鮮に生まれ、27歳の若さで世を去った詩人/作家だ。ソウル(当時の名は京城)に生まれ、日本語で教育を受けて朝鮮総督府に務め、後にそれを辞してからはカフェを経営するなどし、やがて東京に向かい、そこで客死した。活動期間は短かったものの、現在の韓国でも熱狂的な人気があるという。

今回紹介する光文社古典新訳文庫『翼 李箱作品集』は、近年韓国文学の翻訳で大活躍している斎藤真理子の編訳による、李箱の小説、詩、随筆や書簡までを集めた作品集だ。

 

日本経由のモダニズム

 

冒頭に収められた詩「烏瞰図」、そして表題作「翼」まで読み進めて驚かされるのは、その鮮やかで挑戦的な言葉遣いと形式だ。

それはまさにモダニズム小説というべき、20世紀初頭に特有の、近代社会の到来に対応する実験的なスタイルなのだ。現に作者は横光利一などの影響を受けているとのことで、横光をはじめとした日本の新感覚派とも共通するムードを持っている。

また言うまでもなく当時の日本のモダニズム詩や文学の一部はダダ未来派シュルレアリスムといったヨーロッパの前衛運動に影響を受けており、この李箱もそのような世界的な潮流の中にいるということが一読して伝わってくる。

下記は表題作「翼」の冒頭で、本編に入る前に、四角い枠に囲まれて書かれた序文のような部分。

 

「剥製にされた天才」をご存じですか?
私は、愉快だ。こんなときには、恋愛までもが愉快なんです。
 
肉体がぼろぼろになるまで疲労したときにだけ、私の精神は銀貨のように清らかに澄みわたります。蛔虫だらけの腹の中ヘニコチンが染みてゆくとき、頭の中にはいつも白紙が一枚用意され、その上に私はウイットとパラドックス碁石のように並べて遊ぶのです。これぞ恐るべき常識の病です。私はまた、女と生活を設計します。恋愛術をひねくり回すことにも飽いてしまった、知性の行きつく果てをちらりとでも垣間見たことのある、いわば一種の精神逸脱者とともにですよ。こうした女の半分だけ──それはすべての半分でもある──を受け取って、それを我が物として生活を設計するわけだ。そんな生活に片足突っ込んで、まるで太陽が二個あるみたいに向き合ってくすくす笑っているのですよ。私はどうやら人生のもろもろがどうにも味気なく、耐えがたくなって、降りてしまったみたいです。グッ・バイ。
 
グッ・パイ。ときには、あなたがいちばん嫌いな食べ物をむさぼり食うというアイロニーを実践するのも良いことじゃないか知らん。ウイットとパラドックス……。
あなた自身を偽造するということも、やって甲斐ある行いかもしれませんよ。あなたの作品は、見たこともないあなたの模造品が作られていくことによって、いっそう手軽にも、いっそう高尚にもなるのでしょうから。
 
十九世紀はできれば封鎖してしまうがよろしい。ドストエフスキー精神などと いうものは、一歩間違えたら浪費です。ユゴー仏蘭西パンの一かけだとは誰が 言ったものやら、至言と思われます。
(李箱『翼』表題作より)

 

しかし、形式において挑戦的であっても、ここに収められたいくつかの小説は決して難解なものではないと思う。

その内容は、ほとんど私小説的と言ってもいいような、作者と当時のパートナーとの関係をかなり直接的に反映した物語だ。

李箱は療養に訪れた温泉地で知り合った妓生をソウルに呼び寄せ、彼女を店主としてカフェを経営するなどしており、「翼」「蜘蛛、豚に会う」「逢別記」といった短編小説はその当時の生活をもとにして書かれているらしい。

 

なお注意してもらいたいのは、これらの小説や随筆は主に1930年代に書かれたもので、当時の男性の女性蔑視的な視線や男女の社会的な格差、また当時の朝鮮に前世紀から残る保守的な価値観を色濃く反映している。特に現在、韓国文学やエッセイとして多く翻訳されているような、近年の韓国のフェミニズム的な書物とは内容的にも時代的にも全く違うものなのでその点は留意してほしい。

小説に反映された作者とパートナーとの関係も、現在の目で見るとかなり搾取的なものに映るだろう。(なおそれは日本の近代小説においても同様ではある)

