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チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』 多声的に語られる、韓国独裁体制下の苦難

70年代の韓国を描いたベストセラー

 

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨンを始めとした数々の韓国文学の翻訳により、今ではすっかり日本を代表する韓国文学の紹介者として知られている斎藤真理子だが、今回紹介するのはその訳業の原点になったという小説だ。

 

1942年生まれの作家チョ・セヒによる小説『こびとが打ち上げた小さなボール』は1978年、韓国が過酷な独裁体制のもとにあった時代に刊行され、以来300刷を超えて読まれ続けている大ベストセラーだという。(日本語版は2016年単行本→2023年文庫化)

しかし、その内容はとても重いものだ。20年以上にわたって続く独裁体制、そして70年代の韓国を襲った急速で無慈悲な都市化と再開発の経験が、この物語の中に生々しく反映されている。そしてこの小説は、もともと連作短編という形をとって様々な雑誌に散発的に発表されたものなのだが、その発表手段自体が検閲を恐れてのことだったという。文庫版の帯には作者自身による、「この悲しみの物語がいつか読まれなくなることを願う」という言葉まで引かれている。

 

差別と貧困の中にいる主人公たち

 

連作短編の形で書かれたこの小説には、幾人かの主人公たちがいるのだが、最も重要なのは、題名にもなっている「こびと」とその家族たちだ。

身長1メートルあまりの「こびと」は、心無い差別を常に受けながら様々な職を転々とした後、配管工として働いている。彼には妻、二人の息子、一人の娘がおり、スラム街の無許可住宅で暮らしている。この小説の大部分は、差別され、搾取される立場である彼らの物語だ。

1970年代の、特にソウルで起こった急速な再開発、マンションの建築は、彼らのような者たちが住むスラム街を一掃していったという。この小説においても、こびとの一家や他の住人たちは強制的な立ち退きを迫られている。

立ち退いた人々には新たに建つマンションの居住権が与えられるのだが、彼らの多くには、そこに実際に居住するために必要な金銭が無い。そこで、彼らはそのマンション居住権を売るのである。

当時の韓国では、マンション居住権が投機の対象になり、さかんに売買されたという。この小説でも、登場人物たちはかけがえのない住処を追い立てられ、あるいはハンマーで破壊され、そしてその代償となるはずのマンション居住権は安く買い叩かれていく。

 

みんなが父さんを「こびと」と呼んだ。彼らの目は正しい。父さんはこびとだった。でも、彼らに見えていたのはそれだけだ。それ以外のことは何も見えていなかったのだ。僕は、父さん、母さん、ヨンホ、ヨンヒ、僕という五人家族のすべてをかけて、彼らは間違っていたと言うことができる。「すべて」とは、僕ら五人の命を含む。
天国に住んでいる人は地獄のことを考える必要がない。けれども僕ら五人は地獄に住んでいたから、天国について考えつづけた。ただの一日も考えなかったことはない。 毎日の暮らしが耐えがたいものだったからだ。生きることは戦争だった。そしてその戦争で、僕らは毎日、負けつづけた。母さん はあらゆることによく耐えていた。けれどあの日の朝だけは耐えられなかったらしい。
「町内会長がこれを持ってきたよ」
僕は言った。母さんは狭い板の間の隅に座って、朝ごはんを食べていた。
「ああ、とうとう!」
母さんは言った。
「家を取り壊せというんだろう? いよいよ始まるんだね。試練っていうものが」
母さんは食事を中断した。僕はそのお膳を見下ろした。麦飯、黒みそ、しなびた唐辛子二、三個と煮つけたじゃがいも。
僕は母さんのためにゆっくりと撤去警告状を読み上げた。
(「こびとが打ち上げた小さなボール」より)

 

こびとの3人の子どもたち、ヨンス、ヨンホ、ヨンヒは、満足に学校に行くこともできず、工場で働き始める。彼らは過酷な条件下における労働でたちまち疲弊していく。

やがて青年となった彼らは労働運動を知り、組合の一員として使用者たちと対峙しようとする。しかし当時の韓国においては労働組合への弾圧は激しく、彼らは絶望的な戦いに身を投じていくようにも見える。

そして工場は大量の廃水を河へ流し、生物は死に行き、有毒なガスが発生して人々を苦しめる。

 

この小説で書かれるのは、ほとんど全てがこのような物語だ。差別と貧困、都市化と再開発、過酷な工場労働と労働運動、そして公害。これらの背景から、日本の高度経済成長期の出来事を思い起こす読者も多いだろう。

 

多声的に語られる物語

 

