もう本でも読むしかない

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松浦理英子『最愛の子ども』 危うい関係を曖昧に描き切ること

一般的な枠組に分類できない種類の人間関係を書く

 

最新作『ヒカリ文集』が発売されたばかりの松浦理英子だが、ここではその前の作品である『最愛の子ども』(文春文庫)を紹介しよう。2017年に発表され、泉鏡花文学賞を受賞した作品だ。2020年に文庫化されている。

私が読んだのは作者の長いキャリアの中の5作ほどにすぎないが、松浦理英子は『セバスチャン』『ナチュラル・ウーマンといった1980年代の作品から現在に至るまでずっと、規範的ではないセクシャリティ、あるいは一般的な枠組みに分類できない種類の人間関係について書いてきた作家だと思う。

この『最愛の子ども』もそのような小説だ。

 

「わたしたち」視点の小説

 

物語の舞台は高校の女子部のあるクラス。クラスには「パパ」「ママ」「王子様」と呼ばれ、合わせて「ファミリー」とされる三人の女子生徒がいた。自称ではない。クラスメイトの女子たちが三人をその呼称で呼び、教室で、学校で演じられるその関係性をまるで劇場の観客のように見守っているのだ。

この小説の最大の特徴はその語りの形式にある。一人称でも三人称でもなく、「わたしたち」を主語として語られるのである。

この「わたしたち」は、前述のファミリー三人を見守るクラスメイトたちを示す人称だ。小説は最初から最後まで、ファミリーを見ている「わたしたち」によって語られる。しかしクラスメイトたちは匿名ではない。ちゃんとそれぞれの名前も性格も言葉もあり、個人として登場する。

つまりこれは、それぞれ独立した個人の、しかし集合によって語られる小説なのだ。すると当然、そこで語られていること、描写されていることの、責任のようなものを引き受ける主体が曖昧になる。

一体誰が語っているのか。一体誰がそう思っているのか。一体何の権利があってそのようなことを言っているのか。全ては曖昧だ。おそらくそのこと自体がこの小説の目論見だろうと思う。曖昧な主体が、曖昧なままで、ある個人たちのことをあれこれ言っているということ。

 

ファミリーの三人には、親と子を含む家族という、同い年の高校生たちにとっては過剰な役割が与えられている。本人たちも、なんとなくそれを受け入れてそのように振る舞い、それを見るクラスメイトたちは、ある意味でそれを消費している。そのような非対称性、見るものと見られるものの間の関係の危うさがある。そして過剰で戯画的な物語をなんとなく引き受けながら、それに同一化したりしなかったりしつつ日々を過ごしていくファミリーの三人。この小説では、このようなことが丁寧に繊細に、そして淡々と描かれている。

 

 空穂登場以前の、日夏と真汐のなれそめについても述べておいた方がいいだろう。日夏と真汐は中等部で出会い仲よくなった、ですませれば簡単なのだけれど、かりにも二人をわたしたちの世界の王と王妃にするのであれば、わたしたちが憧れるような甘美で劇的な愛の逸話が二人を結びつけたのでなければならない。憧れるといっても、決して同じ体験をしたいわけではなく、そもそも自分たちははなからそういう体験をする資質を欠いていると承知している類のものだ。

 二人は中学一年と二年は別々のクラスだった。一学年に女子クラスは二つしかない学校だから、二年も通えば同じクラスになったことのない女子生徒でも顔見知り程度にはなる。まして、授業中教室が私語であまりにも騒がしい時とか、教師が無神経なことを言ったりした時に、黙って勝手に教室から出て行ってしまうので有名だった真汐が、一人仏頂面で廊下を歩いて行くさまを、日夏は授業を受けながら廊下側の窓越しに見ていたことだろう。(「第二章 ロマンスの原型」)

 

曖昧な視線と距離感が表現する倫理

 

ファミリーの三人にも、クラスメイトたちにも、それぞれの悩みや問題があり、いろんな出来事も起こる。そのような問題や出来事も、先に述べたような視点、「わたしたち」による曖昧な視線の中で、独特の距離をもって描かれていく。

「わたしたち」のゆるやかな共同性が壊れることはなく、「わたしたち」とファミリーの間の距離が消滅することもないので、ある意味でこの小説は何も起こらない小説なのかもしれない。

しかし、この曖昧な視線と距離感の中でこそ、この高校生たちの人生がリアルに存在していると感じられるのだ。そして、彼女たちの間のつかず離れずの関係もまた。

この小説は、例えば人称や、感情や、距離感など、普通の小説でははっきりさせるべきことをはっきりさせないことによって、他の小説ではありえない手触りを生み出している。それは他の小説にはない種類のリアリティだ。

 

そして、この小説において、たとえ様々な事件が起こったとしても全体の枠組みは変化しないことは、ある意味では希望でもある。それは、登場人物たちに対する肯定だからだ。

様々な事件を経た上で、この小説は登場人物たちに、そのままでいることを許す。曖昧な集団による観察と、役割を与えられたファミリーとのゆるやかな関係のままに。

この小説は、彼らの関係性の是非について判断を下す小説ではない。松浦理英子はおそらく、そういう種類の作家ではない。そして思うに、作家にとっての倫理とは、必ずしも問いに対して答えを示すことにではなく、問いに対していかに対峙するかを示すことにあるのではないか。この小説はそのような倫理を示していると思う。

わかりやすい変化を求めないこと。性急に責任を誰かに帰属させないこと。起こったことの価値を判断して定義しないこと。

それを日和見や順応主義だと感じる読者もいるかもしれない。しかしこれは、そのような倫理もあるということを、内容ではなく形式で示した小説だと思う。

 

次の一冊

 

この『奇貨』も比較的最近、2012年の作(といっても10年前だが)。あまり人と関わらずに生きている中年男の主人公は、レズビアンである親友とその恋人との関係に心を惹かれていく。これもまた、なんとも分類や定義のしがたい人間関係について書いた小説であり、そのこと自体がとても良い。

このナチュラル・ウーマン』は1987年の初期作。女性同士の荒々しい恋愛を描いた表題作を含む、三篇の連作中編が収められている。初期作ならではの強烈な迫力があって、上記二作とはかなり違った雰囲気。

 

そのうち読みたい

 

そして刊行されたばかりの待望の最新作がこの『ヒカリ文集』。ある劇団にかつて在籍した女性団員を、他の団員たちが振り返る形の小説とのこと。『最愛の子ども』の形式をさらに発展させたものだろうか。読むのが楽しみである。

※紹介しました!

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