 

また李箱の小説においては、日本の植民地支配に対する批判的な視線は、少なくとも直接的には現れない。

斎藤真理子は李箱のことを、「近代化・植民地化に見舞われる朝鮮半島にて新しい文学を求めた孤高のモダンボーイ」と書いている。

朝鮮の近代化は、日本による植民地化と同時に始まった。近代の到来による社会の変化は、植民地支配と不可分のものとして経験されたのだ。

植民地化と同年に生まれた李箱はその状況を生まれながらのものとして育った世代であり、その文学や芸術への志もまた朝鮮総督府による日本文化の強制と無縁ではありえない。

日本から西洋へのまなざしが生んだのが日本の近代文学だとすれば、さらにその日本との不可分の関係によって生まれたのが当時の朝鮮の文学と言えるだろう。

(この作品集には李箱が日本語で書いた詩も収録されている)

 

近代日本の陰画

 

「翼」において、妻と小さな部屋に住む語り手は、訪れた「客」が妻に手渡す金銭によって無為に生活している。妻との奇妙で複雑な関係に追い立てられるようにふらりとさまよい出た語り手は、京城の街にある三越の屋上へ向かう。この三越は1930年に開業した、朝鮮最初期の百貨店である。

 

コーヒー──それもよし。だが京城駅のホールに一歩足を踏み入れたとき、僕はポケットに一文もないのを忘れていたことに気づいた。また目の前が暗くなった。ここはどこなのだろう、僕はただぐったりして、おろおろして、途方に暮れるばかりだった。魂の抜けた人間みたいにこっちへ行ったりあっちへ行ったりして……。
どこからどこへ無闇にほっつき歩いたものだか、一つも覚えていない。ただ、何時間かして自分がミツコシの屋上にいることに気づいたときには、ほとんど真昼になっていた。
僕は屋上の適当なところに座り込み、自分の生きてきた二十六年間を振り返ってみた。朦朧とした記憶の中からは、それらしい主題など一つも出てこない。
僕はもう一度、自分自身に尋ねてみた。お前には何か、人生に対する意欲はあるのかと。だが、あるともないとも、そんなことは答えたくなかったんだ。僕にはもうほ とんど、自分の存在を認識することさえ難儀であったから。
(略)
このとき、ポーと正午のサイレンが鳴った。人という人がみな、鶏がばさばさと羽ばたきをする姿のごとく両手両足を伸ばし、すべての硝子、鋼鉄、大理石、紙幣、インクがぐつぐつと沸き返り、がなり立てているかのようなこの刹那、まさに燦爛たるこの正午。
にわかに脇がかゆくなる。あはア、これは僕に人工の翼が生えていた痕だ。今はもうない僕の翼。頭の中で、希望や野心という言葉が抹消された本のページが、辞書をめくるようにちかちかと点滅する。
(李箱『翼』表題作より)

 

語り手の直截な独白とともに、「硝子、鋼鉄、大理石、紙幣、インク」と、近代都市を特徴づける新たな素材が列挙される。

私たちから見れば、このような李箱の小説は、いわば日本の近代小説の陰画のように思える。

私たちが親しんでいる日本の近代小説は、基本的にはその全てが帝国主義時代の日本において書かれたものだ。朝鮮半島の植民地支配は1910年からであり、例えば夏目漱石が死去し芥川龍之介がデビューするのが1916年だ。

日本の近代文学を切り開いた作家たちの背後には、この李箱のような、日本によって強制的にもたらされた近代を生き、そこから新たな小説を生み出していた作家がいるのだということを、この作品集は教えてくれる。

その両者はつねに、非対称性のうちに重なり合っている。日本の近代小説の傍らには、つねに彼らの小説があるのだ。

訳者による、60ページを超える充実した解説とともに読んでほしい。

 

次の一冊

李箱を読んで直接連想したのが、本人も影響を受けたという横光利一の小説。日本近代文学きってのモダニストである横光の代表作を集めた文庫がこちら。

 

そのうち読みたい

 

本書の訳者である斎藤真理子による、韓国文学について書かれた本。こちらは戦後から朝鮮戦争を経て現代までの時代を扱っているようだ。

(「韓国文学」と言っている以上当然なのですが)