この物語に登場するのはしかし、こびとの家族たちだけではない。

この連作短編を重層的なものにしているのは、それぞれの短編の主人公となる、他の登場人物たちの存在だ。

こびとに水道管の修理を頼むことになるシネは、郊外の住宅地に住む中産階級の女性だ。彼女はこびとに共感を抱き、暴力を振るおうとする人々から守ろうとする。
また冒頭に登場する「せむし」「いざり」はやはり家族を持つ貧民街の住人で、手放したマンション居住権を取り戻そうとしたり、見世物の巡業に加わって生計を立てようとする。

そしてさらに別の視点をもたらすのは、裕福な法律家の息子であるユノだ。彼は有名大学への合格を望む父につけられた家庭教師との出会いによって、貧富の差や労働運動について学ぶようになる。しかし彼はどこまでも資本家階級の暮らしのうちにおり、ここではその葛藤や無力感が描かれていく。

 

「私、知らなかったのよ」 
キョンエが言った。
「それが君の罪」
ユノが言った。
「知らずにいた人たちすべての罪だ。君のおじいさんは恐ろしいほどの力を思いどおりにふるってきた。今ぐらい、大勢の人が一人の要求に従って働いたことは、これまでなかっただろうな。君のおじいさんはあらゆる法律を無視した。労働強要、精神的・身体的自由の拘束、賞与と給与、解雇、退職金、最低賃金、労働時間、夜間及び休日勤務、有給休暇、年少者の使用なんかだ。今言った不当労働行為のほかに、労組活動の抑圧、職場閉鎖脅迫なんかについても違法事例が数えきれないぐらいある。僕、こびとのおじさんの娘が読んでいた本を見たんだ。君のおじいさんが言ったことがそこに書いてあったよ。今は分配のときじゃなくて、蓄積のときなんだって。そして君のおじいさんは亡くなった。誰に、いつ、どうやって分けてやるの? 君のおじいさんは、死んだこびとのおじさんの息子と娘と、あの幼い同僚たちに与えるべきものを何も与えなかった。そして君はそれを知らなかったんだろ? 知らなかったから、休暇にはおじいさんが所有してる美しい島に行って過ごして、真っ赤な自家用車に乗って、毎日、肉や新鮮な野菜が並ぶ食卓について、あったかいベッドで男の子のことを考え、その子を引っ張り出すために気の毒な子どもたちを売ったんだろ? 君はそろそろ自分自身で、自分の罪から抜けだすべきだ。今までは君たちのためにこびとのおじさんの息子や娘や、その幼い同僚たちが犠牲を払ってきた。今からは彼らのために、君が犠牲を払う番だよ、わかる? 家に帰って大人たちにそう言いな」
(「過ちは神にもある」より)

 

この『こびとが打ち上げた小さなボール』は、明確に社会的・政治的なメッセージを備えたシリアスな小説だが、その内容は決して一面的なものではなく、上記のような様々な人物の視点によって多声的に語られる。

またここで語られる物語はリアリスティックなものばかりではなく、時には幻想的な描写があったり、過去と現在が溶け合って描かれたりもする。(訳者あとがきによれば、発表当時には「このように難解な小説では労働者自身には読めない」という批判もあったそうだ)

 

そしてまた、この小説は非常に重く深刻な内容を扱っているが、しかしひとたびそれぞれの短編を読み始めると、物語の強い力に引っ張られ、途中で止めることができないほどだ。

苛酷な状況を生きる登場人物たちの、どうにか生きて行こうと苦闘する姿。あるいはそんな彼らが、ふとした時に家族や近しい人々との思い出の中に生きる姿。政治と、経済と、彼らの人生が深く結びつき、そして力強い物語となって始まりから終わりへ向けて流れていく。とても濃密な読書体験だと思う。

そして、作者はこの物語がやがて読まれなくなることを願ったが、残念ながらこれは現在の日本に生きる私達にとってもいまだ切実な物語だろうと思う。

斎藤真理子が自らの原点となったこの小説について語る訳者あとがきのほか、四方田犬彦による時代背景も含めた詳細な解説を収録。

次の一冊

 

このブログでは斎藤真理子訳による韓国(朝鮮)の小説をこれまでにも2作紹介している。それぞれ別の時代に書かれたものだが、合わせて読めばそれぞれの小説をより立体的に楽しめるだろう。

pikabia.hatenablog.com

 

そのうち読みたい

 

その斎藤真理子による、韓国文学のガイドブック。朝鮮戦争や日本との関係が、韓国文学に大きな影響を与えているという。